デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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Mr. Matt Brown

以前この百人一緒で触れたことがありますが、私は「バレン」を通じて世界中の版画家達と連絡を取り合っています。「バレン」は、版画家達が様々な意見を交換するインターネット上のグループの名前で、2年前に私が発足しました。交流は着実に規模を拡大し、国際的な版画家コミュニティにまで発展しています。とはいえ、キーボードを打ちながら電子メールを送る意見交換では、どうしてもまどろっこしい面が度々でてくるのです。話したいことが山のようにあるものですから。それで近ごろは、会員の人達がアメリカ中のあちこちで会合を開くようになってきました。そして私も、この十月にメンバーのひとりであるマシュー・ブラウンさんに会いに行ってきました。

今回は1万キロの彼方へ、職人を訪ねます。

* * *

十月の始め、夜は肌寒いボストン空港に着くと、マッツ(マシュー)が私達の到着を待っていました。彼はニューハンプシャーの田舎から何時間もかけて、車で迎えに来てくれたのでした。私が彼に会いたかったように、彼の方も遥か日本からやってくる木版画家に会いたかったのです。会うとすぐにわかりました。彼の車でボストンの町はずれにある宿泊予定地(彼が家族ぐるみで親しくしている友人の家)に向かう途中、マッツは暗闇に沈んだ町のそこかしこを指差して説明してくれ、彼の母校であるハーバード大学もそんな闇の中にありました。私の場合、大学は尻切れトンボになってしまいましたが、マッツはずば抜けて優秀な成績で卒業しています。どうやら、同じ目的地に到達する道はいろいろあるようです。

2年程前に初めてマッツと話をしたその時から(コンピューターのスクリーンを通じてですが)、彼とは有意義な意見を交わすことができそうだと興味津々たるものがあったのですが、こうして実際に会ってみると自分が間違っていなかったということがはっきりしました。着いたばかりの最初の晩など、おそらくひと晩中でも話し続けたと思います。回りの人達が、夜中の2時近くなった時に、もう寝た方がいいと言ったものですから......

次の日の朝、マッツは有名なウォルデン湖に連れて行ってくれました。ここは私が行ってみたいと思っていたところだったのです。池の回りを畔に沿って歩きながら、私達は前の晩の続きを話し始めました。私達ふたりの版画家は何をそんなに勢い込んで話していたのでしょうか。どんな彫刻刀を使ったらいいか、どんな版木が一番いいか、といった技術的な事柄でしょうか。いいえ、まるで違うのです。一週間の滞在の最後の頃にはそんな話もしましたが、最初の何日かはもっと他のことに関心があったのです。「版画家の使命って一体なんだろうか」「創作活動には首尾一貫したものがあって、きれいな絵をまき散らしているだけではない、という確信が持てるだろうか」「他所の家の飾り物を作っているだけなのだろうか」「僕達のしている事に重要な意義があるのだろうか」 こんなとてつもない難題ばかりでした。でも考えなくてはいけない問題なのです。


この話はちょっと早すぎたかも知れません。マッツの考えをお伝えする前に、彼についての説明がもっと必要ですね。

日本の方ならば、版画について特に詳しくない人でも、版画にはかなり性格の違うふたつのタイプがあるということを御存じでしょう。伝統版画の、製作工程における役割分担がはっきりしているタイプと、創作版画といって作家が全ての工程をひとりで行うタイプです。20世紀初頭に始まった当時の創作版画の作家達は、その製作過程における技術的な面を意識的に拒絶しました。彼らは美しい線を彫ったり、均一で滑らかな色を摺るということを無視したのです。彼らは、荒っぽければ荒っぽいほど良いと考え、そうする事によって伝統的な版画と一線を画しました。

これを読んでいる方はもう、私がどちらの側かすぐにお分かりですね。私は創作家ではありません。伝統技術者なのです。それでは、マッツのような版画家はどちらに属するのでしょうか。7年前、彼が版画作りに関心を持ち始めた頃、彼は高級建具を専門に作っていました。大学を卒業と同時に選んだ道です。でも版画作りに熱中してしまい、始めてまだ間もない建具作りを脇において、どんどん版画の方に時間とエネルギーを注ぐようになりました。そしてついに、この私が14年前に思い切ったのと同じように、方向転換をしてしまいました。版画作りを専業とし、もう一方の仕事は諦めたのです。

マッツの場合は日本の創作版画家と違い、拒否しなくてはならない対象は何もありません。日本の伝統という重い歴史に縛られることなく、どんなタイプの絵だろうが、どんな技法であろうが、自由に近付くことができます。「この風景画の空にはきれいな日本のぼかしがいいかなあ?じゃあテクニックをいただき!」「この版画には奉書和紙が良いかなあ?普通の紙じゃなくて..... やっぱり日本の紙だ!」

というわけで、マッツは版画の世界を縦横無尽に探究することができます。一番適した材料なり技法なりを選び、それについて掘り下げた勉強をして、自分の作品に応用することができるのです。なんだか両方のタイプの版画を一番享受しているみたいです。彼は独創的で創造力のある作家ですが、伝統に縛られていません。良い作品を作るために必要ならば、伝統的な技法も、なんのこだわりもなく自由に応用していけるのですから。


彼が私の訪問を心待ちにしていたのは、こういった状況が背後にあったからで、彼にとって私は言わば日本の伝統技術への窓口なのです。マッツはこの窓をできる限り大きく開いておこうとしていて、多くの創作版画家がするようにぴしゃりと閉ざしたりはしないのです。

このように、私達は根本的な違いを持っていますが、他の面ではとても似ています。二人とも小さい子供がいて、(私には娘がふたり、彼には息子がふたり)、二人とも独学で版画を学び、試行錯誤を繰り返しながらも機会さえあれば経験者の意見に耳を傾けてきました。彼も版画だけで生計を立てていますが、これは今の時代ではどこの国にいてもなかなか難しい状況になっています。

他にも、私達が共に大切だと思っているのは収集家を「教育」していくという考え方です。私は何年も前から、自分の作品を集める人にはそれがどのようにして作られるのか、どうしてそうなるのか、ということをできるだけ分かってもらいたいと思ってきました。マッツも同様ですが、彼の方は私よりも大変な状況にあります。日本では、ほとんどの人が木版画について何らかの知識を持っていて、少なくともどんな物かということは誰でも知っているでしょう。でもアメリカでは、一般の人は木版画のことをまるで知らないのです。ですからマッツは、木版画とはどんなものかという説明から始めなくてはなりません。展示会や工芸品市で彼の作品を見せる機会がある毎に、木版画の歴史や製作過程をしめすパネルを展示し、機会があれば実演もして見せています。

今回の滞在中に一番集中した話題は版画の「テーマ」についてでした。インターネットの「バレン」グループの中には、彼らの版画活動は社会を変えて行く手段なのだと考えている人達がいます。作品に政治的なあるいは活動家としての意見を込めるというのです。私の場合はそういったことにはまるで関心がありません。もちろん、みにくいことや不公平なことは世界中のあちこちにあります。でもそういったことには、作品を通してでなく言葉で抗議していきたいのです。ですから、私の作品にはテーマなど必要ではなく、実際どんな絵でもかまわないのです。突き詰めれば、私のテーマは「版画自体」であって、版画独自の美しさを伝えることだからです。ところが一方、マッツは芸術家です。彼だって、版画は美しいから好きなのですが、どんな絵であるかという事はとても大切なのです。となると、彼は活動家グループの一員なのでしょうか。いいえ、違います。ここにある彼の作品を見ればお分かりになるでしょう。彼の版画は日常を見る彼の視点を反映していて、彼の家族や身近な景色などが題材です。

皆さんはこういったテーマをどう思いますか。ちょっと前に書いた活動主義の版画家達ならきっとこういうでしょう。「時間の無駄だよ!ただきれいなだけじゃないか!」(私の作品にはもっときついことを言われそうですが)でも、スケッチブック携えて自宅の裏山を散歩しながら、目のあたりにする景色をそこに捉え、家に戻って版画の中に再現しようと試みるのは、時間の無駄でしょうか。もしもこれが時間の無駄というのならば、芸術は全て無駄だということを認めなくてはいけないことになります。世の中の不正に抗議する時と場所もあれば、「立ち止まってバラの香りをかぐ」というような心の安らぎを得る時と場所もある。日常生活の中に、家族と過ごしたり身近にある野山を楽しむ時間が持てない人達は、とても大切な何かを忘れているのです。その「何か」を思い起こさせるのはマッツの使命で、彼は作品を通して、それがどんなに大切なのかを私達に認識させてくれるのです。なんて意義のあるテーマでしょう、一生の仕事として。

こうして一週間近く、充実した議論を交わしている間にニューハンプシャーを去る時は来てしまいました。マッツ、奥さんのエリザベス、今回の滞在中に7歳の誕生日を迎えたナサニエル、そして2歳のアッシャー。でも「さよなら」は一時的なものです。また行くつもりですから。一万キロも離れているとすぐにという訳にはいきませんが、必ずいつかまた訪ねるつもりです。マッツと一緒にスマーツ山を登り、あの広大な疑問について論じるのです。答えなどありはしないのだけれど、取り組まなくてはいけない疑問。その疑問についてじっくり語り合いたいのです。


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