デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

この話は実にあちこちをさまよってきましたね。フルートの演奏...イギリスで大道芸をしていたこと...ギター製作...ジャズの「先生」...きっとみなさんは、「まったく、いつになったら羽村に来ることになるんだい?」と思っておられることでしょう。この話を読んでわけがわからなくなってきておられるとしたら、それは実に実際の状況と合致しています。というのは、その頃私自身も何がなんだかわからなくなっていたのですから!フルートを吹き始めてまもない頃は私の未来ははっきりしていました。ぼくはオーケストラのフルート奏者になるはずだったのです。何をすればよいのかも明確にわかっていました。しかしこれを読んできていただいておわかりのように、私はあちこちに手を出して、いろんなものをかじっては、どれにも夢中になることはありませんでした。

私がある重要な点で大変運がよかったと思うのは、私の暮らしていた社会がこういう生き方を受け入れてくれた、ということです。この若者はまだ「自分探し」の旅をしているんだ、ということをまわりの人達はよくわかってくれていて、あれこれ口出しせずに好きにやらせてくれました。「ちゃんとした仕事を見つけなさい」とか、「もっと意義のあるようなことをしなさい」といったようなプレッシャーは、両親からも社会の人達からも受けることはほとんどありませんでした。起こりうることはふたつにひとつだ、ということをみんなわかっていたのです。この少年がついには何かおもしろいものを見つけて社会にとって有用なものとなるか、それとも見つけられずに人生を無駄に過ごしてしまうか。どちらにしても、他人にはどうすることもできないわけです。私の社会は、機会は無限に与えてくれました。それを活かすことができるかどうかは私次第でした。

(ここでひとつ言っておきたいことがあります。私は、当時のカナダで同じような状況にあった人達のほとんどとは違って、失業保険とか政府からの生活保護などを受けようとしたことはありません。私は、自分探しの旅をしている健康な若者を支えるために公的な資金が使われることには絶対反対でした。(今もそうです)自分で選んだのなら、きちんとした仕事につかないのは自由ですが、公共の財布から施しを受けるべきではありません。)

ロックバンドでの活動はもちろん単なる「お遊び」程度のものでした。そのグループが本物のバンドになるだろうなどとは夢にも思ったことはありません。そしてメンバーの何人かが秋になって学校に戻るためにやめていき、バンドは自然に消滅していきました...

こういことをしていた何年かの間、私はまだ時々フルートやサックスの演奏依頼を受けていました。その夏の終わり頃、私は音楽の仕事の紹介業者から電話をもらいました。町の広場で毎年行われるフットボールの試合や夏祭りのパレードで演奏しないか、という申し出です。私は喜んで引き受けました。これで何ヶ月かは家賃が払えるのですから。しかしその時には私は知りませんでした、この電話がこの話の大きな転換点をもたらすきっかけになるものだったとは...

この仕事では私はアルトサックスを担当しました。あるフットボールの試合の時に私の隣でテナーサックスを手にしていたのは、なんと、ビルでした。私が3年間働いていた音楽店の社長です。私達が会ったのは実に久しぶりだったのであれこれおしゃべりをし、そして彼が爆弾を落としました。「なぁ、もう一度おれの所で働かないか?トロントに支店を開いたんで、誰かにその店を任せたいんだ。」

これを書いている今、私はその時の自分の反応がどんなものだったのか本当に思い出せません。また「従業員」にもどることには気がすすまなかったのか?おもしろそうな仕事だと飛びついたか?本当に思い出せないのです...しかしどうなったのかは覚えています。数日後、私はトロント行きの飛行機に乗っていました!

バンクーバーからトロントへ...日本からはさらに遠くへ!もちろんその時には、私は自分の未来がそれとは反対の方向に−太平洋の向こう側に−あるのだなどとは思ってもみませんでした。反対方向へ向かったように見えますが、トロントでの次の2年間に、木版画家としての現在の私を生み出す活動が始まったのです。羽村へ...トロント経由で...

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