デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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「忘れられた美」 その4

「ビデオドキュメンタリー」を想定して書き始めたこのシリーズ、3話まではデービッドがなぜそれほど日本の伝統木版画の虜になったか、について説明してきました。今回は、このことがどの様な形で彼の作品に反映されているかを追求していくことにしましょう。

「伝統木版画の忘れられた美」
「第4話 20年の旅」

[カメラ] 私たちは薄暗い講堂にいます。ステージの一か所にスポットライトが当たっています。誰もいません。でもカメラが近づいていくと見えてきます。ステージの上に広がっているのは、展示パネルに取り付けられた一連の作品です。大写しにしていくと、それが木版画だということが分かります。貴族の衣装を身に付けた男女の絵で、それぞれの版画には歌が筆で書かれています。作品を見ながら、インタビューをする人とデービッドが話をしています。

[インタビュー] 「何枚あるのですか。本当にデービッドさんが全部を制作したのですか。どれくらいの時間がかかったのですか。」

[デービッド] 「ええ、百人一首ですから百枚あります。はい、全て自分で作りました。アシスタントもなしです。1枚1枚を版木に彫って、どの色も自分で摺りました。実際、時間は掛かりましたよ。当初、全作品を作るのに10年かかると思いましたが、まったくその通りでした。1989年1月から1998年の12月まで要したのです。」

[インタビュー] 「この企画を始めた時はおいくつでしたか」。

[デービッド] 「37才でした。次の質問は、想像できますよ。10年もかかる企画をどうして始めたのかって思っているでしょう。答えは簡単です。この企画が『大規模過ぎ』て『困難過ぎる』からです! この年齢に達して、そろそろこんな風に思っていましたから。『デービッド、もしも何かを成し遂げようと思うのなら、正念場だぞ。時は止まってくれないのだから!』と。僕は運動が得意ではないから、エベレストに挑戦するようなことはしません。だから、僕なりのエベレスト登頂を編み出したのです。『制覇の標的はここにあり、取り組め!』ってね。」

[インタビュー] 「そんなに長い間、企画への意欲を継続することができたのですか。」

[デービッド] 「できましたとも! 僕が選んだ企画は、とても奥深い内容のものでしたから。(1775年、勝川春章作)人物の表情は豊かですし、着物の模様も実に様々、それに毛筆で書かれた昔の書を読むのはなかなか大変でした。

「百人一首は日本の古典文学を代表するものの一つですから、この作品を制作するということは、日本の文化と歴史について修士号を取得するのに匹敵するほどの課題でした。」

[インタビュー] 「これだけ大規模の企画ですから、何か補助金のようなものを受けたのですか。」

[デービッド] 「えっ、とんでもない! そういった補助はまるで受けませんでした。最初の頃は、まだ英語を教えていましたから、予備の時間を使って制作していたのです。でも企画内容が確立してくると、語学教材を片付けて版画制作だけで暮らせるようになりました。それに、当初私の企画に賛同してくださった方たちの中には、現在も共に歩んで、私の全作品を収集してくださっている方がいるんですよ! マスコミの注目を集めたことも手伝って、その頃はテレビにも頻繁に出演しました。道を歩いていると呼び止められてサインを求められることもよくあったのです。近頃はまったく起きない話ですがね!」(笑い)

[インタビュー] 「その頃のことですが、版画家としての活動を続ける上で、どんなことが強く記憶に残っていますか。」

[デービッド] 「ちょっとしたジェットコースターのようでしたね。10年もあれば、たくさんのことが起きますよ! 最初の頃は経済的にきつかったです。企画を遂行して満足な結果を出せる、という技術面での自信もありませんでした。でも年を経るにつれて腕が上がってゆき、それに連れて自信も付いてきました。最終段階に入る頃には、終わってしまうことが悲しくなってきました。」

[インタビュー] 「それからどうなりましたか。エベレスト登頂を果たした後の登山家が、その次に何を目指したかということです。」

[デービッド] 「エベレストから戻ってきた登山家は、達成したことについて講演をしてまわったりします。彼の冒険について本を書くかもしれませんね。私の場合も、そういったことが一つの選択肢でした。マスコミの注目度は高かったので、注文は限界まで増えていましたし、この人物とその『業績』についてもっと知りたい人はたくさんいました。

「でも、自分がいつまでも『百人一首の人』と思われるのは避けたかったのです。まだ47才でしたし、ライフワークがこの年で完成しちゃうなんて思う人はいませんよ。

「ですから、企画の最終段階で集中したマスコミの注目はありがたかったのですが、私は次の『摺物アルバム』という企画を発表したのです。そして、百人一首シリーズ完成展示会が終了してひと月も経たないうちに、次の作品を作りました。」

[インタビュー] 「もうひとつのエベレストですか。」

[デービッド] 「う〜ん、イエスでありノーですね。再び10年企画を立ち上げたわけではありませんから。これは、終わりを設定しない企画でした。結果としては、5年間に50枚の作品を完成しました。」

[インタビュー] 「そのシリーズのテーマは何でしたか。」

[デービッド] 「開始した頃の基本構想は、『繊細で細部を詳細に表現した作品を、経済性を無視して制作する』ということでした。昔『摺物』というジャンルの木版画があり、ほぼそれと同じ狙いの作品です。でも、企画が進行するに連れて、また別の注目点が明らかになってきたのです。このシリーズの御陰で、修士卒業後の5年間も続けて修行することになりました。

「『百人一首シリーズ』を手がけていた10年間は、どれも同じ形式の作品だったので、様々な木版画の技法を試すことができないという点で、前進を阻まれたような部分があったのです。春章の作品ができた1775年に閉じこめられてしまったような感じでした。ですから『摺物アルバム』の制作をすることで、300年間に開拓された様々な彫や摺の技法に思う存分挑戦することができたのです。

「私は50枚の作品を、それぞれこんな気持で選んできました。『一体どうやって摺ったのだろうか。』とか『これ、僕に彫れるだろうか。摺れるだろうか。』

「安全対策はまるでない状態で仕事を進めていましたから、どの作品に取り組むときにも背水の陣でしたよ! 収集家の方たちは、送られてくる作品を知らずに10枚分の予約をしていましたから、毎回届く包みの中にどんな作品が入っているか楽しみにしてくださっていました。その方たちを失望させるか否かは、すべて私の腕にかかっていたのです!」

[インタビュー] 「その企画はどんな結果になりましたか。」

[デービッド] 「私が答えるのはちょっと無理ですね。答えが分からないからではなく、謙虚であろうとするからですよ!

「でも正直に言えば、50枚の作品は僕の成長ぶりを如実に示していて、その前の百人一首を凌ぐ素晴らしい出来だったと思います。『摺物アルバム』の中には、過去に作られた版画の中で、その繊細さが最たる特徴とも言える作品があり、味のある線を克明に彫ってあります。しかも私は、言わばパートタイマーの彫師ですよ。摺の方も自分でしていますからね。

「今当時を振り返ると、『ひとりでこんなにやったなんて、信じられない』という表現が頭に浮かびます。このシリーズ自体が、日本の伝統木版画の百科事典とも言えるほどですから。毎年10枚の作品を選び、そのほとんどはかなりの多色摺でしたが、どれも200枚ずつ摺りました。今こう言うのは時期尚早かもしれませんが、あんな限界知らずの体力を要する仕事は二度とできない気がします。」

[インタビュー] 「お聞きしていいものか、ちょっと迷うのですが、もう次のエベレストには登りませんでしたよね。」

[デービッド] 「おっしゃる通りで、その表現を使うのはそこで終わりにした方がいいでしょう。その次のシリーズは『四季の美人』というテーマで、簡単に言えば摺物アルバムの延長線上のような作品集と言えます。違いは作品の大きさでした。

「版画の大きさが増すと、摺は急に難しくなります。摺物アルバムのように比較的小さな作品の場合は、それなりに摺をこなすことが出来たので、もっと大きな作品を手がける時が来ていると感じたのです。四季を代表する4人女性は、異なる時代から選びました。選択の基準は、挑戦を要する作品であること、芸術的な魅力のある作品であること、そして収集家の方たちに好まれる絵であること、でした。

「なんだか壊れたレコードみたいですが、この企画もまた私の要求をかなえてくれるものでした。私がこの『四季の美人』集に寄せる思いを端的に表現すれば、こんな風になるかも知れません。もしも突然仕事場が火事になって、たったひとつしか持ち出せないとしたら......。」

[インタビュー] 「分かりました。このことは、他の『お子さん』たちには内緒にしておきますから。お話を始めたときに、毎年新しい作品集を制作してきたとおっしゃっておられましたが、ちょっと詳しく説明していただけますか。」

[デービッド] 「ここまでお話してきた企画はそうでした。百人一首は毎年10枚ずつ、摺物アルバムも同じです。こうしてきたのは、ふたつの理由からでした。まず、それまで私は毎年1月に展示会を開いて前年に制作した10作品を紹介してきたからです。ふたつ目の理由は、集める方の立場を考え、1年間に作る作品をほど良いまとまりにしたかったからです。私は、作品を単体で販売することはしませんから。

「そして、その次も『版画玉手箱』という1年間の企画でした。これは、それこそ冒険でした! 4作ではなく、10作でもなく、24作品だったからです!」

[インタビュー] 「1年間にですか。ちょうど2週間に1作品のペースですよ!」

[デービッド] 「その通りです。きっかりその通り予定し、収集家の方たちには隔週の月曜日に『プレゼント』が郵便受けに届くと約束をし、実行しました。」

[インタビュー] 「きっと小さめの版画だったのでしょうね。」

[デービッド] 「それはそうです。葉書版でした。それでも、私のことですから、大きさこそ小さいですが、内容も小規模という訳ではなかったのです。作品全体であらゆるジャンルを網羅していますし、細部を観察すると見応えのある部分がたくさんあります。実り多い1年でしたが、お分かりのように2週間毎の締め切りは大変なプレッシャーでした。ですから、次の企画を考えるときには、何が起きたか想像できますよね。」

[インタビュー] 「年に10作品のパターンに戻ったのですか。」

[デービッド] 「いいえ、過剰反応し過ぎて、1枚だけのシリーズを提案してしまいました。1700年代に懐月堂安度が画いた素晴らしい絵を、掛軸に仕立てる案です。」

[インタビュー] 「どうして過剰反応し過ぎなんですか。」

[デービッド] 「その絵を彫って摺り、掛軸として表装し、お客様にお届けするという全行程を1年でするのですから、並大抵の仕事量ではありません。実際、1年半かかってしまいました。ですから、1年に1シリーズという方針は、ここでうまくいかなくなり、まだその調整がつかない状態です!」

[インタビュー] 「今現在の企画について伺う前に、デービッドさんの作品を集めていらっしゃる方たちについてお聞きしたいと思います。『収集家』とう言葉を使っていらっしゃいますが、その方たちは『美術収集家』ですか。」

[デービッド] 「それが、違うのです。そう自称する方はきっと少ないでしょう。ほとんどは、ごく普通の人たちです。おひとりずつ動機は違うと思いますが、みなさんが私のしていることに社会的意味を感じ、活動を助けるに値すると思ってくださっています。

「私は欲張りではなく、自分の作品は手頃な価格にしていますから、参加しやすいのです!」

[第4話終了]

(次回第5話では、今まで数多くされてきた質問を取り上げます。「一塊の職人でしかないということに、なぜ満足できるのですか?」という問いです。)

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