デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1998

「百人一緒」の季節がまたやってきました...そして、このページの端の丸で囲んでいない数字はあとふたつになりました!

前号について、いくつか感想を寄せていただきました。前号では、「摺りの日」のことしか書かなかったので、こんな話は退屈なんじゃないか、と心配していましたが、そんなことはなく、たいていの方は楽しんでいただいたようです。でも、ご安心下さい。この号では同じようなことはしませんから。この号には、いつものように、「ハリファックスから羽村へ」「収集家の紹介」、それからちょっと変わった「職人を訪ねて」を載せています...今回は、職人のお母様についてです!

何かおもしろい記事を見つけていただけますように...。

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

楽器店の仕事でいろいろな人の相談に乗っていたので、この地域で私のことを知っている人は、私が単なるフルート奏者ではなく指揮者でもある、と知っていました。そしてある日私は、以前住んでいた小さな町の青少年楽団の保護者会から連絡をもらいました。実はこの楽団は、何年も前に私の父が始めたものでしたが、父が手をひいてからしばらくは若い指揮者が指導にあたっていました。しかし、彼は子供を教えた経験があまりなく、そのため、次第に楽団員の数も減ってきていました。そこで保護者会では新しい指揮者を探しており、新しい指導者が楽団を立て直してくれることを期待していました。

私はこの話に飛びついたわけではありません。父のしていた仕事を引き継ぐというのはどうも落着かない感じがしました。父は、子供達としっかりした信頼関係を築いていましたが、私の性格は彼とは違っていました。保護者会が、「馴染みの人」の若者版を期待して私を雇おうとしているのなら、それは失敗に終わるでしょう...しかし、父と同じようなやり方はできないけれど、私なりに良い仕事をすることはできる、と思ったので、私はその話を受け入れました。そしてある土曜の朝、私は、公民館のホールで、楽器を吹き鳴らす子供達の群れに囲まれることになったのです。

私はこの仕事から多くを学びました。というのは、これは、今までの経験とは非常に違ったものであったからです。客員指揮者として学校を訪問するのは、本当にただきっかけを与えるだけの仕事でしたが、同じ子供達に毎週毎週楽器の吹き方などの細かい点を指導しなければならないというのは、ずっと基本的で困難な仕事でした。楽団には3つのグループがありました。初心者、中級者、そして上級者です。それぞれのグループで私はまったく違った経験をしました。「小さい子供達」は何の問題もありませんでした。彼らは音を出して楽しくやっていられればそれでいいのでした。学ぶことが楽しいことである限り、彼らはちゃんとしていました。大きな子供達の場合はちょっと大変でした。ひとつには、彼らは父のことを覚えていたので、私は何かにつけ父と比較されました。そしてまた、私がまだ若かったので、私達の年齢差はあまりなく、彼らにとって私は、尊敬の対象と感じられるほどではなかったのです。

ですから、この仕事は半分はうまくいき、半分はうまくいきませんでした。土曜の朝、小さい子供達のグループが練習する時には大変楽しく、満足できるものでした。このグループはよく上達し、私達はあちこちで何度も小さなコンサートを開きました。ショッピングセンターや公民館のホールなどで。平日の夜、大きい子供達のグループの練習はもっとむずかしいものでした。このグループも何度かコンサートを開きましたが、あまり共に楽しめるものではありませんでした。

この指揮はもちろんパートタイムの仕事でした。部屋代を払うくらいにはなりましたが、それ以上の収入はなく、私は何か他の仕事を見つける必要がありました。ちょうどその頃、楽器の修理をやっていたふたりの友人が自分達で事業を始め、私は彼らの店を手伝うようになりました。私は、楽器の修理工達との仕事というのに非常に興味があり、彼らも、店に私が作業台を置く場所を与えてくれました。私は楽器の修理について学んだこともなく、技術も持っていませんでしたが、私にやれるような簡単な仕事もいくつかあって、彼らは、私の生活費の足しになる程度の仕事をやらせてくれました。

私はその仕事場の上にある小さなアパートに引っ越しました。くだんの友人が同じビルに住んでて、彼の奥さんが、「もっと栄養のあるものを食べなくちゃ」と、毎晩私に夕食をごちそうしてくれるようになったのです。彼女はベトナム人で、料理がとても上手でした。20年経った今でも、彼女の作るタレの味を思い出すことができるほどです!

こうして私の部屋代と食費は賄われるようになりました...もうお金の心配はいりません。そして、階下の騒々しく忙しい仕事場の一角で、私はおもしろいことを考える時間をたっぷりと持てたのです...

次回へ続く...

加藤敏喜先生

この方の紹介は、9年も遅れをとってしまいました。この欄の為に彼を訪問する事を初めて話したのは大分と以前のことだったのです。それが、どうしてそんなに遅くなってしまったのかというと、加藤敏喜様が学校の先生だからなのでした。教師なので、私としては、かなり自由な時間があるものと思っていたのです。でも、日本では事情が違っていました。少し時間を割いてもらおうと連絡すると、いつでも会議があったり学校行事があったりで、うまく予定が合わなかったのです。先生はまた、家事や子育ても奥様と分担し、父親としての役割もきちんとこなしているものですから。でもついにチャンスがやってきて、数週間前にやっとお訪ねすることができました。

お宅に伺うとすぐに、とても寛いだ気分になれました。というのは、ちょうど私の部屋と同じように、どちらを向いても本がたくさんあったからです。学校の先生なのですから、こんなことは当然予測できたはずのことですが、そこにどんな本があるかということまでは予測できなかったでしょう。本棚そのものには普通の本を置いてありましたが、その他に、マッチ箱程小さい本を集めていらしたのです。先生が引き出しを開けてそれを見せてくださった時には、一瞬それが何なのか分かりませんでした。でも後から、それが本物の本で、各ページにとても小さな字が印刷されていることがわかったのです。細部に亘る繊細な出来具合いをみて、先生が私の版画に興味を持たれた訳がわかりかけてきました。 

この、どうして私の版画を集めるようになったのかということが、今回聞きたかった事のひとつでした。百人一首が好きだからでしょうか?この答えとして、彼は手許にある日本画の作品をみせてくれました。一部は部屋のあちこちに飾ってあり、折にふれて保存ケースの中のものと飾り変えているそうです。それぞれの絵の気に入ったところをさして、うれしそうに話してくれました。ある絵の空の部分がとりわけうまく描けているとか、竹の部分がどうだとか......。

絵画や版画を自分自身が楽しんでいらっしゃる、というのは良く分かりましたが、なにか他にも理由があるように思えたのです。加藤さんは教師ですから、ほとんどの時間は、御自分のお子さんも含めて、学校及び地域の若者の教育に専念しています。そんな立場から、子供達がテレビなど周りの環境から受ける影響に危惧の念を感じているとのことです。なぜなら、子供達は、彼らを取り巻くそういった物から自己を形成していくからだと。全てが悪いというのではないが、漫画やテレビ以外にも、適切な文化的影響を受けるようにしてあげるよう、配慮しなくてはいけないと感じていらっしゃるのです。こういった考え方は理に適ったもので、私の作品をその教育活動の一部として組み入れてくださっていることを、うれしく思いました。

加藤先生は私の収集家の方達の、良くあるタイプではないかと思うのです。つまり、いくつかの異なった要因が動機となって私の版画を収集されているのです。先生の場合は、御自身での楽しみはもちろんあるわけですが、それに加えて、こういった文化的活動が社会の若者に良い影響を与えるという信念、それと、私のプロジェクトが興味深くて、それを支えるに値すると考えていらっしゃるから、などなのです。

玄関の呼び鈴にドアーを開けると、そこに加藤先生がいらっしゃることが、年に何度かあります。中に上がることはまずなく、ちょっとの間おしゃべりをするだけですが、そんな時はいつも、庭でとれた野菜の入った大きな袋を下げて来てくださいます。先生は教育者としては地域の子供達に心の「糧」を与え、私には百人一首プロジェクトに財政面で「糧」を提供して下さるだけでなく、直接に食べ物としての「糧」までも供給してくださっています。

先生、何から何まで本当にお世話になります。(今度新しく老眼鏡を作ったので — 本当はこれ、内緒なんですが — 先生のコレクションのミニチュア本がもっとよく見られますよ。)

職人を訪ねて

今から十年程前、この「百人一緒」の初回の号を出した時に、「みなさんが集められる版画の製作に関わっている人たちを、20人ほど御紹介する予定です。」と書きました。そして初回の「職人を訪ねて」のコーナーでは、私の使う版木を作って下さっている島野慎太郎さんの仕事のことを書きました。それ以来、私自身もそれをとても楽しみとして、たくさんの方をお訪ねしては読者のみなさんに御紹介してきました。

始めは、この十年間のプロジェクトがまだ終わらないうち、早々と訪ねる人が尽きてしまうのではないかと思っていたのです。でも、あと2ヶ月で最終を迎えようとしている今、ネタ切れになるどころか紹介したい人がまだまだたくさんいるのです。腕効きの職人さんがたくさんこの版画プロジェクトに関わっているので、10年が過ぎてもここで紹介し切れ無いのです。よしんばこのシリーズをもう10年追加したとしても、おそらく足りないでしょう。

ま、そんな心配は先送りにしましょう。そして、今回もまた一人、その方の献身的な働きが無かったら私の版画は存在し得なかった、そんな方を御紹介することに致します。この話はどちらかというと地味なものですが、掛け替えの無い人の話なのです。

*         *         *

過去にさかのぼることほぼ70年、福井県の山間にある大滝の岩野家が長男に嫁を迎える婚礼の日のことです。若者は、伝統ある和紙、越前奉書を引き継ぐ8代目となる人でした。紙の品質で、高い評価を得ていた由緒ある岩野家ですから、花嫁はその一員となることを誇らしく思っていたのでしょうか。それとも、そんなことにはあまり頓着せず、将来の伴侶となる花婿のことばかりを思っていたのでしょうか。

花嫁は、伝統工芸を受け継ぐ一家の嫁となるということの意味を、重々承知していたことでしょう。それは、主婦としての家事一切を任されるのみならず、家業の和紙作りの手伝いもしなくてはならなかったのです。休む間のない日々が待ち受けていました。

実際、働き詰めの生活となりました。戦時中は、当然のこととして家業もかなり途切れましたが、終戦後ひとたび事が安定し始めると、溢れるような仕事の量となったのです。占領軍の時代とその後しばらく、次々と日本にやってくる外国人が、木版画を土産物としてとても喜んだからです。こうして版画への需要が高まると言うことは、当然上質の和紙への需要も高まるということで、岩野家ではそれに応じるために大忙しとなりました。

一家の男達は紙漉きの仕事や、蒸した楮を繊維としてほぐすために叩くなど、力仕事をしましたが、女達に残された仕事もたくさんありました。そんな仕事のなかに、ほぐれた楮の繊維の中からとても細かな不純物を取り除く作業があったのです。 

楮を作る人たちは、和紙職人に発送する前にほとんどの表皮を取り除きますが、それでもまだまだたくさん残っているのです。そして、上質の和紙を作るにはどんなに小さな塵も取り除くという作業が欠かせないのです。作業場には涌き水が流れる細長い水槽があって、そこに、蒸して繊維をほぐした楮を入れます。塵を取り除く作業をする人は、その水槽の縁に座って、水の中にただよう楮を一本つかむと、水中でそれを手繰りながら、細くよれた繊維の束の間を注意深く調べ、小さな小さな塵をみつけては取り除いて行きます。

塵取りの作業が済んだ分は水から上げて、脇に置いた板の上にのせます。すべての塵を完全に取り去るというこの作業は、大変重要なため、それを確実にするためには一度では不十分なのです。したがって、全ての束に同じ作業が、少なくとも、もう一度、同じ人かあるいは別の人によって繰り替えされることになります。水槽はたいてい細長く、数人が並んで座れるようになっていて、必要な時には家族中の誰でもがこの仕事を手伝います。

水はとても冷たく、たちまち指は凍えて感覚がなくなります。一般の版画用和紙を500枚作るのに、およそ25キログラムの、生の楮が必要です。25キログラム.......凍てつく水の中で一本ずつ塵を取り除く。それをもう一度くり返して........

花嫁が直面したのは、この大変な仕事でした。そしてそれ以来ずうっと、皆さんがこうしてこの話を読んでいる今日に至るまで、来る日も来る日もこの仕事を続けてきたのです。

嫁いだ娘は、間もなく母となりました。赤ちゃんは、今日の岩野市兵衛氏で、もう何年間か、私の版画の和紙を作ってくださっています。この親子はどのくらい一緒に仕事をしてきたのでしょう。まだ小さい男の子が庭をかけまわったり、母親の仕事場にやってくるのが想像されます。仕事場では母親が、正座をしたまま冷たい水のなかに手を入れて作業をしている。子供は「僕にも手伝えるよ。やらせて!」おそらく母親は楮をひとつかみ彼に渡したでしょうが、子供は少しの間それを玩ぶとすぐに飽きて、また遊びに飛び出して行く。

「遊びに飛び出して行く」こんなことは母親には許されません。版画ができるのを待つ人がいて、その版画を作るため、紙を待つ人がいます。その紙を漉くために、楮を待つ人がいるのです。みんなが、この、塵を取り除く作業の終わるのを待っているのです。彼女が根をつめて一本ずつ仕上げて行くのを。

彼女の仕事振りを「献身」などという言葉を用いて説明したら、本人はきっと当惑することでしょう。彼女としては、和紙作りの一家の一員として、仕事をこなしているだけなのですから。夫はやがて、その腕を認められて人間国宝という名誉を賜わりました。そして、その夫が先立った後は息子が家長となり、九代目を継ぎました。そして今、彼女は、孫息子と並んでその作業をすることがあり、家業は、つぎの世代へと引き継がれて行きます。

岩野氏を訪問した日、私は鞄の中にカメラを入れていて、この話に載せるための写真を何枚か取らせて頂く予定でした。でも、彼女がこうして働くのを脇で見つめながら、どうしてもそれを言い出す事ができなかったのです。何十年間とこの仕事を続けている間に、きっとたくさんの人たちがやってきた事でしょう。この仕事場にやってきて、彼女の作業を見ようと冷たい水の中をのぞきこんで、決まりきったように「大変ですねえ」と言う。それから写真を撮ると、日の当たる屋外へと去って行く。岩野氏の母は、一緒に外に出て行くことは無い。彼女は水槽の前に座って、一本一本の楮の繊維の束に目を凝らし、貼り付いた小さな小さな塵を見つけては取り除く。彼女の手は、束を手繰り寄せながら絶えまなく水中で作業を続ける。分を刻む時が時間となり、時間が日数となり、そしてやがて年月となりました。

もしもこのページに彼女の写真を載せたとしたら、これを読んでいる皆さんはきっと、ほんの一瞬だけ彼女の働く姿を見て、ページをめくってしまうでしょう。今まであの仕事場を訪れたほかの人たちと同じように。皆さんには、そうして欲しくないのです。どうか、この話をひとまず置き、私の版画を取り出してみてください。それから、一枚を机の上に置き、天井の明かりを消してみてください。紙の表面の柔らかくふわりとした感触がお分かりになりますか。なんとも美しい和紙。そうしたら、そっと目を閉じて、この婦人の事を思ってください。水槽の縁に座り、凍てつく水の中に手を浸す作業を70年。そのお陰で、今、皆さんの手にしている美しい和紙があるのです。私には、この話のために、働く姿を写真にして拝借するなんてことはできなかったし、またそんな必要もないのです。なぜなら、彼女は今、皆さんと一緒に、一枚一枚の紙の中にいるからです。

 

何年間かこのニュースレターを読んでこられてお分かりのように、それぞれの版画の背景には連綿と連なる人の輪があります。仕上がった版画にサインをして、収集家の方たちにお渡しする私自身は、その長い連鎖の最後の輪に過ぎないのです。他のどの輪も私と同じく大切です。よしんばその輪のたったひとつでも欠けたなら、全工程が崩れてしまうからです。

 今ここに彼女の写真をお見せすることはできません。私は、名前すら知らないのです。でもどうか、お手許にある美しい版画が出来上がるのに、生涯をかけて働いてこられたこの方への感謝の気持ちを、私と共に表して頂きたいのです。『岩野氏のお母様、私達一同、心から感謝して居ります。』

さて、百人一首シリーズの終わりまであと1ヶ月かそこらです。もちろん今は私にとって非常に忙しい時期です。最後の2枚の版画の仕上げに加えて、展示会の準備とその広報活動もしなくてはなりません。マスコミが注目してくれた例として、ここ2ヶ月程(そしてこの先、展示会が終わるまで)、取材班が私に密着して、私の仕事とこのシリーズについての50分のドキュメンタリー番組を制作しています。正確な放送日がいつになるかはまだお伝えすることができないのですが、1月か2月のテレビガイドで、テレビ東京「ドキュメンタリー人間劇場」の番組一覧を見ることができるはずです。その番組で私の事が、放映されることになっています...

そしてもちろん、私が忙しくしているもうひとつの理由があります−次の企画を練っているのです。私が何をするかに興味がおありでしょうか?ここの「ハリファックスから羽村へ」を読んでいれば、私がひとつの仕事をやめてまったく違ったことを始めるのはしょっちゅうだった、というのは御存知ですよね。確かに私は何度も何度もそうしてきました。でも今回はどうでしょうか?この長いシリーズが終わったら、私は版画の道具を片づけて引き出しにしまいこみ、心機一転、新しい仕事を始めるでしょうか、それとも私の版画の腕を磨き続けて、もっとたくさんの版画を創るべきでしょうか?

うーん...本当のところ、やってみたい他の活動がたくさんあるのです。それを挙げていくと、このページがうまってしまうでしょう...しかしその一方で、作ってみたい美しい版画もたくさんあるのです。これを挙げても何ページにもなってしまうでしょう...

どちらになるでしょう−版画?それとも...???