デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Summer : 1997

季節がめぐり...歳月がめぐり...私たちは今、「百人一首版画シリーズ」の9年めの真中にいます。  何年も前には、夏になると田舎へと脱け出すことができたのですが、この頃はもう、この東京で暑い数ヵ月を過ごさなくてはならないと覚悟を決めています。しかし、今年はそれを慰めてくれるものがあります。私のふたりの娘が7月に来て、ここで1ヵ月間過ごすのです。おわかりだと思いますが、彼女達にまた会えるのはとても楽しみです。もっとも、あの騒々しさに慣れるまでにはちょっとかかるでしょうけどね!

前号でお知らせしたように、私は彼女達に「百人一緒」に何か書いてくれるように頼みました。この号に載っています。お楽しみください。 (もし、次の秋号が少し遅れたとしたら、どうかご勘弁ください。私たち3人が、会えなかった時間の埋め合わせをするために、この夏いっぱい遊んだ、ということなのです!)

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

その夏私が行った音楽キャンプは、以前何度も参加したことのあるものでした。実際、私が学校のバンド以外で音楽の世界に身を置いたのは、そこが初めての場所でしたから、インストラクターとしてまたそこに行けることになってとても嬉しかったです。私の仕事はふたつありました。ひとつはもちろん、フルートを学んでいる若い学生の指導でしたが、もうひとつ、ある吹奏楽アンサンブルの指揮者という役割も与えられていました。

インストラクターの中では最年少だったので、私に割り当てられたのは、初心者アンサンブルでした。彼らの多くは、なんとか楽器の持ち方を習った、という段階でした。音楽の微妙なニュアンスを教えるなんて問題外です。子供達が問題を起こさないようにし、音楽へ関心を向けるようにするのが私の仕事でした。私はびしびしやりました--飛び回り、声をはりあげ、指揮棒をふりまわして...子供達もそれによく応えてくれて、私たちは楽しい時を過ごしました。リハーサルは大変騒々しく、そして、日に日に気持ちが高まっていきました。

最初のコンサートの日がやってきました。私たちのグループは、上級生の吹奏楽アンサンブルのすぐ後で演奏することになっていました。そこの指揮者は、ちょっと知られた人で、大変「真面目な」人でした。彼らは数曲を演奏しました。もちろん、とても良い出来でした。非常にきちんとしていて...でも、ちょっと退屈でした。次は私たちでした。最初の音が響いた瞬間から、観客は私たちの音の洪水に目を覚まされて居住まいを正しました。

私たちの音は、それはもうすごいものでした!私はマーラーの交響曲のある楽章を編曲したものを選んでおいたのですが、そのフィーナーレはかすかな囁きから力強い轟きへと展開していくものでした。観客席の天井をゆるがすほどだったかもしれません... 騒ぎがようやくおさまた時、私たちは大きな拍手をもらいました。音楽に対する取り組み方が普通とはかなり違ったので、「ひどいな」と思う人もあったでしょうが、この悪ガキ達と「野蛮人」の指揮者が本当に一所懸命に演奏したことをけなす人はいませんでした!

この夜のコンサートは、私の人生に次なる大きな変化をもたらすことになりました。 キャンプにいた何百という演奏家たちの中に、多くの若い女性がいたのですが、その中のひとりが私の目をとらえました...いや、もっと正確にいうと私が彼女の目にとまったのです... 彼女は、とても澄んだ、美しい声の持ち主で、オペラのソプラノ歌手を目指していました。あの夜のコンサートで私の指揮を見た彼女は、未来を思い描いたのではないかと思います。世界中のコンサートホール、そこのポスターには、有名なソプラノ歌手が、そのパートナーである有名な指揮者の率いるオーケストラとともにコンサートを開くことが記されていて...。彼女はとてもロマンチストでした...

21才だった私も、彼女と一緒にそんな夢を見たいな、と思うようになりました。キャンプが終わって町にもどったほんの数日後、私たちは古い家の最上階にある部屋を借りて、一緒に暮らし始めました。

私の両親も、彼女(私より少し年下でした)の母親も、このことをあまり快くは思っていませんでしたが、反対すれば事態をもっと悪くするだけだし、このままにしておけば、少なくとも私たちの居場所はわかるし、目を光らせておくこともできる、と考えていたようです。

これは素晴しい時期でした。彼女は、学校の勉強をしなければならない時以外は、日に何時間も延々と練習しました。本当に素晴しい声に恵まれていたので、いつかオペラ界の頂点に立つことになるだろう、というのは疑う余地がありませんでした。

私はといえば、状況はもう少し平凡でした。この時点では、私もまだフルート奏者及び指揮者となることを夢見ていましたが、行く手を阻む小さな問題がひとつありました--毎月払わなくてはならない家賃です!

私の父の親友が、学校に音楽の授業の教材を納入する新しい会社に関わるようになり、そこの社長に会いに行くよう、私に薦めてくれました。この、大変現実的で、大変率直で、大変多忙な人は、私にあまりいい印象はもたなかったようでした。彼は若い音楽家というのがどういうものかわかっていました。商売に興味はなく、ただチャンスが来るのを待っている間、ちょっとお金を稼ごうとしているのにすぎないやつだ、と。しかし、どういうわけか(おそらく私の父の友人が何か手をまわしたのでしょう)、私を使ってくれることになりました。私はすぐに仕事にとりかからなければなりませんでした。偉大なフルートの「巨匠」兼指揮者は、翌朝は横丁の倉庫に出勤することとなったのです...

次回へ続く...

関正信様

私の版画の収集家の中で、一番若い人は何歳位だと思いますか。4才位と言ったら、驚きますか。でも、ほんとうなんです。それも、一人じゃなくてたくさん。

ちょっと前のことになりますが、恒例の新宿での展示会をまだ始めたばかりの頃でした。コートを着てブリーフケースを持った、見るからに敏腕なビジネスマン風の紳士が展示会場にやって来て、作品を見渡した後、版画を注文したんです。申し込み用紙を見ると、送り先が幼稚園になっているではありませんか。そこで伺ったところ、福島市にある、大きくてけっこう昔からある「めばえ幼稚園」の所有者の関正信さんで、園長先生でもある、ということでした。正直言って、その時の私には、百人一首のような難しいものをそんな小さな子供達に見せるといった考えが分かりかねたのですが、関さんは揺るぎない自信をもっていました。

以来ずうっと、関さんは版画の収集を続けてくださっています。念願かなって、数ヵ月前にやっとこの幼稚園を訪ね、私の版画の様子を見ることができましたが、想像していたのとはまるで勝手が違っていました。

自分の娘達が小さかった頃、我家では幼稚園でなく、あえて保育園に通わせていました。というのは、双方の指導方針にはかなり違いがあるように思えたからなのです。日本の幼稚園では、子供達はみんな制服を着て小さな机に向かい、見るからに小学校に入る前の準備教育をしていました。それが保育園では、幾分かは監督されているものの、子供達は勝手放題に遊び廻っていたのです。これは大まかに見てのことであって、園によりけりということを知ってはいましたが、めばえ幼稚園に一歩足を踏み入れたとたん、それがはっきりしたんです。

小さな子供達がおりこうさんに整然と並んで座っている、という管理された幼稚園のイメージに反して、わいわいがやがやの真っただ中に飛び込むことになったのです。明るい色のスモックを着た子供達が、大きな声でおしゃべりをしながら動き廻っています。建物に沿って続く廊下からは教室の中が次々と見渡せて、どのクラスでも、子供達が興奮したように騒がしく、あっちこっち走り廻っていました。

これじゃあ関さんは、幼稚園じゃなくてまるで遊び場を経営しているんじゃないか、などと誤解されないうちに説明しておきますね。この日は何とも特別で、髭の生えた長身の外人がやって来て、大きくて面白そうな箱を開け、絵の具やら何やらを中から出し始めたのですから。

私は廊下の幅広になったところに仕事台をセットして、グループ毎に各教室から流れ出てくる子供達の洪水に囲まれて、午前中ずうっと木版画を作る過程を実演し続けました。こうして作業をしている私の後の壁、いえ、そこだけでなく建物のあちこちに私の版画が飾られていて、額の下には、子供達が読めるように、ひらがなで歌も書かれていました。活気に満ちた午前中の活動がやっと終わり、園長室で一息ついていると、関さんは私の版画を園内に飾っている訳を説明し始めたのです。

今の子供達は、あまりに現代の人気商品に囲まれて育つため、今まで日本人なら当然知っていた伝統文化に馴染む機会がなかなかないということ。もちろん、複雑な和歌を教えようなどというつもりはなく、何となくこういったものを身近に感じられるようにという配慮から置いてみているということ。丁度、今の大人達が子供のときに、家族とカルタや坊主めくりをしながら、自然と百人一首に馴染んで育ったように。

こういった説明を聞いて、この一見何気ないめばえ幼稚園の日常の中には、上手に教育方針が編みこまれているように思えました。子供達は御仕着せの型にはまったプログラムに管理されているのでなく、ここで過ごしながら掛け替えのない経験を身に付けて行くように、との深い配慮がなされているのです。私の仕事を、こんな広い視野のもとで活用してくださっているのを拝見し、とてもうれしく思いました。

カナダだより

(富実、12才、もうすぐ7年生)

カナダの学校は日本の学校とちがっています。朝9時に始まります。それまでは、クラスルームに入ることはできませんが、図書室へは行くことができます。図書室にはたくさんのコンピューター、たくさんの本、フランス語の本そして少しばかり日本語と中国語の本があります。ベルが鳴るとクラスルームに入り勉強が始まりますが、お天気がいいと学校のまわりを散歩します。

休み時間は、お天気がいいと外に出なければいけませんが、校庭が広いのでなんでも好きなことができます。でも雪合戦は禁止です。授業中以外なら、いつでもスナックを食べることができます。昼食の時間は1時間あります。昼食には家へ帰って食べてもいいし、店へ行ってランチを買ってきてもいいし、もってきたランチを学校で食べてもいいです。学校給食はありませんが、時々ホットドッグデーがあります。この日は学校が外注したホットドッグ、ピザ、ドーナッツ、ポテトチップ、を食べたり、ココアを飲むことができます。昼食が終わるとベルがなるまで遊びます。学校はいつも3時に終わります。土曜と日曜は学校がありません。

学校ではたくさんのイベントがあります。一つが終わると次のを楽しみに待ちます。まず最初にハロウイーンについて話してみたいと思います。ハロウイーンって聞いたことがありますか?ハロウイーンは10月31日です。この日は学校へコスチュームを着ていかなければいけません。みんなおかしなかっこうをしていました。きみのわるい魔女やモンスターのコスチュームの人、きれいな王女様やネコになった人もいました。その他にもおもしろいコスチュームを着ていました。この日はどのクラスでもゲームをしたり、おかしを食べたりしてとても楽しく遊びます。先生達もみんなコスチュームを着ます。ハロウイーンは学校でだけではありません。夜はコスチュームを着てトリック・オワ・トリートと呼んでよその家々を回り、お菓子をもらいます。私は魔女になりました。家から家へと3ブロックも回って大きな袋いっぱいになるほどチョコレートやキャンデーをもらいました。家に帰ってくると隣の人が花火を始めました。ほとんどの家で、パンプキンの中をくりぬき、顔を彫り、中にローソクを立てたものを家の外にかざります。私と姉でパンプキンに顔を彫りました。むずかしくてたいへんでしたが、かなりうまくできました。来年はもっといいものができるでしょう。  おもしろいのはハロウイーンだけではなくて12月5日はパジャマデーです。この日は全員パジャマを着て、ぬいぐるみの動物をかかえています。先生達もパジャマを着たい人は着ます。みんなパジャマを着ているのでベッドからぬけだしたばかりという感じです。

又ひげの日もあります。この日は全員、先生もひげをつけます。校長先生は各クラスを回り写真をとります。学校へひげを持っていかなかったら、学校で作ることができます。校長先生はひげが生えているので、彼は大きな作りもののひげをつけます。

それからクリスマスコンサートがあります。これは大きなイベントで、各クラスが歌か又は寸劇をします。私のクラスでは歌を二つ歌いました。一つは覚えるのがむずかしかったけど、一ヵ月も練習して、覚えることが出来ました。私達の歌がいいと思ったけど、他のクラスとくらべると少々たいくつなものでした。先生達も寸劇をして、校長先生も歌ったりおどったりしました。とってもおかしかったです。クリスマスコンサートは12月18日でした。この日は親も見にきて、チケットを買ってすわります。私はおそく買いに行ったのでチケットを買うことができませんでしたが、親の席にすわることができました。バレンタインデーがもうすぐやってきます。特別のイベントを楽しみにしています。

カナダにはリス、スカンク、がちょう、あらいぐまがいます。いつでもスタンレー公園にいって食べ物をあげられます。スカンクの一家が玄関の前の階段の下に住んでいます。時々とてもくさいです。あらいぐまは私の家の近くの森に住んでいます。リスはどこにでもいます。家の中に 入って来たリスに食物をあげます。私のネコがリスをからかっておいかけますが、リスが止まるとネコも止ります。日本で育ったからリスをどうしたらいいかわからないようです。

カナダはとっても楽しい所です!


(日実、14才、もうすぐ9年生)

カナダは、いろんな面で日本とちがっています。4月2日の私の誕生日にカナダに着きました。1年に2回誕生日というのもいいです。(時差の為)。13才になりました。普通、13才になるとセカンダリースクール(ハイスクール)に行くので、私はロード・ビング・ハイスクールに行っています。13才なのにハイスクールに行くのかしらと、疑問に思われる方もいらっしゃると思います。というのはBC州の小学校は1年生から7年生、ハイスクールは8年生から12年生までです。

前にも書いたようにロード・ビング・ハイスクールに行っています。この学校は他の普通のハイスクールとちがって特別のプログラムがあります。それはESL(English as a Second Language)プログラムです。これは私にはとても重要で、英語が第2の言語である生徒の為のプログラムです。ESLは私にはおもしろくないクラスです。というのはほとんどの生徒が中国人で、英語で話さないからです。私はESLクラスを5つと普通のクラス3つとっています。普通のは、体育、数学そしてアプライドスキル(コンピュター、料理、音楽、木工、等々)です。アプライドスキルは8年生だけがとります。後で選択課目として取れる教科を数週間ずつアプライドスキルでおそわり、9年生以降何を選択するかの参考にするわけです。書く必要のあるクラスは全部ESLで、英語、作文、コミュニケーション、社会、及び科学です。9月にはESLからぬけだせるでしょう。英語で話すのにはずいぶんなれましたが書くのと、読むのがまだそんなによくありません。

私の学校の時間割は日本の学校とちがっています。8教科を2日に分けて学習します。1日目は、Aブロック、休み、Bブロック、お昼、Cブロック、休み、Dブロックで、2日目は、Eブロック、休み、Fブロック、お昼、Gブロック、休み、Hブロックです。そして、このくりかえしです。学校は8時40分に始まり3時10分に終ります。日本では8時に始まって、5時に終ったからここの方がずっと楽です。私の学校の時間割がとても気に入っています。

私の学校では年に4回スクールダンスがあります。それらはハロウイン、ウインター、バレンタイン、そしてスプリングダンスです。学校の体育館を使って10、11、12年生が音楽を選び、デコレーションや食べ物を準備します。ハロウインダンスではそれぞれコスチュームを着ます。とてもおもしろいです。他のダンスでは特別のコスチュームを着ることはありません。ウインターダンスはビデオダンスで、ビデオを見ながらダンスをしました。時には、12年生がダンスをみせたりします。ダンスは午後7時から10時までです。バレンタインダンスに出るには相手がいります。ドライアイスのけむりや色とりどりの照明が使われます。音楽はロックンロールです。日本の学校でもダンスをすべきだと思います。

日本で、私はファショナブルだったけど、カナダでの学校第一日目に私はそうでないということがわかりました。カナダのファッションのことは知らなかったし、日本と同じだと思っていたのでとてもはずかしい思いをしました。残念なことにファッショナブルな服を買うお金がなかったので、日本ではファッショナブルだけれどカナダではそうでない服を着なければなりませんでした。今はお金が入ってきます。週4ドルのおこずかいと、友達にピアノを教えて、月20ドルの収入があります。耳にはピアスをしました。ほとんどの女の子と男の子も何百人かはピアスしています。その他に13才、14才の女の子はメーキャップをしています。始めはメーキャップするのは好きではありませんでしたが、メーキャップしてる女の子にはボーイフレンドがいるから私もメーキャップすべきだなと思っていますが、どうやってやったらいいかまだよくわかりません。

学校の他にもいろいろおもしろいことをやります。夏にブラックベリーやストロベリーを摘みにいきます。ブラックベリーはどこででも摘めます。というのはブラックベリーのしげみはどこにでもあるからです。このベリーは熟すと黒くなります。実はとても甘いですがつるには鋭いとげがたくさんついています。ストロベリーは摘みたければ畑にいかなければなりません。

もしそうしたければ、コミュニテーセンターの夏のデイキャンプに出かけることができます。デイキャンプはキャンプですがテントやスリーピングバックが必要というわけではありません。グループで集って一緒に遊んだり、特別の場所へ行ったりします。お金を払わなければなりませんがとても安くて楽しいです。私は一度デイキャンプに行きました。プールデイキャンプでいろんな水遊びでした。普通は公園とかに行くのですけれど私達はウオーターパークへ行きました。

私はアイススケート、ピアノ、水泳のレッスンを受けています。フィギュアスケートのレッスンは大好きです。コミュニテイセンターのリンクでやります。ジャンプやスピンをたくさん習います。レッスンは45分で週2回あります。レッスンでのわからなかった事はパブリックスケートの時に係の人に教えてもらいます。スケートにはほとんど毎日行っています。というのは大好きだからです。本当におもしろいです。時には人がいっぱいで、ジャンプやスピンはできませんが基本的な技術を練習します。スケートには学ばなければならないことが限りなくあります。大人になったらスケートの先生になりたいなと思います。

ピアノのレッスンはいいけどちょっとたいくつです。先生はとてもきびしいけどやさしいです。それにとても美人です。こちらでピアノを始めた時、日本の時よりもずっとたくさん宿題を出されました。前よりもむずかしい曲をたくさんやっています。毎日練習していますが、時には、ある特定の曲にあきてしまい、練習をやめてしまいます。そうするとその曲を1〜2か月ひくことになります。そうするとうんざりしてくるので練習してその曲をやっつけてしまいます。しかし少しずつ、少しずつ上達しています。

スイミングレッスンは大嫌いですが、母がやらせています。彼女は私が脊椎歪曲症になるのをおそれていて、水泳によってそれが防げると考えています。それから、スケートでジャンプの時に背骨に負担がかかるので、体をきたえ、とくに足を強くする必要があります。同じレッスンをくりかえし2回とっています。

前にも言ったけど私はカナダでとても楽しくやっています。学校はおもしろいし、私の英語もかなり上達しています。いつかカナダでお目にかかれるといいですね。

http:// www. ... これが何を意味するかおわかりでしょうか。私の版画を集めてくださっている方々の多くにとって、これはちんぷんかんぷんのものではないかと思うのですが、これを見てすぐ「インターネットのアドレス」だとわかった方もおられるでしょう。ここ数年の間、この世界規模のコンピューターネットワークがめざましい発展をとげてきているのを、私は大変関心をもって見てきました。でも、それをやってみることはためらっていました。それほどやる価値のあることだとは思えなかったからです。私の作る「古いもの」に興味を持ってくださっている方々はおそらく、コンピューターを駆使する、というタイプではないでしょう。しかし、私の「収集家の紹介」を読んでくださっている方々はおわかりでしょうが、「私の収集家の方々はこういうタイプだ」なんて、型にはめることはできないのですよね。私の計画に興味を持ってくださるのは、実にいろいろな人なのです。

2年ほど前にマッキントッシュのコンピューターを買って、帳簿をつけたりニュースレターのレイアウトをするのに使うことで、私は現代の科学技術と多少なりともつきあってきたわけですが、そのうちだんだん、インターネット上の他の様々なおもしろいものとともに、私の計画や仕事が公開されるのもいいな、と思うようになりました。数ヵ月前に、私は思いきってこれを実行に移すことを決め、それ以来、コンピュータを使って私の二ヵ国語のホームページを作っています。

まだ準備中なのですが、このニュースレターの次の号ができる頃には、みなさんはそれをふたつの方法で読むことができるようになるでしょう...私が直接お送りしているこの紙のニュースレターと、コンピュータースクリーン上とで。

こんなことにまったく興味がない方、どうかご心配なく。私はこの新しい電子の世界のために200年の伝統をもつ仕事のやり方を捨てるつもりはありません。ただ、海外の人達にも私の仕事に興味を持ってもらえるかもしれない、と思っただけなのです。 そしてインターネットは、それを紹介するにはとてもいい場所なのです。私はこれからも、当分このニュースレターを送り続けますし、そしてもちろん、私の時間の大部分を彫り台に向かうことに費やすでしょう。ゆっくりゆっくり着物の模様を彫りながら、「コンピューターやインターネットなんて、200年先の話だね。」というような顔をして。