デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
41号から最新号まで
1号から40号まで
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ここ青梅は、高温多湿な夏の真っ盛りです。あまりの暑さに、私は地下2階まで逃げ出す始末!みなさんの所はもう少し過ごし易くて、そんな必要がないと良いのですが。このニューズレターをお読みになるちょっとの間、気が紛れて暑さを忘れられるかな....
この号も前回のように、ページ数は少なめです。版画制作の方を優先するのは譲れないところに持ってきて、最新作はいつも以上に恐ろしく手が掛かったのです(ただでさえも大変なところに輪を掛けて)。次から次へと混乱続きでしたが、どうにかこうにか、この作品も完成にこぎ着けましたし、「スタジオ便り」で写真を添えてお伝えしているように、改装の方も進展があり、前回レポートした時からは、かなり前進しています。
いつもながら、版画職人デービッドへの興味を持ち続けてくださることに感謝!
気をつけなくちゃいけませんね....そうしないと、この話は単なる旅行記か何かになってしまいそうですから。私達は、日本にいた3ヶ月の間にずいぶんいろいろな所を旅したのです。彼女の実家を出てから、まず四国を周遊し、その後本州の姫路まで戻って、そこからあちこちを尋ねながら東京へ帰りました。岡山にいた日のことです。私たちの旅にはめずらしいことですが、天気が悪くなって、デパートで2時間ほど雨宿りをしました。そんなことをここで話す意味があるのかですって?ええ、私が実際に版画家になるきっかけのようなものがそこにあったのです。確か2階の臨時の催し会場で、東京の出版業者が木版画の展示会を開いていました。もちろんほとんどのものは一般的な浮世絵の複写でした。歌麿とか広重とか。しかし、一角にまったく違った版画があり、私はその場で立ち止まってしまったのです。
それは現代の版画でしたが、昔ながらの手法で作られていました。すなわち、画家と彫り師、摺り師が別々で、出版者がそれらを統合しているのです。絵は源氏物語の場面を描いたもので、岡田嘉夫氏の作品でした。出版者はそれらの作品に明らかに大変手をかけている様子でした。版画は大変きらびやかで、多くの色版を使って摺られていました。そんなにも美しい木版画がまだ製作されていたなんて思ってもみませんでした。でも購入のための十分なお金を持っていなかったので、そこの販売員と、東京に戻ったらその会社を訪ねる、という約束をとりつけました。
そしてそれはなんという訪問だったことでしょう!出版者ーすなわち、悠々洞の佐伯さんにすれば、私はただの「やっかいな」訪問者にすぎなかったでしょうが、私にとっては目の覚めるような刺激的な経験だったのです。彼は大変親切で親しみやすい人でした。それは単に私が彼の売っている新しい版画を買ったからというだけの理由ではないと思います。彼は日本における版画業界の状況について私たちと話をし、私がカナダに持って帰りたいと思っている版画用の道具をどこで手に入れたらいいかについて教えてくれ、おまけに自分の持っている版木までいくつかくれたのです。私が本当に木版画職人になると彼が思っていたとは思いませんが、とにかく彼にはお世話になりました。
彼の教えてくれた情報にもとづいて、私はいろいろな道具を集め始めました。もちろん私は、手製のばれんのような「特別注文」の道具を使うほどの腕前ではありませんでしたが、中級の彫刻刀、刷毛、プラスティックのばれんなどを買いました。(つまるところ、私は実際、かなりいいものを選んだようです。というのは、その時買った彫刻刀のいくつかは今でも私の道具箱に入っていて20年たった今も毎日のように使っているのですから...)
もうひとつ重要な訪問がありました。東京でたったひとつ残っている版木製作所の島野家の仕事場です。彼らが私からの注文を受け付けてくれるかどうか不安でした。というのは、彼らは、念入りに乾燥させ、用意した桜の木を私のような初心者にむだにされたくない、と思っているのではないかと思っていたからです。しかしそんな心配は杞憂でした。彼らもまた親切で協力的でした。私はいくつかの美しいなめらかな版木をカナダに送ってもらうように頼んで代金を払いました。
荷物をまとめ、カナダに戻ることを考えなければならない時がやってきていました。私が音楽店に導入したコンピューターシステムはそろそろチェックが必要な時期だとわかっていました。それに、私はまだ仕事を持っていなかったので、なんとか生活していくための方法を見つける必要がありました。
しかし、成田向かう準備をする前に、やらなければならない大切なことがもうひとつありました。私はまだひとりの彫り師にも摺り師にも会う機会がありませんでした。日本に3ヶも滞在していて、職人にひとりも会わずに帰る?そんなばかな!私は島野さんにどうしたらいいか尋ねました。彼は複製の製作社がもうひとつあるからそこを訪ねてはどうか、と言いました。そこでは、屋敷の一角にある小屋で、彫り師と摺り師が仕事をしているというのです。
そこで日本で最後の数日となったある朝、私は目白に向かい、あるドアの前でノックしようと立っていました。私が入ろうとしているこの建物の2階には、ずっと会ってみたいと思っていた職人達が作業台にかがみこんで忙しく仕事をしていました...!
前回の号には、このコーナーがありませんでした。地下2階の工事が休止していたわけではないのですが!冬号では、内壁を張る下地となる骨組みの写真を載せましたが、今回は外壁です....
当然のことながら、私は2×4方式で作っていくつもりですが、強力な断熱効果が必要なために、柱材は6インチになりそうです(15㎝の断熱材が入るようにです)。外壁は、面が直角に交わっていないので、ふつうの場合よりもちょっと手こずりましたが、結構楽しんで作ることができました。
取り付けた窓については、ちょっとした話があります!この改装を計画している時、最大手のサッシメーカーのショールームに行きました。価格を調べるためです。国産とアメリカからの輸入物の見本を見て回ってから、相談コーナーに腰を落ち着けて、係りの人に見積りをお願いしました。ところが、これは完全なお笑い種でした。予算総額の段階まで話が行き着かないうちに、呆れて席を立ち上がってしまったのですから!最初の衝撃は、大まかな窓の大きさを伝えて、概算をしてもらった時に来ました。凄い値段で、40〜50万だったかと思いますが、相談係の女性が、「ガラスは、どちらのメーカーを御希望ですか?」と聞いてきた時には、もう "お手上げ" でした。私が目をぱちくりさせているので、彼女は説明を加えてくれたのです。提示した価格は窓枠のサッシ部分だけで、続けて窓ガラスの話に入る所だったと....。
もう、こうなれば決断は明確、北米あたりから個人輸入するしかありません。家に戻ると早速、パソコンでインターネット検索をし、自分の要求を満たしてくれそうな会社に、片っ端から問い合わせました。その結果、カナダのオンタリオ州にあるサーモテク・ウインドウという小さな会社が、とても好い製品を作っていることがわかったのです。窓枠はアルミ(室内の熱を外部にすぐに逃してしまう)でも、ビニール(大きな窓には弱くて不適当)でもなく、ファイバーグラス入りの強化プラスチックでした。窓部分は3重ガラスで、間にはアルゴンガスが封入され、しかも、夜間に室内の熱が外部に放出しないよう、特殊コーティングがされています。こちらの要求寸法に応じて作ってくれますし、開閉窓には網戸も付いています。
日本向けにも発注するとのことで、窓4枚分の価格は1800米ドル、カナダの工場から横浜港まで約300ドルでした。これは、約238,000円、国内での見積もり(窓ガラス、送料その他の雑費を含まず)の半分です。
私は注文して、横浜港から連絡がくるのを心待ちにしました。それから数カ月、積み荷が港に到着すると、税関手続きと自宅までの運送手配に出かけていきました。追加費用が掛かったのは、当然です。
13,000 円 ... 船下ろし費用 9,282 円 ... 3.9% の輸入税 12,330 円 ... 5% の消費税 18,000 円 ... 港から自宅までの搬送費用
総額はおよそ30万円、日本の一流商品の数分の1の価格で、頑丈かつ断熱効果抜群の最高級品を手に入れたことになります。実際に届いた商品を見てみると、なかなか良くできていました。とてもしっかりした出来で、3層ガラスは一体化していますし、開閉窓は密閉度が良くて、一旦掛けがねを下ろしてしまえば(心地の良い"カッチン"という音がするんです!)完全密封状態です。
何年か後に、地上部分を建て替える時が来たら、建築材料をキットで販売している北アメリカの建築会社を、インターネットで訪ねて買い物するのが楽しみです!
5月、青梅の裏山を歩くと、いたるところに山藤の若木が繁殖している。きっとこぼれ種から発芽するのだろう。木漏れ日の中で、たくさんの若木が蔓を伸ばしては絡まりあい、風が吹くと、まるで藤の子供達が戯れているように見える。
高台から山を、あるいは多摩川沿いのがけっぷちから対岸を見渡すと、艶やかな紫の花が、木々の梢から梢へとうねり狂うように咲き乱れている。優雅に棚から下がる姿も見ごたえあるが、木々の緑を背景に逞しく咲き誇る山藤もいい。
そんな藤を楽しんでぶらついていたら、円錐状に形を整えている藤を見かけた。めずらしいこともあるものだと、近寄ってみると、絡まりあう藤の隙間から、生気を失った茶色の針葉が見える。美貌の妖怪に包まれた骸骨。生と死の対比は衝撃的であった。
藤は蔓植物だから、日光を求めて、手近な木に絡まりよじ上っていく。ここが勝負所で、力いっぱい、陽の当たるところまで伸びきってしまえばよし、それ以前に力尽きてしまえば萎えることになる。木立の中の湿った腐葉土に落ちた種は、格好の条件で発芽するのだろうが、若木まで生長しても、いくらも育たず消えてゆくのがほとんどらしい。まれに、抜きん出た勢いに恵まれた藤だけが、支えの木をよじ上り、葉を広げる。すると、家主の木は、陽を遮られ、哀れなるかな、廂を貸して母屋を取られる羽目となり、みるみる力を失っていく。
さて、この写真はデービッドの台所。くだんの山藤である。根本は、隣の敷地の一番下、つまり川岸に発していて、地上までは10メートル以上もある。昨年は、木化した蔓が空き地の縁に巡らされた柵に絡まっていて、あまり元気のないままに過ぎてしまっていた。
ところが今年は、あれよあれよと葉が茂り、4月の終わりには、豪華絢爛な花の供宴となった。花は外側から眺めるもの。デービッドは窓からの眺めにしごくご満悦であった。
花が終わると、藤は再び生長期に入る。2メートルほどの距離はなんのその、のたうちまわる蔓の一本が、こちらめがけてみるみる伸びてきた。そしてついに、御覧の通り。
でも、面喰らっているのは私だけ。家主は、ニコニコしながらのたまう。「すごいんだよ、一本が入ってきたら、他の蔓も次々こっちに向かって押し寄せてきているよ。Nice greenery!」
今年の夏も、娘達がやってきました。日実は、地下2階の新しいスタジオの猫用入り口に表札を作っています。