デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 1999

もし何事も計画通りに行けば、このニュースレターはちょうど1月の半ば頃、恒例の展示会が始まる少し前に、お手元に届いているはずです。私がこれを書いているのは12月の初めなので、いろいろなことの準備にとりかかっている途中です...今は今年の摺物アルバムの9番目を作っている最中で、ご覧になってわかるように、このページの右側の円にはまだひとつ空きがあります。今年のアルバムは10枚の版画で構成されます、と収集家の方達に約束したのに!この摺物の摺りが終わったらすぐに来年の年賀状のデザインを考えて、彫りと摺りをしなくてはならないし、それが片付いてようやく10番目の作品にとりかかることができます。なんとか展示会が始まるまでに仕上げられるように。

昨年、百人一首シリーズの100枚目に取り組んでいた時、つまり展示会の数日前のことですが、私は、もう二度とこんなあわただしい状態にはならないようにしようと誓いました...それなのにまったく同じ状況に陥ってしまっているのです!来年にはこの恒例のぎゅうぎゅう詰め状態に陥らないよう、自分の仕事をきちんと管理するやり方を身につけなくては...とは思っているのですが...

このニュースレターを楽しんでいただけますように。中心になる話は「職人訪問」です。今回はかなり遠くまで行かなければなりませんでした...約一万キロ程先まで!

ハリファックスから羽村へ

この話は実にあちこちをさまよってきましたね。フルートの演奏...イギリスで大道芸をしていたこと...ギター製作...ジャズの「先生」...きっとみなさんは、「まったく、いつになったら羽村に来ることになるんだい?」と思っておられることでしょう。この話を読んでわけがわからなくなってきておられるとしたら、それは実に実際の状況と合致しています。というのは、その頃私自身も何がなんだかわからなくなっていたのですから!フルートを吹き始めてまもない頃は私の未来ははっきりしていました。ぼくはオーケストラのフルート奏者になるはずだったのです。何をすればよいのかも明確にわかっていました。しかしこれを読んできていただいておわかりのように、私はあちこちに手を出して、いろんなものをかじっては、どれにも夢中になることはありませんでした。

私がある重要な点で大変運がよかったと思うのは、私の暮らしていた社会がこういう生き方を受け入れてくれた、ということです。この若者はまだ「自分探し」の旅をしているんだ、ということをまわりの人達はよくわかってくれていて、あれこれ口出しせずに好きにやらせてくれました。「ちゃんとした仕事を見つけなさい」とか、「もっと意義のあるようなことをしなさい」といったようなプレッシャーは、両親からも社会の人達からも受けることはほとんどありませんでした。起こりうることはふたつにひとつだ、ということをみんなわかっていたのです。この少年がついには何かおもしろいものを見つけて社会にとって有用なものとなるか、それとも見つけられずに人生を無駄に過ごしてしまうか。どちらにしても、他人にはどうすることもできないわけです。私の社会は、機会は無限に与えてくれました。それを活かすことができるかどうかは私次第でした。

(ここでひとつ言っておきたいことがあります。私は、当時のカナダで同じような状況にあった人達のほとんどとは違って、失業保険とか政府からの生活保護などを受けようとしたことはありません。私は、自分探しの旅をしている健康な若者を支えるために公的な資金が使われることには絶対反対でした。(今もそうです)自分で選んだのなら、きちんとした仕事につかないのは自由ですが、公共の財布から施しを受けるべきではありません。)

ロックバンドでの活動はもちろん単なる「お遊び」程度のものでした。そのグループが本物のバンドになるだろうなどとは夢にも思ったことはありません。そしてメンバーの何人かが秋になって学校に戻るためにやめていき、バンドは自然に消滅していきました...

こういことをしていた何年かの間、私はまだ時々フルートやサックスの演奏依頼を受けていました。その夏の終わり頃、私は音楽の仕事の紹介業者から電話をもらいました。町の広場で毎年行われるフットボールの試合や夏祭りのパレードで演奏しないか、という申し出です。私は喜んで引き受けました。これで何ヶ月かは家賃が払えるのですから。しかしその時には私は知りませんでした、この電話がこの話の大きな転換点をもたらすきっかけになるものだったとは...

この仕事では私はアルトサックスを担当しました。あるフットボールの試合の時に私の隣でテナーサックスを手にしていたのは、なんと、ビルでした。私が3年間働いていた音楽店の社長です。私達が会ったのは実に久しぶりだったのであれこれおしゃべりをし、そして彼が爆弾を落としました。「なぁ、もう一度おれの所で働かないか?トロントに支店を開いたんで、誰かにその店を任せたいんだ。」

これを書いている今、私はその時の自分の反応がどんなものだったのか本当に思い出せません。また「従業員」にもどることには気がすすまなかったのか?おもしろそうな仕事だと飛びついたか?本当に思い出せないのです...しかしどうなったのかは覚えています。数日後、私はトロント行きの飛行機に乗っていました!

バンクーバーからトロントへ...日本からはさらに遠くへ!もちろんその時には、私は自分の未来がそれとは反対の方向に−太平洋の向こう側に−あるのだなどとは思ってもみませんでした。反対方向へ向かったように見えますが、トロントでの次の2年間に、木版画家としての現在の私を生み出す活動が始まったのです。羽村へ...トロント経由で...

Mr. Matt Brown

以前この百人一緒で触れたことがありますが、私は「バレン」を通じて世界中の版画家達と連絡を取り合っています。「バレン」は、版画家達が様々な意見を交換するインターネット上のグループの名前で、2年前に私が発足しました。交流は着実に規模を拡大し、国際的な版画家コミュニティにまで発展しています。とはいえ、キーボードを打ちながら電子メールを送る意見交換では、どうしてもまどろっこしい面が度々でてくるのです。話したいことが山のようにあるものですから。それで近ごろは、会員の人達がアメリカ中のあちこちで会合を開くようになってきました。そして私も、この十月にメンバーのひとりであるマシュー・ブラウンさんに会いに行ってきました。

今回は1万キロの彼方へ、職人を訪ねます。

* * *

十月の始め、夜は肌寒いボストン空港に着くと、マッツ(マシュー)が私達の到着を待っていました。彼はニューハンプシャーの田舎から何時間もかけて、車で迎えに来てくれたのでした。私が彼に会いたかったように、彼の方も遥か日本からやってくる木版画家に会いたかったのです。会うとすぐにわかりました。彼の車でボストンの町はずれにある宿泊予定地(彼が家族ぐるみで親しくしている友人の家)に向かう途中、マッツは暗闇に沈んだ町のそこかしこを指差して説明してくれ、彼の母校であるハーバード大学もそんな闇の中にありました。私の場合、大学は尻切れトンボになってしまいましたが、マッツはずば抜けて優秀な成績で卒業しています。どうやら、同じ目的地に到達する道はいろいろあるようです。

2年程前に初めてマッツと話をしたその時から(コンピューターのスクリーンを通じてですが)、彼とは有意義な意見を交わすことができそうだと興味津々たるものがあったのですが、こうして実際に会ってみると自分が間違っていなかったということがはっきりしました。着いたばかりの最初の晩など、おそらくひと晩中でも話し続けたと思います。回りの人達が、夜中の2時近くなった時に、もう寝た方がいいと言ったものですから......

次の日の朝、マッツは有名なウォルデン湖に連れて行ってくれました。ここは私が行ってみたいと思っていたところだったのです。池の回りを畔に沿って歩きながら、私達は前の晩の続きを話し始めました。私達ふたりの版画家は何をそんなに勢い込んで話していたのでしょうか。どんな彫刻刀を使ったらいいか、どんな版木が一番いいか、といった技術的な事柄でしょうか。いいえ、まるで違うのです。一週間の滞在の最後の頃にはそんな話もしましたが、最初の何日かはもっと他のことに関心があったのです。「版画家の使命って一体なんだろうか」「創作活動には首尾一貫したものがあって、きれいな絵をまき散らしているだけではない、という確信が持てるだろうか」「他所の家の飾り物を作っているだけなのだろうか」「僕達のしている事に重要な意義があるのだろうか」 こんなとてつもない難題ばかりでした。でも考えなくてはいけない問題なのです。


この話はちょっと早すぎたかも知れません。マッツの考えをお伝えする前に、彼についての説明がもっと必要ですね。

日本の方ならば、版画について特に詳しくない人でも、版画にはかなり性格の違うふたつのタイプがあるということを御存じでしょう。伝統版画の、製作工程における役割分担がはっきりしているタイプと、創作版画といって作家が全ての工程をひとりで行うタイプです。20世紀初頭に始まった当時の創作版画の作家達は、その製作過程における技術的な面を意識的に拒絶しました。彼らは美しい線を彫ったり、均一で滑らかな色を摺るということを無視したのです。彼らは、荒っぽければ荒っぽいほど良いと考え、そうする事によって伝統的な版画と一線を画しました。

これを読んでいる方はもう、私がどちらの側かすぐにお分かりですね。私は創作家ではありません。伝統技術者なのです。それでは、マッツのような版画家はどちらに属するのでしょうか。7年前、彼が版画作りに関心を持ち始めた頃、彼は高級建具を専門に作っていました。大学を卒業と同時に選んだ道です。でも版画作りに熱中してしまい、始めてまだ間もない建具作りを脇において、どんどん版画の方に時間とエネルギーを注ぐようになりました。そしてついに、この私が14年前に思い切ったのと同じように、方向転換をしてしまいました。版画作りを専業とし、もう一方の仕事は諦めたのです。

マッツの場合は日本の創作版画家と違い、拒否しなくてはならない対象は何もありません。日本の伝統という重い歴史に縛られることなく、どんなタイプの絵だろうが、どんな技法であろうが、自由に近付くことができます。「この風景画の空にはきれいな日本のぼかしがいいかなあ?じゃあテクニックをいただき!」「この版画には奉書和紙が良いかなあ?普通の紙じゃなくて..... やっぱり日本の紙だ!」

というわけで、マッツは版画の世界を縦横無尽に探究することができます。一番適した材料なり技法なりを選び、それについて掘り下げた勉強をして、自分の作品に応用することができるのです。なんだか両方のタイプの版画を一番享受しているみたいです。彼は独創的で創造力のある作家ですが、伝統に縛られていません。良い作品を作るために必要ならば、伝統的な技法も、なんのこだわりもなく自由に応用していけるのですから。


彼が私の訪問を心待ちにしていたのは、こういった状況が背後にあったからで、彼にとって私は言わば日本の伝統技術への窓口なのです。マッツはこの窓をできる限り大きく開いておこうとしていて、多くの創作版画家がするようにぴしゃりと閉ざしたりはしないのです。

このように、私達は根本的な違いを持っていますが、他の面ではとても似ています。二人とも小さい子供がいて、(私には娘がふたり、彼には息子がふたり)、二人とも独学で版画を学び、試行錯誤を繰り返しながらも機会さえあれば経験者の意見に耳を傾けてきました。彼も版画だけで生計を立てていますが、これは今の時代ではどこの国にいてもなかなか難しい状況になっています。

他にも、私達が共に大切だと思っているのは収集家を「教育」していくという考え方です。私は何年も前から、自分の作品を集める人にはそれがどのようにして作られるのか、どうしてそうなるのか、ということをできるだけ分かってもらいたいと思ってきました。マッツも同様ですが、彼の方は私よりも大変な状況にあります。日本では、ほとんどの人が木版画について何らかの知識を持っていて、少なくともどんな物かということは誰でも知っているでしょう。でもアメリカでは、一般の人は木版画のことをまるで知らないのです。ですからマッツは、木版画とはどんなものかという説明から始めなくてはなりません。展示会や工芸品市で彼の作品を見せる機会がある毎に、木版画の歴史や製作過程をしめすパネルを展示し、機会があれば実演もして見せています。

今回の滞在中に一番集中した話題は版画の「テーマ」についてでした。インターネットの「バレン」グループの中には、彼らの版画活動は社会を変えて行く手段なのだと考えている人達がいます。作品に政治的なあるいは活動家としての意見を込めるというのです。私の場合はそういったことにはまるで関心がありません。もちろん、みにくいことや不公平なことは世界中のあちこちにあります。でもそういったことには、作品を通してでなく言葉で抗議していきたいのです。ですから、私の作品にはテーマなど必要ではなく、実際どんな絵でもかまわないのです。突き詰めれば、私のテーマは「版画自体」であって、版画独自の美しさを伝えることだからです。ところが一方、マッツは芸術家です。彼だって、版画は美しいから好きなのですが、どんな絵であるかという事はとても大切なのです。となると、彼は活動家グループの一員なのでしょうか。いいえ、違います。ここにある彼の作品を見ればお分かりになるでしょう。彼の版画は日常を見る彼の視点を反映していて、彼の家族や身近な景色などが題材です。

皆さんはこういったテーマをどう思いますか。ちょっと前に書いた活動主義の版画家達ならきっとこういうでしょう。「時間の無駄だよ!ただきれいなだけじゃないか!」(私の作品にはもっときついことを言われそうですが)でも、スケッチブック携えて自宅の裏山を散歩しながら、目のあたりにする景色をそこに捉え、家に戻って版画の中に再現しようと試みるのは、時間の無駄でしょうか。もしもこれが時間の無駄というのならば、芸術は全て無駄だということを認めなくてはいけないことになります。世の中の不正に抗議する時と場所もあれば、「立ち止まってバラの香りをかぐ」というような心の安らぎを得る時と場所もある。日常生活の中に、家族と過ごしたり身近にある野山を楽しむ時間が持てない人達は、とても大切な何かを忘れているのです。その「何か」を思い起こさせるのはマッツの使命で、彼は作品を通して、それがどんなに大切なのかを私達に認識させてくれるのです。なんて意義のあるテーマでしょう、一生の仕事として。

こうして一週間近く、充実した議論を交わしている間にニューハンプシャーを去る時は来てしまいました。マッツ、奥さんのエリザベス、今回の滞在中に7歳の誕生日を迎えたナサニエル、そして2歳のアッシャー。でも「さよなら」は一時的なものです。また行くつもりですから。一万キロも離れているとすぐにという訳にはいきませんが、必ずいつかまた訪ねるつもりです。マッツと一緒にスマーツ山を登り、あの広大な疑問について論じるのです。答えなどありはしないのだけれど、取り組まなくてはいけない疑問。その疑問についてじっくり語り合いたいのです。


幕間

羽村のアパートに暮らし始めてもう14年になります。日本の方なら、3DKのマンションと言えばどのようなものか察しがつくと思います。でも、そこにひとりで暮らしていると言ったら、おそらく「ワー、たったひとりでそんなに使って!」と思われるでしょう。でもこれが西洋の人で、全部合わせてマンションは57・だと知ったら、反応はちょっと変わってくると思うのです。「ひとりでそんなに」といった考えは、まず浮かばないでしょう。

今日3DKのアパートといえば独り者にはほどほどの広さですが、私の場合はここにただ住んでいるだけではありません。ここは仕事場でもあるのです。ひとりで何役もこなさなくてはならない版画家の仕事場です。去年の税金の控除として、版画家業の収入から住居費の50%を計上しましたが、実情を考えるとこの割合は遥かに低いのです。もっときちんと見積もるために家中を歩き回ってみると、90%というのが妥当なところでしょう。どの部屋にも版画の道具や本、その他の材料が詰まってますし、版木は至る所に積み重ねられています。押し入れの中も版画や版木でいっぱいですし、封筒や版画を郵送するための段ボールケースの山はひと部屋を占拠しています。玄関には木箱に収められた貴重な和紙が3箱並んでいますし..... 実際のところ、版画に関係のない場所は台所とトイレだけですが、それにしたって普通の作業場に必要なものです。

別に愚痴を言っている訳ではありません。私は日本に住む事を自分で選んだのですから、日本の住宅事情を(ある程度)受け入れるのは当然です。でも、今回友人のマッツを訪ねてニューハンプシャーへ行って以来、大分と心を揺さぶられ、一体どうすれば良いのだろうと考え込んでしまったのです。

今回の旅行で最初の晩に泊まったマッツの友人宅は、コンコードというボストン郊外の町にありました。そこで目を見張る様な体験をしたのです。彼等の家の敷地はとても広く、隣の家が見えないほどだったのです。建物自体も大きくて快適で、完全に別棟になっている仕事場もありました。 これを読んでおられるのが日本の方なら、きっとこう呟くでしょう「当然ですよ、アメリカは恐ろしく広いんだもの。日本は狭い....」でも、これだけでは納得のいく説明にはなりません。日本にだって使われていない土地がありますし、事実、地方の多くでは過疎化が大きな問題になっているのです。使える土地がどれくらいあるかということはあまり関係ないのです。もしも私が山奥か僻地に出かけていく気ならば、私だって日本で広い土地に住めるのです。でも、コンコードの素敵な家は荒野の中にぽつんと建っていたのでしょうか?いいえ全然ちがいます。町まで歩いて数分のところで、そこまで行けば、近代的な生活に必要なものはなんでも揃うのです。食品店、レストラン、銀行、郵便局、公共のプール、本屋、..... 自転車を数分も走らせればなんでもあります。そして大都市にしかないものが入り用な時は、ディーゼル車で30分も乗ればボストンの中心街です。では、コンコードの町に住んでいる人達は贅沢な生活をするゆとりのあるお金持ちばかりなのでしょうか。この答えも分かりますよね。中には豪邸もあって、それはおそらくたくさんの富を貯えた人でしょうが、ごく一般の人の手に届く家もたくさんあるのです。

旅行から戻って、このことについて随分と考えました。私だって、平均的な収入はあります。なのに、住んでいてなにかと便利なこの羽村市に自分の家が持てるでしょうか。最近は土地の値が下がっているので、今住んでいる程度の3DKのマンションなら手が届くでしょう。でも、3DKのコンクリートの箱ではなく、家と呼べる建物が欲しいのです。私のささやかな要求を満たしてくれる家で、版画を作る小さな仕事部屋、道具や材料を置く納戸、蔵書を置いてくつろげる自分の部屋、家の回りにちょっとした緑 ....。羽村では、こんなことは不可能なのです!

ですから、唯一の選択は山の奥に出て行くことで、そういった所でしか私の考えているような家は、手持ちの資金では建たないのです。でもそういった所に住むということは、社会から離れるということでもあります。世捨て人になるという事なのです。インターネットを通じて世界との繋がりは維持するでしょうが、それでは実際の社会生活の代用にはまるでなりません。

この豊かな現代日本に、私達はどんな社会を築いてきたのでしょうか。一般の人は、こんな両極とも言える二つの選択肢のどちらを選べばいいのでしょうか。ウサギ小屋と揶揄された住まい(一生掛けてローンの返済です)を選ぶか、山奥に住むか。こんな社会構造はどう考えてもおかしいですよ。

こんなことを友人と話していた時、彼女はデービッドの望むような所が日本にもあると教えてくれました。生活に必要なものは何でもあるし、自然も豊かだというのです。レストランも食料品店も、プールも、東京への便だってまあまあ....  私の要求のほとんどに応えてくれるような所。それは軽井沢でした。そこにはいつかの夏に行ったことがあったのですが、先週その附近一体をもっと詳しく見て、不動産屋とも話をしようと出かけてみました。さあて、日本の方ならここまで読んで、きっと笑い出されたことでしょうね。不動産業者が言いそうな事は察しがつくでしょうから.....

その通り、あんな快適な環境に住む特権を得たいのなら、もっとお金を払わなくてはならないからです。東京の郊外にあるこの羽村で捜すよりも遥かに高額をです。軽井沢のような所に土地が買えるのは、億万長者か大会社だけです。

こんなこと当然分かっているべきだったとは思うものの、やはりショックでした。でも、今回改めて行ってみて、このジレンマを抜ける糸口を見つけたのです。それは、軽井沢は夏の町だということです。貸し自転車を乗り回して観察すると、ほとんどどの家も冬の間はしっかり閉ざされていて、みんな来年の夏まで戻ってきません。また、夏になっても誰も戻って来ず、まるで使われていないような家もたくさんありました。建物が建っていない空き地もたくさんありました。不動産屋の説明では、ちょっと前のバブルが弾けて以来、別荘を維持できなくて手放したがっている人がたくさんいるというのです。

これは私にとってもってこいの機会です。持ち主達は土地を売るためにはどんどん値を下げなくてはならないはずですから。でも、そこが日本、そうは問屋が卸さない。いったん土地の値段が高い価格に設定されてしまうと、それがいくら非現実的であろうとも、持ち主は容易に値段を下げようとしないのです。その結果、状況は凍結したままです。使いようのない土地を所有している人がいる一方で、私のようにそういった土地を待ち望んでいる者は閉め出されてしまうのです。

そこで、このジレンマへの解決策がないものか、土地の賃貸システムはどうだろうか、と考えました。私は現在48歳、もしも50年契約で空いている土地を借りることができれば、双方にとって有益でしょう。土地の所有者はその権利を維持できるし、私は住み心地のいい地域に家と仕事場を建てられる。でも、業者はひたすら首を横に振るのみ。日本ではちょっと.... 少なくともここではねえ....

そんないきさつの後、私は再びこのコンクリートの箱に戻ってきました。いつものように胡座をかいて版画を作りながら、海の向こうで見てきた友達の快適な生活に思いを馳せているのです。一体全体どうしてこの日本ではもっと人口を分散しないのでしょうか。そうすればもっと自然な状態で心地よく住めるし、程よい大きさの地域社会からの恩恵に預かることもできるのに。でも、あまりこだわらないほうがいいですね。私はここで生きることを選んだのです。木版画作りの地盤が、この国にしっかり根付いているからです。ここはぐっとこらえて、ウサギ小屋生活に甘んじるしかないでしょう。でも、そう簡単に諦めたりはしませんよ!

なにか良い案がありましたら、ぜひお知恵拝借を......

今年の展示会にはちょっと特別なことを考えています。昨年の展示会にいらして下さったみなさんは、部屋の片隅に小さく囲ったコーナーがあったことを覚えておられるでしょう。そこには障子があって摺物の見本がおいてありました。私は、適切な照明のもとでは木版画がどれほど美しく見えるものかをみんなに見てもらいたかったのです。

今年も同様のことをやろうと考えています。今回は、小さなコーナーを設けるのではなく、ギャラリーのほとんどをそういう状態にする予定です。今年の摺物シリーズを全部障子の前に配置しようと思うのです。準備には相当な時間がかかるでしょうが、そうする価値はあると思います。  (昨年の展示会に来られなかった方々のために、百人一首シリーズの全セットもまた展示します。)  そしてこれまでと同様、私は摺りの道具を持ち込んで、毎日実演をする予定です。

今年の展示会は昨年に比べるとやや静かなものとなるでしょう。昨年は、長いシリーズが完成した特別の年だったわけですから。しかしお客さんの数がどうであれ、私自身は自分のやってきたことに満足しています。1年前の今ごろ、摺物アルバムを作る、というのは単にまだ頭の中の考えにすぎませんでした。本当に摺物のような作品が作れるだろうか?アルバムはどんなものになるだろうか?その計画は本当にやってみる価値があるのだろうか?

それらの質問には今答えが出ていると思います...1月に展示会でお会いするのを楽しみにしています!