デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
41号から最新号まで
1号から40号まで
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今回の号はいつもより薄手ですが、とにかく「百人一緒」は年に4回皆様のお手元に...木版画の世界にいる私の生活の一端を、皆様にお知らせしています。
これは春号なので、例によって毎年1月に開催する展示会の報告があります。「スタジオ便り」は、残念ながらお休みです。寒くて工事をさぼったのではなく、版画製作に追われて地下2階への道が遠くなってしまったのです。また、昨年から始まった「貞子のコーナー」はデービッドを別の角度から見て書いてもらっていますが、今回は後ろからかな?
また、毎回掲載している、いつになっても終わらないかのように続く「ハリファックスから羽村へ」は、再び先へと進みます。ある場所についてよく知るための一番良い方法は、そのあたりをできるだけ歩き回る事、というのが私の考えなので、初めて日本に来た時には当然のこととしてこれを実行に移しました。お読みになるとわかると思いますが.....
「摺物アルバム」第4集は順調に始まり、今年も面白味のある作品を集めて皆様にお届けするつもりです。さあ皆さん、今年の冒険をお楽しみに!
日本での最初の一人旅をするのにどうして伊豆を選んだのかはよく覚えていません。多分、川端康成の「伊豆の踊り子」を読んでいたからでしょう。本の中に出てくる場所へ行ってみたかったのだと思います。それは11月の下旬で、こうした徒歩旅行には最適の季節でした。空気は冷たくさわやかで、空には雲ひとつなく...最初に伊東駅に着いてから時計回りに歩いて半島を一周し、修善寺温泉まで行くのに6日かかりました。私は小さなユースホステルや旅館に泊まりましたが、たいていいつもたったひとりの客でした。まだごく初歩的な日本語しか話せませんでしたが、特別困ったということはありません。出されたものは何でも食べました。それが何かわからなくても。そして、人と出会ったり道の曲り角に来たりする度に、新しい冒険が続きました。旅の間に感じたことを書き留めておけばよかったのですが。今となっては日本に来て間もない頃の新鮮な印象は、思い出す術がないのです。でも、当時のことを思い出すきっかけとなる、駅やホステルのスタンプが残っていました。
旅から戻って2、3日ゆっくりした後、私達はまた旅に出ました。予定では、新年までに彼女の実家に行かなければならないことになっていました。それまでにはまだ数週間あったので、その間旅を続けることにしました。まずは北陸地方へ。能登半島を歩き回り(歩き足りなくて!)、本州の中心部をぬけて名古屋へ。そこの、大規模で居心地の悪い都市型ユースホステルでクリスマスを過ごし、ついに目的地である紀伊半島へとたどりつきました。三重県の最南端にある大里という小さな村です。
カナダで旅の計画を練っていた頃、彼女は強調しました。「どうか覚えておいてね。うちはすごく貧乏だから。本当に何もないのよ...」私はうなずくだけでした。彼女の「家柄」なんてまったく気にしていませんでした。私自身、ごく普通の「何も特別なことのない」家の出身です。しかし、その村に到着した次の朝、年末の清掃作業を手伝うために、彼女の家の畑がある奥ノ野に向かいながら、私は彼女の言わんとしたことがわかり始めました。
ここに奥ノ野の場所が載っている地勢図がありますが、地図全体を見ても、これ以上に孤立した地点を見つけるのは不可能です。小さな点が家の場所を示していますが、ここに来るには一番近い道からでも1時間以上歩かなくてはなりません。車では行けないのかって?もちろん行けません。歩かなければ。ガスは?電気は?もちろんありません。このニュースレターの初めのほうの号で、奥ノ野のちょっとした情景を描写したことがあります。「昔々」は人々が住み、活気に満ちた谷間の村だったけれど、今ではひっそりとさびれた場所になっている、と。この時の私達の訪問は、完全に廃村となる数年前のことで、多くの家族が村を離れていくなかで、彼女の家族はまだ野生の猪との戦いを続けていました。私達はその後の数日、猪を畑に入れないようにするため、鉄条網での囲い作りを手伝いました。
新年が近づくにつれ、国内のあちこちにいる他の家族も帰ってきて、夜はそこらじゅうが布団だらけになりました。カナダにいた時、日本や日本の習慣についての本をたくさん読みましたが、そこにはいつも、日本の新年の様子が美しく描かれていました。素晴らしい特別の食事。優雅な着物を着た若い女性達。私の言いたいことはおわかりでしょう。私はこの訪問をとても楽しみにしていたのです...
この後数年、この時の話がでる度に私達は大笑いをしたものです...デービッドが初めて日本で迎えたお正月...はたして優雅な着物や、山ほどのごちそうにはお目にかかれたのでしょうか?...元旦の朝食は汁物と年末に仕込まれたさんまの寿司でした。お昼はさんまの寿司でした。夕食はさんまの寿司でした。...そして次の日もその次の日も、この繰り返しでした...こんな話をして、彼女が気を悪くしなければいいのですが。私と同様、彼女にはわかっていたのです。彼女の家庭は、日本の上流階級でもなければ裕福でもない。でも、一番大事な「新年の習慣」はいっぱい感じられるところだと。それは楽しい家族の集いです。私は、馴染めないんじゃないかとか受け入れてもらえないのではないか、と心配していました。特に戦争を経験した世代の人たちからは。でもそんな心配は杞憂でした。年老いたご両親は、娘がこの男といて幸せなのを見てただ喜んでくれました。その男の髪の色だとか鼻の形なんかはまったく気にとめませんでした(あ...少なくとも髪の色については...)。だいたいにおいて、私が決して忘れることのない素敵な経験だったのです...
その後、囲いの設置や畑のその他の仕事の手伝いを2週間ほどして、「本来の仕事」にもどる時が来ました。また旅をするのです!
日本に、13という数に関しての迷信があるのかどうか、これについて聞いた私の記憶は定かでないのですが、西洋ではかなり意識します。13は縁起の悪い数なんです!展示会を前にして、ある英字新聞社のインタビューを受けていた時のことです。今回の展示会が13回目になると言うと、その記者は、縁起の悪い数を「心配」しているかと聞いたのです。そんな事は考えてもみなかったので、私はただ笑うだけでした。近所で飼われている、私が「ブーツ」と呼んでいる猫がいるのですが、最近はこの猫がほとんど我が家で過ごしていて、それでも、私はこの黒猫になんら疑わしい気分を持ったことがなかったほどですから!西洋には、黒猫が目の前を通ると不吉なことがあるという迷信があるのです。
けれども、もしも、あの時の記者が展示会の後にもう一度やってきたとしたら、おそらく今度は違った答え方をしていたでしょう。正直なところ、今年の展示会はついてなかった、と。私に関してのマスコミの取り上げ方は今回も様々でした。テレビやラジオの方からは出演の依頼がなく、新聞にもあまり載りませんでした。でも、読売新聞が、全国版となる正月特集の中に私の記事をいち面全体に載せてくれたのです。これはとてもありがたく、今回の展示会はこの記事のお陰で救われたようなものでした。会場には、この記事を読んで来たと言う人が、かなりいたのですから。
そういった訳で、来場者の数はそう少ないこともなく、会場では、自分の仕事の説明をしたり奥の方に設置した作業台で簡単な摺りの実演をしたりして、結構忙しく過ごしました。私にとって展示会のある週というのは、いつも「休日」のようでもあるのです。仕事場から抜け出て、寸暇を惜しんでの彫り・彫り・彫りの圧迫感から解放されるのは、とても良い気分転換ですから。こうして、来場者の方はまずまずでしたが、作品の予約という点になると、話は別になってきます。予約という観点からすると、今回は、今から丁度10年前の1992年に初めて新宿で開催した展示会以来の低迷でした。展示会の費用をまかなうはおろか(高野ギャラリーの使用料は1日当たり10万円です)、続く1年の活動費にもほど遠い額の注文しかなかったのです。この苦境をしのぐ助けとなるのは、当然のことながら、昨年から継続して予約購入をしてくださる収集家の方々です。2月になって私は、この人達に、もう1年継続してくださるかどうかをお伺いする葉書を送りました。「継続」の方に丸を付けて送られてきた葉書がほどほどの数に達したので、見通しのできる将来までは、なんとかやっていけそうです。2002年は、あまり景気の良い年になりそうもありませんが、立ち行かなくなる心配はなく、計画した通りに仕事を進めて行くことができそうです。(このニュースレターは、いつもよりちょっとスリムになりますが)それに、「摺物アルバム」第4集に取りかかる前の2月には、ちょっとした休暇をとることだってできたのですから。
こんな結果を皆さんにお知らせして、「泣き言のブルース」を奏でている訳ではありませんよ。昔からよく言うように、これは「半分満たされていれば、半分はからっぽ」の論理なのです。「展示会の結果にがっかりした?」と聞かれれば、答はやっぱり「Yes」です。でも、この反対の面を見ることも忘れていません - こうして新居に暮し、好きで興味の尽きない仕事に日々取り組み、しかも、この活動を支えてくださる人達が日本全国だけでなく世界中にいるのです。そして、何百何千という見事な版画を年ごとに創りだしています。この状況になんの不足があるものですか!昨今の不況で、ここ10数年間というもの経済は年ごとに落ち込んできている中、私は版画製作者としての収入だけで、今も生計を立てているのですし...
お願い、つねらないで下さいよ、目を覚ましたくないですからね!
展示会を終えて、南の島ロタ島へ5日ほど遊んだ。しばしの間冬の寒さを忘れたいこともあったが、こうでもしないとデービッドは仕事から解放されない。いくら仕事が好きとはいえ、朝食を摂りながら60通以上ものメールを処理し、歯を磨き終わればすぐに版画製作に取りかかるという日常から、年に一度くらいは解放されたくなるだろう。追われ追われの日程で、ついに「一息いれたくなったよ」と声が漏れた。
成田空港からは、乗り継ぎを入れて3時間半の何もない島。どこの浜辺に行っても人っこひとりいない。くだけた珊瑚でできた砂浜からは澄んだ水が続き、抜けるような青い視界が180度に広がる。自転車を借りて海岸線に沿って移動すると、公園の奥に小さな入り江を見つけた。魚が泳ぎ、水底が透けて見える。もうこうなると青年デービッドはじいっとしていられない。さっさと服を小枝にかけると素っ裸で海に飛び込んだ。「気持ちがいいよ〜。おいでよ〜。だあれもいないんだよ〜。早く早く!」
確かにその通りと、理屈では分っていても私の体は岩陰に座り込んだまま動けない。双方共に相手の行動を把握しきれないままに数分が過ぎると、やがてデービッドは水遊びに夢中になり、私の方は無心に遊ぶ青年の姿に見とれ始めた。午後の日射しが彼の体に当って反射する、両腕と肩から水しぶきが上がる、眩しい景色の中にこの青年は一瞬にして溶け混んでしまった。時折水から上がると、濡れた長髪に髭もじゃが絡まって、まるでロビンソン・クルーソーみたいだった。
さて、一方は水遊びでこちらは浜遊びとすれば、私も負けていられない。なにか自慢のできる発見をしたいと辺りを見回すと、岩の上にしっぽの長いトカゲがいた。色は辺りの岩とほとんど同じである。そのまま観察を続けていると、さっと近くの葉陰に移動した。背伸びをして追跡していると、まもなく脇腹の方から徐々に緑色に変化しはじめ、いつの間にか全身が周りの葉色と同じに変わってしまった。岩色の時の写真は撮れたのだが、今は高い位置でチビの私にはカメラが届かない!
御想像くださいな、どんなに自慢げに手を振ってロビンソン・クルーソーを陸の方に呼び寄せたか!
やがて彼女がカナダに戻る秋が近付くと、私達はもう一度買い物に行って、富実がビジネスを続けられるだけの良質の版画を買い込んだのです。続いての冬、再び日本にやってきた富実は、当然のことながら在庫を増やしたがっていました。でも今度は、一緒に買い付けに行っただけでなく、私のマック(パソコン)を使って、父親に教えてもらいながらホームページの作り方にじっくり取り組んだのです。そして彼女はとうとう、カナダに戻るまでにインターネット上に自分の店を開いてしまいました。
「版画クラブ」は開店して数カ月ですが、昔の美しい版画が妥当な価格で販売されているサイトとして、すでに良い評判を得ています。富実は、版画についてはまだ「専門家」とは言えず、良いものを選ぶにはまだまだ父親の助けが必要ですが、飲み込みの早い子です。彼女は、この店を営業することでたくさんのことを学び経験しています。世界中のお客さんと連絡を取り、価格を決めたり帳簿を付けたり、また版画店と直接交渉もしているのです。まだ高校生ですから、フィギアスケートの練習は毎日ありますし、水泳もバレーダンスもウェート・トレーニングも.... 16才の時に私は何をしていたかを思い出すと、その雲泥の差に感嘆するばかりです!