デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

その夏私が行った音楽キャンプは、以前何度も参加したことのあるものでした。実際、私が学校のバンド以外で音楽の世界に身を置いたのは、そこが初めての場所でしたから、インストラクターとしてまたそこに行けることになってとても嬉しかったです。私の仕事はふたつありました。ひとつはもちろん、フルートを学んでいる若い学生の指導でしたが、もうひとつ、ある吹奏楽アンサンブルの指揮者という役割も与えられていました。

インストラクターの中では最年少だったので、私に割り当てられたのは、初心者アンサンブルでした。彼らの多くは、なんとか楽器の持ち方を習った、という段階でした。音楽の微妙なニュアンスを教えるなんて問題外です。子供達が問題を起こさないようにし、音楽へ関心を向けるようにするのが私の仕事でした。私はびしびしやりました--飛び回り、声をはりあげ、指揮棒をふりまわして...子供達もそれによく応えてくれて、私たちは楽しい時を過ごしました。リハーサルは大変騒々しく、そして、日に日に気持ちが高まっていきました。

最初のコンサートの日がやってきました。私たちのグループは、上級生の吹奏楽アンサンブルのすぐ後で演奏することになっていました。そこの指揮者は、ちょっと知られた人で、大変「真面目な」人でした。彼らは数曲を演奏しました。もちろん、とても良い出来でした。非常にきちんとしていて...でも、ちょっと退屈でした。次は私たちでした。最初の音が響いた瞬間から、観客は私たちの音の洪水に目を覚まされて居住まいを正しました。

私たちの音は、それはもうすごいものでした!私はマーラーの交響曲のある楽章を編曲したものを選んでおいたのですが、そのフィーナーレはかすかな囁きから力強い轟きへと展開していくものでした。観客席の天井をゆるがすほどだったかもしれません... 騒ぎがようやくおさまた時、私たちは大きな拍手をもらいました。音楽に対する取り組み方が普通とはかなり違ったので、「ひどいな」と思う人もあったでしょうが、この悪ガキ達と「野蛮人」の指揮者が本当に一所懸命に演奏したことをけなす人はいませんでした!

この夜のコンサートは、私の人生に次なる大きな変化をもたらすことになりました。 キャンプにいた何百という演奏家たちの中に、多くの若い女性がいたのですが、その中のひとりが私の目をとらえました...いや、もっと正確にいうと私が彼女の目にとまったのです... 彼女は、とても澄んだ、美しい声の持ち主で、オペラのソプラノ歌手を目指していました。あの夜のコンサートで私の指揮を見た彼女は、未来を思い描いたのではないかと思います。世界中のコンサートホール、そこのポスターには、有名なソプラノ歌手が、そのパートナーである有名な指揮者の率いるオーケストラとともにコンサートを開くことが記されていて...。彼女はとてもロマンチストでした...

21才だった私も、彼女と一緒にそんな夢を見たいな、と思うようになりました。キャンプが終わって町にもどったほんの数日後、私たちは古い家の最上階にある部屋を借りて、一緒に暮らし始めました。

私の両親も、彼女(私より少し年下でした)の母親も、このことをあまり快くは思っていませんでしたが、反対すれば事態をもっと悪くするだけだし、このままにしておけば、少なくとも私たちの居場所はわかるし、目を光らせておくこともできる、と考えていたようです。

これは素晴しい時期でした。彼女は、学校の勉強をしなければならない時以外は、日に何時間も延々と練習しました。本当に素晴しい声に恵まれていたので、いつかオペラ界の頂点に立つことになるだろう、というのは疑う余地がありませんでした。

私はといえば、状況はもう少し平凡でした。この時点では、私もまだフルート奏者及び指揮者となることを夢見ていましたが、行く手を阻む小さな問題がひとつありました--毎月払わなくてはならない家賃です!

私の父の親友が、学校に音楽の授業の教材を納入する新しい会社に関わるようになり、そこの社長に会いに行くよう、私に薦めてくれました。この、大変現実的で、大変率直で、大変多忙な人は、私にあまりいい印象はもたなかったようでした。彼は若い音楽家というのがどういうものかわかっていました。商売に興味はなく、ただチャンスが来るのを待っている間、ちょっとお金を稼ごうとしているのにすぎないやつだ、と。しかし、どういうわけか(おそらく私の父の友人が何か手をまわしたのでしょう)、私を使ってくれることになりました。私はすぐに仕事にとりかからなければなりませんでした。偉大なフルートの「巨匠」兼指揮者は、翌朝は横丁の倉庫に出勤することとなったのです...

次回へ続く...

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