デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

楽器店の仕事でいろいろな人の相談に乗っていたので、この地域で私のことを知っている人は、私が単なるフルート奏者ではなく指揮者でもある、と知っていました。そしてある日私は、以前住んでいた小さな町の青少年楽団の保護者会から連絡をもらいました。実はこの楽団は、何年も前に私の父が始めたものでしたが、父が手をひいてからしばらくは若い指揮者が指導にあたっていました。しかし、彼は子供を教えた経験があまりなく、そのため、次第に楽団員の数も減ってきていました。そこで保護者会では新しい指揮者を探しており、新しい指導者が楽団を立て直してくれることを期待していました。

私はこの話に飛びついたわけではありません。父のしていた仕事を引き継ぐというのはどうも落着かない感じがしました。父は、子供達としっかりした信頼関係を築いていましたが、私の性格は彼とは違っていました。保護者会が、「馴染みの人」の若者版を期待して私を雇おうとしているのなら、それは失敗に終わるでしょう...しかし、父と同じようなやり方はできないけれど、私なりに良い仕事をすることはできる、と思ったので、私はその話を受け入れました。そしてある土曜の朝、私は、公民館のホールで、楽器を吹き鳴らす子供達の群れに囲まれることになったのです。

私はこの仕事から多くを学びました。というのは、これは、今までの経験とは非常に違ったものであったからです。客員指揮者として学校を訪問するのは、本当にただきっかけを与えるだけの仕事でしたが、同じ子供達に毎週毎週楽器の吹き方などの細かい点を指導しなければならないというのは、ずっと基本的で困難な仕事でした。楽団には3つのグループがありました。初心者、中級者、そして上級者です。それぞれのグループで私はまったく違った経験をしました。「小さい子供達」は何の問題もありませんでした。彼らは音を出して楽しくやっていられればそれでいいのでした。学ぶことが楽しいことである限り、彼らはちゃんとしていました。大きな子供達の場合はちょっと大変でした。ひとつには、彼らは父のことを覚えていたので、私は何かにつけ父と比較されました。そしてまた、私がまだ若かったので、私達の年齢差はあまりなく、彼らにとって私は、尊敬の対象と感じられるほどではなかったのです。

ですから、この仕事は半分はうまくいき、半分はうまくいきませんでした。土曜の朝、小さい子供達のグループが練習する時には大変楽しく、満足できるものでした。このグループはよく上達し、私達はあちこちで何度も小さなコンサートを開きました。ショッピングセンターや公民館のホールなどで。平日の夜、大きい子供達のグループの練習はもっとむずかしいものでした。このグループも何度かコンサートを開きましたが、あまり共に楽しめるものではありませんでした。

この指揮はもちろんパートタイムの仕事でした。部屋代を払うくらいにはなりましたが、それ以上の収入はなく、私は何か他の仕事を見つける必要がありました。ちょうどその頃、楽器の修理をやっていたふたりの友人が自分達で事業を始め、私は彼らの店を手伝うようになりました。私は、楽器の修理工達との仕事というのに非常に興味があり、彼らも、店に私が作業台を置く場所を与えてくれました。私は楽器の修理について学んだこともなく、技術も持っていませんでしたが、私にやれるような簡単な仕事もいくつかあって、彼らは、私の生活費の足しになる程度の仕事をやらせてくれました。

私はその仕事場の上にある小さなアパートに引っ越しました。くだんの友人が同じビルに住んでて、彼の奥さんが、「もっと栄養のあるものを食べなくちゃ」と、毎晩私に夕食をごちそうしてくれるようになったのです。彼女はベトナム人で、料理がとても上手でした。20年経った今でも、彼女の作るタレの味を思い出すことができるほどです!

こうして私の部屋代と食費は賄われるようになりました...もうお金の心配はいりません。そして、階下の騒々しく忙しい仕事場の一角で、私はおもしろいことを考える時間をたっぷりと持てたのです...

次回へ続く...

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