デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 2007

今号は、いつもより随分と遅れてしまいました。新企画は本の装丁を取るほど文章が長いので、書く方の私とそれを訳す貞子の双方にかなりの負担がかかっているのです。それで、臨時に割り込むニュースレターが繰り伸ばしになってしまいました。

記憶していらっしゃるでしょうか、前号で土井さんの版画展を御紹介しました。展覧会は大成功で、その様子をちょっとお伝えしようと思います。

今後では、復刻からオリジナル作品を作るようになった私の状況について、かなりのページを割いています。後はいつものように貞子のコーナーと続きますが、今年の「プレゼント用版画」の企画についても記載しています。お見逃しなく!

A氏 と B氏

私は18年間も木版画を作ってきましたが、その作品はほとんどが復刻でした。ところが今年からは、自身がデザインして創り出す版画に取組んでいます。きっと想像できることと思うのですが、この変化は様々な面で私の仕事のやり方に影響を及ぼすようになりました。もちろん木版画ですから、彫り摺りという作業はすべて同じですが、それでも180度違うのです!

復刻をしていた時、私に要求されたのは主に技術的なことでした。毎回新しい作品に取組む時には、すでに原作があるので、それを頼りに制作をしました。何をすればいいかを考える必要はなく、どのように作ればいいのかが私の課題でした。線があればそれを彫り、色があればその色を摺る。ま、これはちょっと誇張かも知れません。復刻をするためには、味のある線を彫るとか微妙な色合いを作りだすとかいった芸術的な視点も必要ですから。ロボットには到底できない芸当です。でも絵そのものはもう決まっているので、作業はほとんど技術で進めてゆくことができました。

ところが、毎回空白のキャンバスに絵を画くことから始めるとなると、話はまるで違ってきます。写し取る線は一本たりとなく、同じ色を出すために絵の具を混ぜるという作業もなし... ある意味では、何をしても構わない!しかも、間違いという存在がない!創作者である私が、ある場所にこんな青を塗ろうと決めれば、誰も反対できない。ところが、これほどまでに自由度が高いと自分を縛る規則がなくなってしまい、逆にどうすれば「良い」か決められなくなってしまうのです。

今シリーズで制作しているのは抽象画ではなく、かなり写実性のある作品です。ですから、この難問への解答のひとつとして、実際の風景と自分の絵を比べるということが挙げられます。この木は本物に似ているだろうか、この山は本物そっくりだろうか。でも、現物そっくりにすることばかりを狙うのなら、むしろ写真を撮った方がいいくらいでしょう。木版画で表現する場合、木は木らしく見えなくてはいけないけれども、リアル過ぎてもいけない。このバランスをつかむところこそが、私にとっては至難の業なのです。

この難しさは、性格に起因します。ちょっと話は変わりますが、ふたりの人を想定してみてください。仮にA氏とB氏にしてみましょう。A氏に手近にある紙と鉛筆を渡すと、さっと腕を動かし目の前で何かを画いてしまう... なかなか面白い絵です!一方B氏の場合は全く違い、まず最初から最後まで計画を立てます。座り込んでどのように仕事をするか考え、それから長い時間をかけて慎重に作業をする。仕上がりはやはり良いものとなりますが、そこに達するまでの経過はまるで違うのです。

昔、木版画は協同作業で作られました。A氏のような絵師が下絵を画き、B氏のような彫師や摺師が何百枚もの版画を作ったことは容易に想像できることでしょう。持ち場に適した人材が仕事をこなしたのです。

ところが20世紀に入ると、日本の木版画は大きく変化しました。西洋からの影響を受けて版画界に新らしい動きが起こり、「創作版画」というジャンルが生まれたのです。絵を画いた人が自身で彫と摺をして、最終的に版画作品にするまでのすべでをひとりで行います。A氏のような性格の人は、創造性に富んではいるものの版画自体を丁寧に作ったりはしません。摺る枚数は少なく、出来は均一にならないでしょう。棟方志功などはこの典型的な例と言えるでしょう。彼の版画は芸術性が高く評価されていますが、私のような者から見ると、版画としては「上出来」と言い難いところがあります。

簡単に言えば、創造エネルギーの高い人は高精度の版画を何枚も作る程自分を制御できないということです。しかるに訓練を積んで緻密な仕事のできる冷静な人は、「創造の閃き」とはほとんど縁がないのです。ひとりの人の中に両方を見いだすのはおよそ不可能なことです。

そして私は、一体どこに位置づけられるのでしょう?ここ20年ほどの間、私は明らかにB氏でした。しっかりと仕事の手順を考え計画を立てて、昔の版画の細部まで緻密に復刻してきました。ですから、よくこう言ったものです。「私は芸術家ではありません。職人なんです!」ところが現在は、オリジナル作品を連続して制作する企画の真っ最中です。A氏とB氏の両方を脳裏に浮かべて、優れたデザインを優れた技術で版画に仕上げようとしているのです。

  • A氏:ここに何本か木を画いておいたよ。
  • B氏:えっ、これは何だい?この木は梢の方が太いじゃないか、そんなの見たことないぞ。
  • A氏:僕は芸術家だよ。こんな風に画きたかったのさ。
  • B氏:奇妙だよ。
  • A氏:これでいいのさ。

..... あるいは ......

  • A氏:おいおい、この木の幹に何をしてるんだい。そんな小さな樹皮の窪みまで彫ってどうするんだい。そんな細かいところまで必要ないんだよ。
  • B氏:でも、あった方がいいじゃないか。
  • A氏:そんなに写実的にやってたら彫るのに何日もかかっちまう。省略だよ。
  • B氏:(ひたすら彫り続ける)

こんなことをしていると、今回の作品集はどちらの長所も反映されないどっちつかずの中途半端に終わってしまうのでしょうか。いえ、そんなことはないと思います。その理由は、私はAとBが五分五分にあるような質でなく、ほぼ完全にBの方に偏っているため、私の創作する版画にはそれが反映されるからです。計算しつくした上で技術を駆使して制作し、穏やかな雰囲気のある写実的な作品にするのです。

また、Aのような面が弱いためにオリジナル性に欠けるだろうと思われるかも知れませんが、これには奥の手で対処するつもりです。その奥の手とは、伝統に培われた材料と技法で作られた版画それ自体に備わる美です。こうした伝統手法で作られた木版画には自然の美しさがあるので、「出来損ない」など作り得ないのです!

こんな雑談をしている時、私はよく次のような話をします。「ほんとうに腕の良い摺師なら、何も彫ってない真っ平らな板切れを渡されたって素敵な版画が摺れるんですよ。」実際、私はほんとうにそう思っています。ここは滑らかな色調にして、そこにはぼかしを付けて、ここには色を重ねよう...こんな風に摺って行けば、数分後には美しい作品が目の前に仕上がってしまうのです。A氏から何も渡されなくても、B氏ひとりで美しい作品を作ることができるのです。

私の目標はここ、「質感をも含めた美しい作品」を創りあげるという点にあります。でも、 それが「偉大な芸術」になるなどという幻想は抱いていません。 美しい作品であれば魅力的な対象物となり、自ずと見る人を惹き付けるはず。私は心の底からそんな作品を作ってゆきたいと願っています。

ところが、これとはまったく違う観点から私のオリジナル作品を見る人たちもいるのです。一つの例として、「秋の森」を見た人からはこのようなコメントを頂きました。

「人物とテントと絵を見る人の上に、ぼおっと浮き出るようにそびえる木々は、夜の森がかもし出す底知れぬ不安とおののきを彷彿とさせます。」

これは間違いなく作品に肯定的なコメントですが、正直なところ、作者としてはそんな風に見てもらおうという意図はまるでありませんでした。あの高い木々を画いたのは、あそこに高い木々があったからです。でも、だからといってこのコメントを拒否するわけではありません。画かれた物には複雑な要素が詰まっているので、多様な見方や楽しみ方があるという事実を示す例なのですから。

***

この文を書いている現在、私は今シリーズの3作目に取組んでいますが、毎朝制作のために階下に行き仕事場へのドアーを開ける時には、不安におののくような気持ちです。何年もの間この部屋を満たしていた穏やかな空気は、まるで違う雰囲気に変わってしまいました。仕事を始めようとすると手が震えるなどと言うと、ちょっと誇張し過ぎかも知れませんが、これに近い感覚はあります。それほど、今度の新企画は今までにない奮闘を私に強いる取り組みなので、満足のいく結果に終わるだろうなどという見通しはまったくありません。

最初の2作はどちらも、頭の中で画いたようには表現しきれていないものの、まずまずの線を維持していると思います。

でも、きっと...「作家はみんな、こう言う」んですよね。

皆様の応援に感謝しております。今回の道中は、なかなかの見物になりそうです!

土井さんの版画展

このニュースレターの「収集家の紹介」で、長年に渡って私の活動を支え続けてきてくださっている土井利一さんを御紹介したのは2004年の夏ですから、今から丁度3年と少し以前になります。前号でちょっと触れましたように、彼は自分のコレクションを使って版画展を開催する計画を立てられたのです。とても素晴らしい版画展でしたので御報告します。

土井さんを紹介した時には、彼の千社札収集に焦点を合わせて記事を書きましたが、実際は新版画というジャンルの方を主として収集しておられます。新版画は20世紀の前半に作られていて、昔の浮世絵と同じ分業システムをとって作られています。版元が企画全体の主導権を持ち、作家と彫師と摺師が協力して作品を作りました。土井さんは新版画をたくさん集めておられますが、今回は川瀬巴水という作家だけを扱い、その作品が概観できるようにしてありました。

巴水が亡くなったのは1957年ですから、今年が没後50周年となりそれを機に彼の版画展を開こうと決心したそうです。会場は文京区にある、個人経営の礫川(こいしかわ)浮世絵美術館でした。土井さんは、美術館が主催する伝統木版画の研究サークルに所属していることもあり、それが縁でこの美術館の使用を許されたとのことです。一般の人にはあまり知られていない小さな美術館ですが、施設はとても立派でとても素晴らしい展示がされていました。

この版画展を開くにあたり土井さんは、巴水の作風の変化を示す代表作を選んでおられ、ほとんどが関東大震災前の初期の作品となっています。これらの版画は主に渡邊版画店から出版されたもので、現在では手に入りにくいということもありますが、卓越した美しさのために蒐集家の間では垂涎の的となっているものばかりです。土井さんは ギャラリートークでこう語っていました。昨今では版画の価格が上がり続けているために、収集を継続することはとても難しくなっている。もっと早い時期から収集を始めていれば良かった!

この版画展に足を運んだ人たちはみんな、魅力のある作品が展示されていると思われたことでしょう。実際、美しい作品がたくさん展示されていたのですから、これで悪いことはないのですが、版画に関してより深い経験を積んだ私達のような立場の者から見ると、土井さんがいかに優れた収集をしているかが分かるのです。私が何度目かに行った時です、上田真吾さんと一緒にある作品に接近して細部を見ていると、摺の技術の高さにふたりとも圧倒されてしまいました。(ご記憶の方もいらっしゃるでしょうが、上田さんは若い摺師で、私の木版館の作品もいくつか彼にお願いしています。)私達はこんな言い訳をするかもしれません。「昔の和紙はなんて上質なんだろう!材料はどれも羨ましいくらい上等だ!」でも、ここにある昔の素晴らしい版画と現代の私達が作る版画の違いは、ほとんどが作る側の技術からくる、とういうのが本当のところです。土井さんはこのことをよく知っておられるので、版画を購入する時には最も優れた摺の作品だけを選んでいます。ですから、展示されている作品はどの1点を取っても恐ろしく優れた資料でもあるのです!

上田さんと私は、-- 絶望的に思えることも時としてありますが -- これ程レベルの高い作品をぜひ作ってみたいと熱望しています。そして、土井さんのように目の肥えた収集家が存在するという事実は、私達が目標に向かって精進する上で大きな励みになるのです。

土井さん、素晴らしい版画展を開催してくださってほんとうにありがとうございました。御陰様で、私は実に多くのことを学びました!

昨年の暮れが近づいた頃、木版館のホームページでプレゼント用版画を販売しました。何年か前に年賀用に彫った版木を使い、台紙に挟んで簡単な説明と一緒にギフト用に包装した物です。

試みに海外向けのみを準備したところ、なかなかの反響だったため、当分の間続けることにしました。今年の作品は磯田湖龍斎の花鳥画です。

価格は、海外でも国内でも一律 3,150円(送料、消費税込み)となっています。贈り主様の御名前や簡単なメッセージを同封することができますので、御希望の送り先をファックスかメールで連絡いただければ御希望に合わせて手配いたします。通信欄にメモをお書き頂くと助かります。

御自宅用としてはもちろんのこと、センスの良いちょっとした贈り物としてもきっと喜ばれることでしょう。

皆様からの連絡をお待ちしております。

「消臭ブーム」

近頃、消臭を目的とした商品の宣伝が多い。定期的に接種し続けると、体からバラの香りがする?ま、お好きな人はお試しあれ。ニンニクを食べたら一粒ポイ、ま良かろう。だが、これも行き過ぎるとどうなる?

先日の事、コマーシャルの時間になったら、 テレビの画面一杯にスプレーを持ってシュッシュッとやっている場面が映し出された。お肉を焼いたら家中にシュウシュウ... お客様が来る前にもシュウシュウ... お父さんが帰ってきたら玄関に飛び出して行き背広にシュッ。ウールはタバコの臭いを吸収しやすいから分かることは分かるのだが...。 おまけに、訪ねて来た人たちが「この家臭わないわね」とやっている。

不快臭と共にぬくもり臭までもが消されてゆく感覚がリアルに感じられ、見ている自分が抹消されそうな恐怖を感じた。

臭いについては、強烈な印象を受て今でも忘れられないシーンある。もう30年近くも以前のことだが、海外ドラマシリーズという優れたテレビ番組があり、その回の主人公は老年の婦人だった。彼女はいつもキャンディーを嘗めている。老人ホームの友達だったろうか、何故いつもキャンディーを手放さないのか聞く。すると、「孫がね、私の口は臭いっていうのよ」と答えた。なんとも切ない表情で哀愁漂う場面だった。その時の私はまだ20代後半、ぼんやりと「キャンディーばかり食べていたらもっと臭うようになっちゃうよ〜!」と声を掛けたくなった事を覚えている。自分とは無縁の、遠い遠いところにいるおばあさんの話だった。

ところが、その私が、どんどん彼女の年齢に近づいている。だから、消臭をうたう商品があまりに声高に宣伝されると、ある種の恐怖心が喚起され、と同時に我ら世代を弁護したくもなるのである。

子供の頃、抱かれた時の父の臭いが好きだった。タバコや整髪料の臭いに体臭が入り交じっていて、決して嫌でなく安心する臭いだった。鏡台に置き忘れられた母のスカーフをそっと首に巻くと、ほんわり母の臭いがして優しさに包まれるようだった。 大好きだった祖母は総入れ歯だったが、変な臭いなど嗅いだ記憶はない。一緒に日向ぼっこをすると、毛糸と割烹着に残った石鹸の入り交じった臭いが彼女らしかった。これからの子供達は、こんな思いをせずに成長するのだろうか。そう思うと、ちょっと寂しい気がする。

個人的に見れば、自身臭いに敏感な方で、自宅の冷蔵庫やトイレ、台所のゴミ箱といった場所にはかなり気を使っている。だが、それはマメに掃除をすることによって解消し、消臭剤は使っていない。だから、我が家と自分の周りにはそこはかとない臭いが取り巻いているのだろうが、人間臭を人工的に抹消したくない、それが私の方針なので仕方ない。

あらどなた?こんなことを聞いているのは。「ねえ、デービッドの臭い好き?」これには彼の台詞で解答させて頂こう。「僕はきれいだよ!毎日シャンプーをするし、その泡で体中洗うんだから」ニコッ!

第19回展示会

日時:2008年1月20日(日)〜26日(土)
午前 11:00 〜 午後 7:00(最終日は6時)
ギャラリートーク:20日 午後 2:01より

住所:東京都千代田区有楽町東京交通会館
地下1階ゴールドサロン