デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1996

前号の「百人一緒」を発行してからまた新たな「一里塚」を通過しました。すでに私は全行程の4分の3を終えたことになります! まだ「最終段階」にさしかかったとは思いませんが、ここまで到達したことにとても満足しています。ここまで来たことで気がついたことがひとつあります。最近は仕事のことを誰かと話していると、必ず同じことを聞かれます。「次のご予定は?」 この質問については複雑な気持ちになります。ほかの人々の仕事と違い、この仕事には、はっきりした完了日がありますから、次がどうなるかを考えるのは自然なことです。しかし一方では、自分のこれまでを振り返ると、今までに何度、それまでに続けていたことを辞めたことでしょうか。どんなにうまくいっていることでも、別のことを始めるために。ですから次は何をするのか考えると少々緊張します。まだ他のことに興味を持ちたくはないのです! できる限り版画の製作に集中したいと思います。仕事台に向かうかわりに将来のことを考えていたら、仕事に支障がでます。

最初から版画を集めていらっしゃる方ならおわかりでしょうが、この8年間で版画は格段に進歩しました。ですからあと2年、この調子で続けたいのです。次の私の仕事についてアドバイスをいただけるのでしたら、もう少し待っていてください。最後の年になったらもちろん私も考えなければなりませんし、積極的にご意見を伺いたいと思うはずです。でもしばらくは、可能な限り今の仕事に集中させてください。まだ私の...いいえ、私たちの道程は長いのです。

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

こうしてギターに関わっている間にも、私はフルートを演奏することを忘れてはいませんでした。私は、青少年交響楽団の仲間たちと木管楽器五重奏団を作り、それの練習やコンサートなどでいつもフルートを吹いていました。この五重奏団は、私がフルート演奏の腕を鈍らせないための場所となってくれただけでなく、作曲や編曲の練習をする機会も与えてくれました。この五重奏団のために書いた曲が市の音楽祭で賞をとり、それで私は、地方のテレビ局から、ある番組のテーマ曲を作ってくれと頼まれました。私は曲を書き、五重奏団がその局のスタジオでレコーデングをし、その後そのチャンネルで毎週放送されました。(25年前のことです...あの番組はまだやっているかなあ...まさかね!)

これに引き続いて私は、アマチュア劇団がするミュージカルの背景音楽の編曲と指揮を頼まれました。これはすごいことに思えるかもしれませんが、私が指揮したのは4,5人の演奏家とピアニストから成るアンサンブルだったので、フルオーケストラに比べればたいしたことではありません。そうは言っても、大変な仕事でした。熱意はあるけど才能のないアマチュアが作ったひどい歌を、聴くに耐える音楽に作り上げるのですから。パフォーマンスもおもしろかったです。あかりの消えた観客席。その中をスポットライトを浴びて指揮台まで大股に歩いていき、ステージの動きにあわせて「オーケストラ」を指揮するのです。素晴しい経験でした。

私のフルート奏者への道は方向を見失ってしまっていましたが、それでもまだ少しずつ進歩していました。当時バンクーバーのプロフェッショナル交響楽団は毎年学校の子供達を対象にしたコンサートを何回か開いていて、私は、モーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲」の独奏者として9回、そこで演奏しました。フルートを吹いてお金をもらったのは、これが初めてでした。2,000人が入るコンサートホールで、フルオーケストラをバックにして、というデビューでした。私はちょっと目を閉じてみなくてはなりませんでした。そうすれば、退屈してもそもそしている子供達は、たちまち、うっとりと演奏に聞き入っているカーネギーホールの聴衆に代わるのです! それともうひとつ大きな楽しみがありました。毎回、協奏曲が終わった後、舞台の袖に立って、「私の」オーケストラが、すぐ近くで、ストラビンスキーの組曲「火の鳥」を演奏するのを聴くことです。これは壮大な音楽で、華々しい音が私のそばを流れていく時、私はどんなにあそこで演奏したいと思ったことでしょう! 私はここにいて、オーケストラはほんの数メートル先にいる。こんなに近くに...

今44才のデービッドはこう書いてきて、20才の頃を振り返りながら、時々悲しそうに首を振ります。あの少年は、オーケストラのフルート奏者になりたかったんだよね? 本当にそう思っていたのなら、どうしてあんなに簡単に脇道へそれてしまったのだろう... 作曲、ギター演奏、ギター製作、家具の製作...

家具の製作? ええ、どういうわけか、私はそんなことまでやっていたのです。何がきっかけだったのかは覚えていませんが、最初に作ったのは、両親の寝室の姿見だったと思います... 父の楽器店の隣のビルに家具店があり、その店が、私がその次に作った物のいくつかを買ってくれたのです。ある日、彼らは私におもしろい提案をしてきました。その店は、近くに建てられる新しいホテルの家具を納品する、という契約を結んだのですが、そのうちのいくつかを私に作ってほしい、というのです。これは、こうした注文を受けて大量生産するための工房を構えて、家具職人として仕事を始めるよい機会でした。でも、そうはなりませんでした。この申し出より少し前に、私には既に別の計画があったのです。私のポケットには、イギリスのロンドン行きの航空券が入っていました...それも片道の。大学を中退して2年が経ち、大きくなった子供が定職もなく家にいることに対する両親の我慢はもう限界にきていました。ロンドン行きは両親の提案でした。ロンドンは、世界でクラシック音楽の中心となっている所のひとつです。「おまえは本当にフルート奏者になりたいのかい? だったら行きなさい!」

次回へ続く...

杉森亮先生ご夫妻

日本の地図上で、私の版画を集めてくださっている方々が住んでおられる所に、ピンを刺してみたなら、それは全国均一に広がっている、ということにはならないでしょう。数か所にまばらにちらばっている、という感じになるでしょう。札幌、岡山、大阪、長野、新潟など。そして、断然多いのが、2か所にかたまることになります。ひとつは私の住んでいる多摩地域、もうひとつは新宿(私が毎年展示会を開いている所です)につながるいくつかの電車の沿線地域です。今回私たちが訪れる収集家の方は、かろうじて、この後者のグループに入ります。数週間前、私は新宿から小田急線に乗って、神奈川県西部にお住まいの杉森亮先生と奥様の富美子さんを訪ねました。初めて先生御夫妻にお会いしたのは、お二人が数年前、私の展示会に来てくださった時ですから、今度は私がお訪ねする番です。

訪問には午後がいい、とおっしゃっていたのですが、行ってみてその理由がわかりました。杉森先生は毎日、午前中は、自宅の隣にある病院で診察をしておられるのです。先生は町のお医者さんで、一般の定年退職年齢をとうに過ぎておられるにもかかわらず、まだまだ多くの患者さんを診ておられます。それにしても、病院とお住まいの規模の違いには、ちょっとびっくりしました。病院の方はとても大きいのですが、先生の御自宅は部屋数も少なく、こぢんまりしていて、私の小さなアパートとかわらないほどなのです。これは、私が日本のお医者さんに対して持っていたイメージとはかなり違うものでした。でも、お話しているうちに、御夫妻のエネルギーの大部分が、自分達の懐を肥やすためではなく、地域の人達に奉仕するために使われていて、小さくてつつましやかな家が御夫妻にはぴったりなのだ、とわかってきました。

私が通された部屋の壁には、市民団体や政府から贈られた賞状や勲章などがたくさん掛けてあり、先生が地域の様々な活動に関わっておられて、自分の住む社会のことをとても気にかけておられる、ということがよくわかります。私が部屋に入ってから数分もたたないうちに、私たちは現代日本の問題についてつっこんだ話し合いを始めていた、ということからも、このことがはっきりします。話し合いをしている間、私は、「年上の人の言うことに強く反論するものではない」という日本の教えを忘れていたかもしれませんが、先生は気にされていないようでした。そして、気がついた時には4時間も楽しい時を過ごしていたのです。

カナダに住んでいた頃、こんなふうに討論することは私の日常生活の一部でした。しかし、ここ日本では、これほど率直にはっきりと意見を交換する機会はほとんどありません。私が話している人達は、いったい自分自身の意見をもっているのかな、と思うこともあるほどです。でも、杉森先生は経験も豊富で、しっかり自分の意見をもっておられます。先生と私が育ってきた背景はずいぶん違いますし、先生が81年の人生のなかで出会われた困難や悲劇は、私には想像することもできません。でも、これは、自分の意見をはっきり言うだけでなく、相手の意見を注意深く聞こうとしているふたりの人間がコミュニケーションするのに、何の妨げにもなりはしません...

でも、議論を戦わしてばかりいた訳ではありません。日が暮れないうちにと、先生はお庭を案内してくださいました。庭に出てすぐに、私は家の中に座ってばかりいてもったいなかったな、と思ったのです。先生は盆栽に凝っておられて、広々とした庭の半分は、様々な素晴しい盆栽で埋められていました。とても小さな刈り込んだばかりのものから、十分に成長して整枝されたものまで、何百という盆栽が腰くらいの高さの棚に幾列にも並べられていました。ぶらぶらと庭を歩きながら、先生は特に興味深いいくつかのものを教えてくださいました。その間にも、先生の手は常に休みなく動いていて、つぼみを摘みとったり、枯れた葉を引き抜いたり、枝に巻いた針金を動かしてみたりしておられました。先生を拝見していると、なんだか、午前中は山北町の「人間」の世話をなさり、午後は別の「住民」のめんどうを見て過ごされているかのように思えました...

しかし、私にとってもっと強烈な印象があったのは、庭のもう半分のほうでした。というのは、ここは、40年以上前にはただのだだっ広い土地にすぎなかったのですが、杉森先生と奥様はここに自分達の森を作られたのです。かしこまった庭ではなくて、自然のままの姿を残した林です。深々とした緑があって静かです。私たちは、何十という種類の木々や何百という種類の植物の間を曲がりくねっている小道を歩きまわりました。途中には石燈篭の置かれている小さな川があったり... 外の世界のことはすっかり忘れてしまいます。フェンスの内側に、こんな隠れた緑の世界を作り出すには、ものすごい手間がかかったにちがいありません。何年も何年も、木を植えたり、せんていしたり、水をやったり。でも、その成果のすばらしさといったら!

先生はここでも、やはり手を休ませません。一緒に歩きながらも、この緑の世界にいろいろな手入れをしておられました。この庭のあらゆるものが、こうして、いつも手厚い世話を受けているのです。古い盆栽も、若い苗木も、森の頑丈な木々も、すべてのものが常に成長し、常に変化しています。誕生から死まで... 絶えず流れ、留まる事がないのです。そして、すべてがこのおふたりの優しい導きと世話のもとにあります。

歩きながら、私は頭の中でちょっと計算してみました。...私は今44才...この森を作るのに約40年...そう、私にもまだこういうようなことをする時間はある...今すぐとりかかりさえすれば! まず、良い土地を見つけなくては。それからたくさんアドバイスをもらわなくては。だって私は庭仕事の経験はあまり豊富ではありませんから。先生はどう思われますか? 何かおすすめがありますか?

ちがう? おなじ、おなじ。

以前カナダに住んでいて、上の娘の誕生を待っている頃のことです。私達夫婦は、どんな子供が生まれてくるのか、かなり落ち着かない気持ちでした。親になる双方共に、取り立てて顔立ちの整った方ではないので、ぞっとするような状況を想像したのです。例えばです、日本人の母親のかなり偏平な顔の真ん中から、強烈な印象を与える私のイギリス人風の鼻がにょきっと突き出ているというように。ですから、『人並み』の顔立ちをした子供が生まれてきたときには、本当にほっとしました。

私からみると、この生まれたての赤ん坊はほぼ完璧に日本人の顔立をしていたので、ごきげんでした。ところが母親の方は、まるで西洋人に見えたのでうれしかったのです。同じ赤ん坊を見ていたかですって! もちろんです。違っていたのは、私たちの『目』の方だったのです。時が経つにつれ、こんな違った見方をしていたのは私たちだけでないことに気付くようになりました。娘を見たカナダ人たちは彼女の日本人的なところを指摘しましたし、日本に来てからは、だれもが即座に彼女を外国人だと思ったのです。

この一見矛盾する反応は、実際のところ単純な理由によるものなのですが、様々なことに影響してしています。一般に私たちは、何か新しい物を目にするとき、違いにばかり目が行き、共通している部分には無頓着なものです。ですから、日本人の母親からすれば、娘の日本人的な鼻と顔の形など眼中になく、西洋人風の眼ばかりが目についたのです。そして、私の方は逆に、とりわけ日本人的な所にばかり目が行ったのでした。

こういった受け止め方は、ほかにも色々なところでみられます。例えば、初めて外国に行った旅行者は、驚きの眼差しで辺りを見回すでしょう。建物、人、服、食べ物、と自分の国と違う物ばかりが目に付くのです。そして、『この国の人は、なんて違うんだろう』と思います。日本に帰ってくると、新しく見てきた事についての話で一杯です。ですから、それを聞いた友達は、心に描くその国が『自分たちと違っている』というイメージを一層強めるのです。

こういった、旅行者の『特殊な状況での物の見方』というものは、飛行機など一般的でなく、テレビで外国を見るなどということがまだない頃ならば理解できます。外国を『不思議な人達が住んでいて妙な所なのだ』と思わせたことでしょう。でも、通信や交通機関の進歩したこの現代になっても、何ら変わっていないように思えるのはどうしてでしょう。

私自身の経験からも、また身近なケースからも言えることですが、西洋人の目から見る日本、そしてその逆の場合において、こういった見方の違いはあるのです。私が、まだ日本をじかに知ることのなかったころ、この国に関する知識はほとんど本からのものでした。そのほかに、メデアや日本に行ったことのある人、そして稀に実際の日本人からも聞くことはありましたが。そして、『違いにばかり目が行く』という現象は重複して起きたのです。まず、自分が読んだ本の作者はほとんどが西洋人でしたから、もちろんのこととして彼らは相違点を強調して書いていました。くわえて私自身も、共通部分はざっと読み飛ばして、相違点にばかり興味を動かしたのです。何年ものこういった事前調査の後、この国にやっとたどり着いた時には、もう確信がありました。『僕は全く違う新しい世界にやって来た。』『ここには見慣れたものなんかなく、習慣だってまるで違うんだ。』 どうやって生きて行くつもりだったんでしょう。

もちろん、ちゃんと暮らして来ました。今から思えば何年も前のことで、当時心配したり不安になったりしたことがおかしいくらいです。なぜなら、ここでの生活になじみ、地域社会の一員としてやって行くのに、何の問題もなかったのですから。こんな思い違いをしたのは、私の読んだ本が基本的事実を正しく伝えはしていたものの 〜 違いこそありましたが 〜 そのほかの99%をないがしろにしていたからです。本質的なところでは、日本人も私とまったく同じでした。朝起きて、トイレに行き、朝食をとり... そして一日が過ぎるんです。同じような欲望や要求があり、似たような問題を抱えていました。同じような感情があり、周りの人たちとの繋がりを持っていました。99%という数は、ちょっと強調し過ぎたかも知れません。よく考えれば、もっと大きい数値なんですから!

何年も日本人の間で暮らしてみれば、『大きな違い』なんて実際のところ存在しないのです。靴を脱ぐか脱がないか、道具は引いて使うか押して使うか、米を食べるかジャガ芋を食べるか、そして本音と建前にこだわるか率直にいくか。そんな違いは事実を見れば、ないに等しいんです。二人の人を並べれば、生物学的にはかなり同じです。双方、共に『人間』なんです。

友達の笑子さんが、去年エジプトに行きました。ツアーでなく、フリーの旅行者として。彼女が出掛ける前、その国について本を読んだりして調べたか聞いてみると、予備知識なしに行ってみたいということで、答えは 'No' でした。二週間程して、彼女が『エキゾチック』な国への旅行から戻ってきたときは、話を聞くのを楽しみにしていたのですが...期待外れでした。話すことなんかほとんどないというのです。彼女を迎え入れたのは、父親が学校の先生で娘が大学生、といった全く普通の家庭でした。なんだか自分の家を訪ねたみたいな気がしたそうです。もちろん、名所を見たり珍しいものを食べたりはしましたが、彼女が日本に持ち帰った一番興味深いことは、エジプトのように、宗教や食べ物や気候からして違う、エキゾチックな国でさえも、そこに住んでいるのは同じ人間だということでした。笑子さんは、私が気づくまで何年もかかったこと、それも多くの人が気付かないままでいることを、ほんの二週間で学んでしまいました。エジプト人も私やあなたと同じなんです。

生まれながらに備わっている性質というのは変わらないもので、私たちはどうしてもよその国を偏って見がちですす。人間とはそういうものなのです。でも、違った文化をこんなふうに見られたらいいと思うのです。つまり、もっと自分たちと似ているもので、それほど奇妙でもなく警戒するものでもないというふうにです。私は、いつの日か、天文学者が宇宙のどこかに文明らしきものを持った集団を発見するのを待ち望んでいます。そうしたら恐らく、私たちは、自分たち人間がどんなに似通っているかということにやっと気付き始めるからです。そしてその時、まるで違う宇宙の誰か(何かかな?)と自分たちを比べるでしょう。

ですけど、そうなってもきっと、私は同じ落し穴に引っ掛かってしまうんですよ。宇宙人だって自分たちと同じじゃないかなんてね。父親が学校の先生で、娘が大学生で...天ノ川に居るお隣さんじゃない...なんてね。

この「百人一緒」に書いている話しについて、読者の方からの反応はあまりありません。だからといって私が悩むことはありません。楽しんでもらっていることを知っていますし、ともかく自分のしていることに満足しているからです。でも、前号のあるストーリーについては、いつもより多くの反応がありました。どれについてだかは見当がつくと思います。娘たちのことを私は書きました...

これを書いている現在、娘たちが去ってから半年が過ぎており、私の人生は新しいパターンにすっかりなじんでいます。読者や収集家の方々の励ましが大きな支えになっています。私は一人でいることに耐えられないタイプではありませんし、世間の大勢の人...最初の家族のもとを離れるときは結婚生活に入り、したがって一人暮らしの経験がない...と違い、以前は長い間一人で生活していました。当初は、適応するのが困難ですが、いったん慣れてしまえば日常生活は快適です。でももちろん私は仙人ではありません。人々とふれあい、支えられることはどうしても必要ですし、困難な数ヵ月の間、お会いしていただいた方々にはとても感謝しています。

この夏の間に短期間、カナダ旅行したことをお知らせしなければなりません。子供たちに会い、二人が新しい家庭と学校にすっかりとけ込んでいることがわかりました。二人ともとても楽しく暮らしています。

ですから、ここしばらくのデービッドの生活は暗く憂鬱だ、というイメージを払拭してください。彼は、きちんと食べ、しばしばデートを楽しみ、いい版画を作り、キャンプに行き、エッセイをたくさん書き、音楽を聴き、新しい快適な椅子にずっと座って、長いこと「読まれることを待っていた」本の山から選んだ本を読んでいます。

あの有名な本の出だしは何でしたっけ? 「汽車は長いトンネルを抜けて...」