デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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A氏 と B氏

私は18年間も木版画を作ってきましたが、その作品はほとんどが復刻でした。ところが今年からは、自身がデザインして創り出す版画に取組んでいます。きっと想像できることと思うのですが、この変化は様々な面で私の仕事のやり方に影響を及ぼすようになりました。もちろん木版画ですから、彫り摺りという作業はすべて同じですが、それでも180度違うのです!

復刻をしていた時、私に要求されたのは主に技術的なことでした。毎回新しい作品に取組む時には、すでに原作があるので、それを頼りに制作をしました。何をすればいいかを考える必要はなく、どのように作ればいいのかが私の課題でした。線があればそれを彫り、色があればその色を摺る。ま、これはちょっと誇張かも知れません。復刻をするためには、味のある線を彫るとか微妙な色合いを作りだすとかいった芸術的な視点も必要ですから。ロボットには到底できない芸当です。でも絵そのものはもう決まっているので、作業はほとんど技術で進めてゆくことができました。

ところが、毎回空白のキャンバスに絵を画くことから始めるとなると、話はまるで違ってきます。写し取る線は一本たりとなく、同じ色を出すために絵の具を混ぜるという作業もなし... ある意味では、何をしても構わない!しかも、間違いという存在がない!創作者である私が、ある場所にこんな青を塗ろうと決めれば、誰も反対できない。ところが、これほどまでに自由度が高いと自分を縛る規則がなくなってしまい、逆にどうすれば「良い」か決められなくなってしまうのです。

今シリーズで制作しているのは抽象画ではなく、かなり写実性のある作品です。ですから、この難問への解答のひとつとして、実際の風景と自分の絵を比べるということが挙げられます。この木は本物に似ているだろうか、この山は本物そっくりだろうか。でも、現物そっくりにすることばかりを狙うのなら、むしろ写真を撮った方がいいくらいでしょう。木版画で表現する場合、木は木らしく見えなくてはいけないけれども、リアル過ぎてもいけない。このバランスをつかむところこそが、私にとっては至難の業なのです。

この難しさは、性格に起因します。ちょっと話は変わりますが、ふたりの人を想定してみてください。仮にA氏とB氏にしてみましょう。A氏に手近にある紙と鉛筆を渡すと、さっと腕を動かし目の前で何かを画いてしまう... なかなか面白い絵です!一方B氏の場合は全く違い、まず最初から最後まで計画を立てます。座り込んでどのように仕事をするか考え、それから長い時間をかけて慎重に作業をする。仕上がりはやはり良いものとなりますが、そこに達するまでの経過はまるで違うのです。

昔、木版画は協同作業で作られました。A氏のような絵師が下絵を画き、B氏のような彫師や摺師が何百枚もの版画を作ったことは容易に想像できることでしょう。持ち場に適した人材が仕事をこなしたのです。

ところが20世紀に入ると、日本の木版画は大きく変化しました。西洋からの影響を受けて版画界に新らしい動きが起こり、「創作版画」というジャンルが生まれたのです。絵を画いた人が自身で彫と摺をして、最終的に版画作品にするまでのすべでをひとりで行います。A氏のような性格の人は、創造性に富んではいるものの版画自体を丁寧に作ったりはしません。摺る枚数は少なく、出来は均一にならないでしょう。棟方志功などはこの典型的な例と言えるでしょう。彼の版画は芸術性が高く評価されていますが、私のような者から見ると、版画としては「上出来」と言い難いところがあります。

簡単に言えば、創造エネルギーの高い人は高精度の版画を何枚も作る程自分を制御できないということです。しかるに訓練を積んで緻密な仕事のできる冷静な人は、「創造の閃き」とはほとんど縁がないのです。ひとりの人の中に両方を見いだすのはおよそ不可能なことです。

そして私は、一体どこに位置づけられるのでしょう?ここ20年ほどの間、私は明らかにB氏でした。しっかりと仕事の手順を考え計画を立てて、昔の版画の細部まで緻密に復刻してきました。ですから、よくこう言ったものです。「私は芸術家ではありません。職人なんです!」ところが現在は、オリジナル作品を連続して制作する企画の真っ最中です。A氏とB氏の両方を脳裏に浮かべて、優れたデザインを優れた技術で版画に仕上げようとしているのです。

  • A氏:ここに何本か木を画いておいたよ。
  • B氏:えっ、これは何だい?この木は梢の方が太いじゃないか、そんなの見たことないぞ。
  • A氏:僕は芸術家だよ。こんな風に画きたかったのさ。
  • B氏:奇妙だよ。
  • A氏:これでいいのさ。

..... あるいは ......

  • A氏:おいおい、この木の幹に何をしてるんだい。そんな小さな樹皮の窪みまで彫ってどうするんだい。そんな細かいところまで必要ないんだよ。
  • B氏:でも、あった方がいいじゃないか。
  • A氏:そんなに写実的にやってたら彫るのに何日もかかっちまう。省略だよ。
  • B氏:(ひたすら彫り続ける)

こんなことをしていると、今回の作品集はどちらの長所も反映されないどっちつかずの中途半端に終わってしまうのでしょうか。いえ、そんなことはないと思います。その理由は、私はAとBが五分五分にあるような質でなく、ほぼ完全にBの方に偏っているため、私の創作する版画にはそれが反映されるからです。計算しつくした上で技術を駆使して制作し、穏やかな雰囲気のある写実的な作品にするのです。

また、Aのような面が弱いためにオリジナル性に欠けるだろうと思われるかも知れませんが、これには奥の手で対処するつもりです。その奥の手とは、伝統に培われた材料と技法で作られた版画それ自体に備わる美です。こうした伝統手法で作られた木版画には自然の美しさがあるので、「出来損ない」など作り得ないのです!

こんな雑談をしている時、私はよく次のような話をします。「ほんとうに腕の良い摺師なら、何も彫ってない真っ平らな板切れを渡されたって素敵な版画が摺れるんですよ。」実際、私はほんとうにそう思っています。ここは滑らかな色調にして、そこにはぼかしを付けて、ここには色を重ねよう...こんな風に摺って行けば、数分後には美しい作品が目の前に仕上がってしまうのです。A氏から何も渡されなくても、B氏ひとりで美しい作品を作ることができるのです。

私の目標はここ、「質感をも含めた美しい作品」を創りあげるという点にあります。でも、 それが「偉大な芸術」になるなどという幻想は抱いていません。 美しい作品であれば魅力的な対象物となり、自ずと見る人を惹き付けるはず。私は心の底からそんな作品を作ってゆきたいと願っています。

ところが、これとはまったく違う観点から私のオリジナル作品を見る人たちもいるのです。一つの例として、「秋の森」を見た人からはこのようなコメントを頂きました。

「人物とテントと絵を見る人の上に、ぼおっと浮き出るようにそびえる木々は、夜の森がかもし出す底知れぬ不安とおののきを彷彿とさせます。」

これは間違いなく作品に肯定的なコメントですが、正直なところ、作者としてはそんな風に見てもらおうという意図はまるでありませんでした。あの高い木々を画いたのは、あそこに高い木々があったからです。でも、だからといってこのコメントを拒否するわけではありません。画かれた物には複雑な要素が詰まっているので、多様な見方や楽しみ方があるという事実を示す例なのですから。

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この文を書いている現在、私は今シリーズの3作目に取組んでいますが、毎朝制作のために階下に行き仕事場へのドアーを開ける時には、不安におののくような気持ちです。何年もの間この部屋を満たしていた穏やかな空気は、まるで違う雰囲気に変わってしまいました。仕事を始めようとすると手が震えるなどと言うと、ちょっと誇張し過ぎかも知れませんが、これに近い感覚はあります。それほど、今度の新企画は今までにない奮闘を私に強いる取り組みなので、満足のいく結果に終わるだろうなどという見通しはまったくありません。

最初の2作はどちらも、頭の中で画いたようには表現しきれていないものの、まずまずの線を維持していると思います。

でも、きっと...「作家はみんな、こう言う」んですよね。

皆様の応援に感謝しております。今回の道中は、なかなかの見物になりそうです!

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