デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 2000

「文化の秋」を楽しんでいますか?もう少し「文化」の香りをいかがでしょうか?「百人一緒」秋号をお届けします....

「ハリファックスから羽村へ」は未だに一歩一歩ゆっくりと話が進んでいます。しばらく前に読者の方からこんな声を聞きました。「前の号でどこまで話が進んだのか思い出せない」というのです。3ヶ月経つと、話の内容をいつも完全に忘れてしまっている、と。それはありそうなことだと思いますが、私にはどうしようもありません。このニュースレターを毎月送る、というのは私には無理な話です。実は私もまったく同じ問題を抱えているのです。毎回、話の続きを書こうとして机に向かい...さて、どこまでいったんだったけ?...と、前回の分を読み直して、話の最後を確かめなくてはならないのです。

今回の特集は、いつか書こうと思いながらいつも先延ばしにしてきたことです。どうしてかって?それは、自分が存在しないということを言葉で説明しようとして...そして煙の中に消えてしまった哲学者みたいな話なのです。版画製作がいかに不可能な仕事であるかをみなさんに伝えたいと思い、それを説明しながら、まだ自分がここにいるかどうか、あたりをキョロキョロ見回しています!

この号をお楽しみいただけますように...

ハリファックスから羽村へ

トロントの小さなギャラリーで、初めて日本の木版画を見て以来、私はそれについてもっと学びたい、と思うようになりました。もちろん、木版画についての本を探してみましたが、うまくいきませんでした。日本の版画を集めて、その歴史や扱われているテーマについて述べた芸術としての本はたくさん見つかったのですが、版画そのものについての本、とりわけ私が知りたいと思っていた版画の作り方についての本はひとつも見つけられなかったのです。

というわけで、私はナイフと木版を手に入れ、版画を作ってみたでしょうか?いいえ、最初の実験は1年後でした。当時の私には他に気にかかっていたことがあったのです。私達の仕事にどうコンピューターを取り入れていくか、ということです。コンピュータープログラムのことをいろいろ調べたり試したりしているうちに、私は、これは仕事にとても役立つ道具であるばかりではなく、その質を変えていく可能性のあるものだ、と思うようになりました。ところが、社長のビルはというと、私がくだらないことに時間を費やしている、と思っており、未来のおとぎ話のようなことにかかずらっていないで、もっと現在の仕事をどうしていくかについて考えて欲しい、と感じていたのでした。彼の感じ方は実にもっともで、私もそれは承知していました。問題は、今のビジネスを広げていくのに必要とされる能力は、私が持っている能力とは違う、ということでした。私は整理能力には長けていました。店の品はきちんと管理、整頓されていました。しかし、私は、他の大切な仕事ができなかったのです。地域の中に入っていって、お客さんを店に呼び入れる、ということです。

社長はこの点で非常に優れていました。町で、彼は車に飛び乗り、お客さんになってくれそうな人に会いに出かけました。気軽に話しをしたり、飲みに誘ったり、という具合で、ビジネスチャンスを獲得していきました。彼が訪問すると、必ず売上が激増し、様々な活動も活発になるのです。ふたりとも、私の性格には、こういう仕事が向いていないことを感じており、そして実際、もともとこの仕事は、誰かきちんと仕事をこなせる人が見つかるまでの一時的なもの、という約束で始まったのでした。しかし、そのままの状態がずるずると続いてしまっていたので、私は居心地が悪くなり始めました。

そこで、仕事を始めて2年目のある日、私は社長に「辞めたい」と伝えました。私は無責任に辞めたわけではなく、私よりうまく仕事がこなせそうな人を見つけようとしました。そして引継ぎが終わって数週間後、私はわずかな所持品を貸倉庫に入れ、自 転車に乗って町を出ました。

私は28歳でした。フルート奏者になるのに失敗し、仕事に失敗し、いろいろなことに手を出してはのらくら過ごしているばかりでした。しかし、私はこれを重荷には感じていませんでした。しばられるものは何もなく、借金もなく、自信に満ち、基本的に前向きの人生観を持っていました。これからどうやって暮らしていけばいいかについては何の見通しもありませんでしたが、何か思いつけるだろうと思っていました。それにともかく、短期的には、やりたいことがあったのです。夏の初めのことでした。私は自転車に乗ってトロントを発ち、心に決めた目的地へと向かいました。オンタリオ州南部の小さな町の近くにあるスカイダイビングクラブです。自転車の荷台には、キャンプ用具一式を積み、クラブのオーナーと話をして、夏の間、グラウンドの隅にテントを張らせてもらえるようにしました。そしてそれに続く3ヶ月、私はスカイダビングのやり方を学ぶ生活にひたりました。

最初の数回のジャンプは、想像がつくとおり、とてもこわいものでした。しかしそんな恐怖心はすぐに克服し、私はジャンプを楽しむようになりました。このニュースレターの読者の方々は、スカイダイビングはとても危険なものだ、という印象をもっておられるかもしれませんが、全然そんなことはありません。私のジャンプのほとんど(1日5,6回まで)は、高度が約3,000メートルからのもので、その高さから飛び降りた場合、パラシュートを開かなければならなくなるまでには、約50秒の落下時間があります。私はあの夏の経験を決して忘れません。青く広がる空の中へ、すばらしいジャンプ。地上のものは何が何か見分けがつかないくらい、地面ははるかに遠く、他の7人と輪を作りながら落ちていく。計画通りに事がすすまなくて、予備のパラシュートを使わなければならなくなったことが2度ありましたが、それさえも.... 忘れられない思い出です...

不可能な使命

多くの人の場合と違って、私の仕事は自分の後にはっきりと目に見える「跡」があるので、どんなに上手(下手)な仕事をしているかは歴然としています。出来、不出来がはっきりとは評価できない仕事というのもありますが、私の場合、これは逃れられない事なのです。製作した版画はたくさんあり、それは過去何年間にも遡ってずうっと見ることができますから、「この人の仕事はどんなでき栄えなんだろう」と気になる人は、だれでも簡単に記録を調べられるのです。

ここで出てくるのは当然、相対的な評価です。「百人一首シリーズ」の初めの頃に作った作品などは、今見ると恥ずかしい程ですが、当時はかなり満足していました。あの頃は、自分がどんなに難題に取り組んでいるのか、まるで分からなかったのです。ただ、経験が足りないから腕を上げるためには長い時間が掛かるということは認識していましたが、日本の伝統木版画の復刻という仕事が実際には不可能なことだとは知らなかったのです。つまり、厳密な意味での完全複製は不可能だということです。

もう少し説明を加えてみましょう。

* * *

過去何年かの間で、私が飛躍的に上達した技術は習字の彫りです。ここに1988年(左のページ)のものと、その数年後のもの(写真右)があります。

違いは?古い方では、あちこちに欠けたところがありますが、それはさておき、曲がりのところにくる度に流れが止まり、文字が「歩み」のように彫られています。でも、年季が入るに従って手首が柔軟になり、曲がりに沿って彫ることができるようになりました。文字の流れは、止まったり途切れたりしていません。少しずつですが、必要に応じて線の先を次第に細くしたり膨らませたりもできるようになっています。昔の作品の線は不器用なロボットが書いたみたいですが、新しい方はきちんと彫れています。

どうも話の持っていき方があまり良くないですね。比較するのにできの悪い版画を持ってくればどんなのでも良く見えますから!木版画がどんなものかを承知している好事家なら、...こんなごまかしには乗せられないでしょう!では、「摺物アルバム」初期の作品で、柴田是真の絵ですが、拡大写真を見てみましょう(次のページ)。小さな渦巻きは、どう言えば良いのでしょうか...とても優美とは言えません。こなれていないし、不揃いです。今しがた見た、12年前に彫った文字に比べてあまり進歩していません!

ここにウイリアム・アイビンズという、かつてニューヨークのメトロポリタン美術館の学芸員をしていた人の言葉があります。(これは19世紀のヨーロッパにおける木版画の復刻について語ったものですが、私自身にもあてはまることです)『どの線も違う... どの線もなってない... 全体としての持ち味はこうじゃない...!』

ちょっと自分に厳しすぎるでしょうか?ここにある模様は恐ろしく小さいですね。こんな、けし粒みたいな模様を優美に彫るなんて、一体可能なのでしょうか?ここで、この文章の時制を過去に替えてみましょう。「こんな、けし粒みたいな文字を優美に彫るなんて一体可能だったのでしょうか?」...即答!できるんです!

これを見て下さい(次の長い写真)。明治時代の口絵のほんの小さな部分を大きく拡大したものです。これは、その当時ならいくらでもいた彫師の、たまたまその中のひとりが彫ったものです。名前など知るよしもありませんが、当時の事ですそんなことはどうでも良かったのでしょう。見て下さい、どの点もどの線も生きているではありませんか。

ここでちょっと自己弁護のために、昔の彫師と私とでは仕事に対する取り組みが違うことを指摘しなくてはなりません。彼等は小さい頃から厳しい親方の元で見習を始め、祭りの日を除いては1週間に7日、それも毎日長い時間仕事をしました。ですから、1日のかなりの時間を彫台に向かって過したわけです。それに引き換え私の生活は随分とちがいます。彫りも摺りも自分でしますから、彼等に比べたらはるかに短い時間しか彫りの仕事をしていませんし、「親方」に相当する人もいません。ですから、彼等の腕が良かったのは当然なのです!彼等は狭い世界に生きていましたが底が深く、一方私は反対で、彼等には想像できないほど幅広く生きていても、その結果、どれをとっても底が浅いのです。

どうも、自分の弱点に言い訳をしているようですが、そんなつもりではありません。版画製作に携わって、もうかれこれ20年、他の事もたくさんこなしてきていますが、(たとえば、今こうしてこの文章をタイプしているわけですし)、20年といえばかなりのものです!こうは言っても、私の腕はそんなに悪いわけではありません...

ここで、私の版画と昔作られた版画に違いのある他の理由を考えてみるべきだと思います。昔の彫師は、版下という、下絵を描いた薄い紙を版木に張り付けて仕事をしました。この版下が、どの版画の場合も原点となりました。

ですから彫師は、版下にある線を彫っていくという、一見単純な作業だけをすれば良かったのです。ところが、これこそが、実際は不可能な作業であったと言いたいのです。

ちょっと実験をしてみてください。まず紙と鉛筆を用意して、御自分の名前を書いてみてください。簡単ですよね。さらさらと紙の上を滑るように書けると思います。そうしたら次に、薄くて透き通る紙を用意して名前の上に置き、書いた通りになぞって複製を作ってみてください。なかなか難しいと思います。そこで、ここにふたつの選択肢があります。 A] ゆっくりと慎重に線の上をなぞっていき、完全な複製を作る。

終ったら結果を調べてみる。線はきちんとなぞることができていても、御自分の署名とは似ても似つかないものになったと思います。こわばっていて、ぎごちなく、「生気」がないはずです。『どの線も違う...どの線もなってない...全体としての持ち味はこうじゃない...!』 B] 書き始めのところに鉛筆を持っていき、いつもと同じようにさっと書いてみる。

書き終わったら、きっとこんなことに気付くでしょう。最初に書いた署名にある「生気」は保たれているものの、線の位置や細かいところは変わってしまったと。

双方ともに難点を抱えていますが、版下を手がかりに作業をする彫師が選択するのは、少しでも欠点の少ない2番目の方です。それはつまり、各々の線や点の位置を気にし過ぎないで、自然に彫っていくようにするやり方です。出来上がりは、幾分、最初の絵と違っていても、なんらかの持ち味はでてくるはずです。

これはなかなか、良い考えのようですが...、ここに落とし穴があるのです。もういちど署名のことに話を戻して、今度は他の人の署名を再生してみてください。さあて、今度は上の2つの方法のどちらをとりますか?どちらもうまくいかないでしょう!

そうなんです。もしも「線をしっかりなぞる」ようにすれば、結果は生気を欠いたものになるし、「自由に」書けば本来の持ち味が失われてしまうのです。これこそが私の言いたい『正確な復刻なんてまったく不可能』ということなのです。

そして、これこそが、どの筆使いでも、線や点でも、私を含める伝統木版画の彫師達が彫りに臨むときに直面する状況なのです。北斎の線、祐信の線、広重の線。このどれにもある「線」を、できるかぎり版下通りに、流れを殺さないように、しかも絵師の持ち味がでてくるように彫らなくてはならないのです。彫師が彫刻刀でひと筆分を彫るということは、「正確さ」(線の上をなぞる)と「持ち味」(流れを殺さない)のバランスを保ちながら、まるでピンと張られた綱の上を歩いているようなものなのです。

この話は、まだ終わりになりません。これにまだ加える説明があるからです。江戸と明治の彫師達は、私にはないもの、得ることのできないものを手にしていました。それは、絵師の描いた版下です。一方私は、すでに出来上った版画を元に復刻するのですから、一番最初の筆遣いは見られません!ですから、私が試みていることは彼等にくらべると2重に難しいと....

仕事をしていて、落ち込んだ気分になると、この障害を乗り越えてほんとうに美しい版画をつくり出すことなど可能なのか、と考え込んでしまいます。かと思うと、完成した摺物アルバムを見ながら、どんなに長い道のりを歩んできたかを目のあたりにして、碓たる自信を持ったりもするのです。

そこで、私はここからどう進んでいくのか?一体、自分に「傑作」など作れるのでしょうか?これに対する答えは、もちろんまだ出ていません。私はただせっせと続けていくだけです。ゼノンのパラドックスの一つのように、「どんなに再終点に近付けても、そこに到達することはできない」と感じるかも...

だけど、ちょっとちょっと、それが旅路というものじゃあないですか? ネ?

納得のいく人生を拓いて ...

先日のこと、有線のBBC国際放送(イギリスからの放送)を聞きながら版木に向かって仕事をしていると、ガーデニングに関係した面白い番組がありました。こういうと、私のことを知っている人なら、おかしな文章だと思われたでしょう。私が「ガーデニング」と「面白い」を並べるなんて!前回は、貞子さんとカナダの庭園を訪ねたことを書きました。これはもちろん彼女のおねだりを受け入れたからで、自分勝手が許されたのならきっとハイキングにでも行ったと思いますよ!ここで、植物の扱い上手という恵まれた人達に叱られないうちに急いで説明しておきますが、私はガーデニングをつまらないと思っているわけではないのです。実際、行ってみれば結構楽しかったんです。ただ園芸が苦手なもので、家の中にある観葉植物を枯らさないようにするだけで手一杯ですから、手の掛かる庭を責任持って手入れするなんてできないだけのことで...

では、一体どうしてその番組が面白かったか?それは、園芸というよりもむしろ庭師の話だったからです。もっと詳しく言えば、今世紀前半に、イギリスの庭園で働いてきた庭師達の思い出話で構成されていたのです。みんな高齢者で、ほとんどが田舎の、あまり教育を受けていない人達ですから、言うことがわかりにくかったもので、初めのうちはラジオを消そうかと思いました。でも、どういうわけかそのまま聞き続けて、その30分間にだんだんと彼等の話に引き込まれていったのです。

彼等の記憶はすべて、苛酷な仕事と生活の話を中心に巡っていました。1週間に6日、作業は朝早くから夜まで続きました。少しでも仕事が楽になる機械などなく、あるのは基本的な道具だけでした。彼等は上流階級に雇われ、まるで農奴のように扱われ、もちろん報酬は微々たるものでした。庭師達は29分の間ずうっと、きつくて苦しかった労働生活について語り続けていたのですが、年老いてしゃがれた声は、ちょっと違う意味合いを伝えていたのです。

送ってきた人生を、苦々しく語る人はひとりも居なかったのです。過去の状況をほんの少しでも嫌な思い出として語る人はいませんでした。彼等の声はむしろ、つらかった頃の事やどのようにやり遂げてきたかを、喜んで思い出しているようでした。この男達は、自分達の仕事を誇り、障害を克服してきたことを誇り、自分達が作りあげた美しい庭を誇っていたのです。

放送の最後の数分には、ひとりの老人が歯もなくヨボヨボな感じで、思いの丈をこう述べました。「できるものなら、すっかり同じに生きるさ。これっぽっちも悔いなんかないさ。すっかり同じにやるさ...」人生の終盤に近付いている男が、過去を振り返ってこんな風に言えるなんて、こんなに有意義な人生なんてないと思うのです。私達のいったい何人が同じことを言えるでしょう。

私達の、ぬくぬくとして楽な人生、短い労働時間とたくさんの休日、生きていく上での様々な快適さ...これら全ては、ほんとうに私達の喜びや満足を増加させているのでしょうか?私達が臨終の床で過去を振り返る時、懐かしく思い出すのは「自由で楽だった時」なのでしょうか、それとも、「不運な状況で物事を成し遂げた時」なのでしょうか。

私は何を言いたいのか?皆で農奴制のあった中世に戻ろうとでも?...当然そんなことではありません。でも、この自信に満ちた人達の言葉は、楽な道が必ずしも最上の道とは限らないということを示唆しているのです。真直ぐで平坦な道を行く時、人は成りゆき任せになりがちなもの。惰性で生きるようになり、惰性に甘んじると、人は皆坂をころげ落ちるようになります... だから私達は、何かに挑む必要があり、困難に出会う必要があり、確とした制約を受けることさえも必要なのです。これに加えてもうひとつ、なすべき仕事、目的が与えられるとき、私達は一番良い状態になるのです。

ここにひとつ、矛盾したような事があります。過去何世紀もの間、生活を向上させようと懸命になってきた人の存在がありました。その人達は、洗濯機、自動車、電話といった物を造り出して、その業績に満足してきました... 無数の、私達の生活を楽にする品々です。それなのになぜ、こうして便利なものに囲まれているたくさんの人達は、日常生活に満足を得られないのでしょうか。私達は、つらい生活を送っているかのように思い、雇い主や生活の愚痴などをグタグダこぼしていますが、問題は実際のところ、楽すぎることにあるのでは....? 

今日、私達のほとんどは、本当の意味でのつらさや難局には日々直面していません。その結果、来る日も来る日も、なんら記憶に留まることなく過ぎてしまうのです。ですから、私達が臨終の床に就いて人生を振り返る時、あの老庭師達のように言えるでしょうか。「できるものなら、すっかり同じに生きるさ」と。時々、気になるんです...

「百人一緒」の前号で、私の家族が夏に集合した時の写真を最初のページに載せたのを覚えておられるでしょうか。写真の説明は何もしませんでした。みなさんは、誰が誰なのかわかるだろう、と思ったからです。でも、ずいぶんたくさんの方がわからなかったようなので、ここに正解を載せます!

娘の日実と富実は階段の下、その後ろにいるのが妹の夫にあたるダーシィ。その隣はもちろん母、そして妹のシェリーがその後ろにいます。隣に並んでいる大男が弟のサイモン、後ろにいるのは父です。この写真に写っていないのはサイモンのパートナーのカリン(仕事のため、ドイツを離れることができませんでした)、そして貞子(この写真を撮った日の直前に仕事のため日本にもどりました)です。