デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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納得のいく人生を拓いて ...

先日のこと、有線のBBC国際放送(イギリスからの放送)を聞きながら版木に向かって仕事をしていると、ガーデニングに関係した面白い番組がありました。こういうと、私のことを知っている人なら、おかしな文章だと思われたでしょう。私が「ガーデニング」と「面白い」を並べるなんて!前回は、貞子さんとカナダの庭園を訪ねたことを書きました。これはもちろん彼女のおねだりを受け入れたからで、自分勝手が許されたのならきっとハイキングにでも行ったと思いますよ!ここで、植物の扱い上手という恵まれた人達に叱られないうちに急いで説明しておきますが、私はガーデニングをつまらないと思っているわけではないのです。実際、行ってみれば結構楽しかったんです。ただ園芸が苦手なもので、家の中にある観葉植物を枯らさないようにするだけで手一杯ですから、手の掛かる庭を責任持って手入れするなんてできないだけのことで...

では、一体どうしてその番組が面白かったか?それは、園芸というよりもむしろ庭師の話だったからです。もっと詳しく言えば、今世紀前半に、イギリスの庭園で働いてきた庭師達の思い出話で構成されていたのです。みんな高齢者で、ほとんどが田舎の、あまり教育を受けていない人達ですから、言うことがわかりにくかったもので、初めのうちはラジオを消そうかと思いました。でも、どういうわけかそのまま聞き続けて、その30分間にだんだんと彼等の話に引き込まれていったのです。

彼等の記憶はすべて、苛酷な仕事と生活の話を中心に巡っていました。1週間に6日、作業は朝早くから夜まで続きました。少しでも仕事が楽になる機械などなく、あるのは基本的な道具だけでした。彼等は上流階級に雇われ、まるで農奴のように扱われ、もちろん報酬は微々たるものでした。庭師達は29分の間ずうっと、きつくて苦しかった労働生活について語り続けていたのですが、年老いてしゃがれた声は、ちょっと違う意味合いを伝えていたのです。

送ってきた人生を、苦々しく語る人はひとりも居なかったのです。過去の状況をほんの少しでも嫌な思い出として語る人はいませんでした。彼等の声はむしろ、つらかった頃の事やどのようにやり遂げてきたかを、喜んで思い出しているようでした。この男達は、自分達の仕事を誇り、障害を克服してきたことを誇り、自分達が作りあげた美しい庭を誇っていたのです。

放送の最後の数分には、ひとりの老人が歯もなくヨボヨボな感じで、思いの丈をこう述べました。「できるものなら、すっかり同じに生きるさ。これっぽっちも悔いなんかないさ。すっかり同じにやるさ...」人生の終盤に近付いている男が、過去を振り返ってこんな風に言えるなんて、こんなに有意義な人生なんてないと思うのです。私達のいったい何人が同じことを言えるでしょう。

私達の、ぬくぬくとして楽な人生、短い労働時間とたくさんの休日、生きていく上での様々な快適さ...これら全ては、ほんとうに私達の喜びや満足を増加させているのでしょうか?私達が臨終の床で過去を振り返る時、懐かしく思い出すのは「自由で楽だった時」なのでしょうか、それとも、「不運な状況で物事を成し遂げた時」なのでしょうか。

私は何を言いたいのか?皆で農奴制のあった中世に戻ろうとでも?...当然そんなことではありません。でも、この自信に満ちた人達の言葉は、楽な道が必ずしも最上の道とは限らないということを示唆しているのです。真直ぐで平坦な道を行く時、人は成りゆき任せになりがちなもの。惰性で生きるようになり、惰性に甘んじると、人は皆坂をころげ落ちるようになります... だから私達は、何かに挑む必要があり、困難に出会う必要があり、確とした制約を受けることさえも必要なのです。これに加えてもうひとつ、なすべき仕事、目的が与えられるとき、私達は一番良い状態になるのです。

ここにひとつ、矛盾したような事があります。過去何世紀もの間、生活を向上させようと懸命になってきた人の存在がありました。その人達は、洗濯機、自動車、電話といった物を造り出して、その業績に満足してきました... 無数の、私達の生活を楽にする品々です。それなのになぜ、こうして便利なものに囲まれているたくさんの人達は、日常生活に満足を得られないのでしょうか。私達は、つらい生活を送っているかのように思い、雇い主や生活の愚痴などをグタグダこぼしていますが、問題は実際のところ、楽すぎることにあるのでは....? 

今日、私達のほとんどは、本当の意味でのつらさや難局には日々直面していません。その結果、来る日も来る日も、なんら記憶に留まることなく過ぎてしまうのです。ですから、私達が臨終の床に就いて人生を振り返る時、あの老庭師達のように言えるでしょうか。「できるものなら、すっかり同じに生きるさ」と。時々、気になるんです...

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