デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

幕間

羽村のアパートに暮らし始めてもう14年になります。日本の方なら、3DKのマンションと言えばどのようなものか察しがつくと思います。でも、そこにひとりで暮らしていると言ったら、おそらく「ワー、たったひとりでそんなに使って!」と思われるでしょう。でもこれが西洋の人で、全部合わせてマンションは57・だと知ったら、反応はちょっと変わってくると思うのです。「ひとりでそんなに」といった考えは、まず浮かばないでしょう。

今日3DKのアパートといえば独り者にはほどほどの広さですが、私の場合はここにただ住んでいるだけではありません。ここは仕事場でもあるのです。ひとりで何役もこなさなくてはならない版画家の仕事場です。去年の税金の控除として、版画家業の収入から住居費の50%を計上しましたが、実情を考えるとこの割合は遥かに低いのです。もっときちんと見積もるために家中を歩き回ってみると、90%というのが妥当なところでしょう。どの部屋にも版画の道具や本、その他の材料が詰まってますし、版木は至る所に積み重ねられています。押し入れの中も版画や版木でいっぱいですし、封筒や版画を郵送するための段ボールケースの山はひと部屋を占拠しています。玄関には木箱に収められた貴重な和紙が3箱並んでいますし..... 実際のところ、版画に関係のない場所は台所とトイレだけですが、それにしたって普通の作業場に必要なものです。

別に愚痴を言っている訳ではありません。私は日本に住む事を自分で選んだのですから、日本の住宅事情を(ある程度)受け入れるのは当然です。でも、今回友人のマッツを訪ねてニューハンプシャーへ行って以来、大分と心を揺さぶられ、一体どうすれば良いのだろうと考え込んでしまったのです。

今回の旅行で最初の晩に泊まったマッツの友人宅は、コンコードというボストン郊外の町にありました。そこで目を見張る様な体験をしたのです。彼等の家の敷地はとても広く、隣の家が見えないほどだったのです。建物自体も大きくて快適で、完全に別棟になっている仕事場もありました。 これを読んでおられるのが日本の方なら、きっとこう呟くでしょう「当然ですよ、アメリカは恐ろしく広いんだもの。日本は狭い....」でも、これだけでは納得のいく説明にはなりません。日本にだって使われていない土地がありますし、事実、地方の多くでは過疎化が大きな問題になっているのです。使える土地がどれくらいあるかということはあまり関係ないのです。もしも私が山奥か僻地に出かけていく気ならば、私だって日本で広い土地に住めるのです。でも、コンコードの素敵な家は荒野の中にぽつんと建っていたのでしょうか?いいえ全然ちがいます。町まで歩いて数分のところで、そこまで行けば、近代的な生活に必要なものはなんでも揃うのです。食品店、レストラン、銀行、郵便局、公共のプール、本屋、..... 自転車を数分も走らせればなんでもあります。そして大都市にしかないものが入り用な時は、ディーゼル車で30分も乗ればボストンの中心街です。では、コンコードの町に住んでいる人達は贅沢な生活をするゆとりのあるお金持ちばかりなのでしょうか。この答えも分かりますよね。中には豪邸もあって、それはおそらくたくさんの富を貯えた人でしょうが、ごく一般の人の手に届く家もたくさんあるのです。

旅行から戻って、このことについて随分と考えました。私だって、平均的な収入はあります。なのに、住んでいてなにかと便利なこの羽村市に自分の家が持てるでしょうか。最近は土地の値が下がっているので、今住んでいる程度の3DKのマンションなら手が届くでしょう。でも、3DKのコンクリートの箱ではなく、家と呼べる建物が欲しいのです。私のささやかな要求を満たしてくれる家で、版画を作る小さな仕事部屋、道具や材料を置く納戸、蔵書を置いてくつろげる自分の部屋、家の回りにちょっとした緑 ....。羽村では、こんなことは不可能なのです!

ですから、唯一の選択は山の奥に出て行くことで、そういった所でしか私の考えているような家は、手持ちの資金では建たないのです。でもそういった所に住むということは、社会から離れるということでもあります。世捨て人になるという事なのです。インターネットを通じて世界との繋がりは維持するでしょうが、それでは実際の社会生活の代用にはまるでなりません。

この豊かな現代日本に、私達はどんな社会を築いてきたのでしょうか。一般の人は、こんな両極とも言える二つの選択肢のどちらを選べばいいのでしょうか。ウサギ小屋と揶揄された住まい(一生掛けてローンの返済です)を選ぶか、山奥に住むか。こんな社会構造はどう考えてもおかしいですよ。

こんなことを友人と話していた時、彼女はデービッドの望むような所が日本にもあると教えてくれました。生活に必要なものは何でもあるし、自然も豊かだというのです。レストランも食料品店も、プールも、東京への便だってまあまあ....  私の要求のほとんどに応えてくれるような所。それは軽井沢でした。そこにはいつかの夏に行ったことがあったのですが、先週その附近一体をもっと詳しく見て、不動産屋とも話をしようと出かけてみました。さあて、日本の方ならここまで読んで、きっと笑い出されたことでしょうね。不動産業者が言いそうな事は察しがつくでしょうから.....

その通り、あんな快適な環境に住む特権を得たいのなら、もっとお金を払わなくてはならないからです。東京の郊外にあるこの羽村で捜すよりも遥かに高額をです。軽井沢のような所に土地が買えるのは、億万長者か大会社だけです。

こんなこと当然分かっているべきだったとは思うものの、やはりショックでした。でも、今回改めて行ってみて、このジレンマを抜ける糸口を見つけたのです。それは、軽井沢は夏の町だということです。貸し自転車を乗り回して観察すると、ほとんどどの家も冬の間はしっかり閉ざされていて、みんな来年の夏まで戻ってきません。また、夏になっても誰も戻って来ず、まるで使われていないような家もたくさんありました。建物が建っていない空き地もたくさんありました。不動産屋の説明では、ちょっと前のバブルが弾けて以来、別荘を維持できなくて手放したがっている人がたくさんいるというのです。

これは私にとってもってこいの機会です。持ち主達は土地を売るためにはどんどん値を下げなくてはならないはずですから。でも、そこが日本、そうは問屋が卸さない。いったん土地の値段が高い価格に設定されてしまうと、それがいくら非現実的であろうとも、持ち主は容易に値段を下げようとしないのです。その結果、状況は凍結したままです。使いようのない土地を所有している人がいる一方で、私のようにそういった土地を待ち望んでいる者は閉め出されてしまうのです。

そこで、このジレンマへの解決策がないものか、土地の賃貸システムはどうだろうか、と考えました。私は現在48歳、もしも50年契約で空いている土地を借りることができれば、双方にとって有益でしょう。土地の所有者はその権利を維持できるし、私は住み心地のいい地域に家と仕事場を建てられる。でも、業者はひたすら首を横に振るのみ。日本ではちょっと.... 少なくともここではねえ....

そんないきさつの後、私は再びこのコンクリートの箱に戻ってきました。いつものように胡座をかいて版画を作りながら、海の向こうで見てきた友達の快適な生活に思いを馳せているのです。一体全体どうしてこの日本ではもっと人口を分散しないのでしょうか。そうすればもっと自然な状態で心地よく住めるし、程よい大きさの地域社会からの恩恵に預かることもできるのに。でも、あまりこだわらないほうがいいですね。私はここで生きることを選んだのです。木版画作りの地盤が、この国にしっかり根付いているからです。ここはぐっとこらえて、ウサギ小屋生活に甘んじるしかないでしょう。でも、そう簡単に諦めたりはしませんよ!

なにか良い案がありましたら、ぜひお知恵拝借を......

コメントする