デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ちがう? おなじ、おなじ。

以前カナダに住んでいて、上の娘の誕生を待っている頃のことです。私達夫婦は、どんな子供が生まれてくるのか、かなり落ち着かない気持ちでした。親になる双方共に、取り立てて顔立ちの整った方ではないので、ぞっとするような状況を想像したのです。例えばです、日本人の母親のかなり偏平な顔の真ん中から、強烈な印象を与える私のイギリス人風の鼻がにょきっと突き出ているというように。ですから、『人並み』の顔立ちをした子供が生まれてきたときには、本当にほっとしました。

私からみると、この生まれたての赤ん坊はほぼ完璧に日本人の顔立をしていたので、ごきげんでした。ところが母親の方は、まるで西洋人に見えたのでうれしかったのです。同じ赤ん坊を見ていたかですって! もちろんです。違っていたのは、私たちの『目』の方だったのです。時が経つにつれ、こんな違った見方をしていたのは私たちだけでないことに気付くようになりました。娘を見たカナダ人たちは彼女の日本人的なところを指摘しましたし、日本に来てからは、だれもが即座に彼女を外国人だと思ったのです。

この一見矛盾する反応は、実際のところ単純な理由によるものなのですが、様々なことに影響してしています。一般に私たちは、何か新しい物を目にするとき、違いにばかり目が行き、共通している部分には無頓着なものです。ですから、日本人の母親からすれば、娘の日本人的な鼻と顔の形など眼中になく、西洋人風の眼ばかりが目についたのです。そして、私の方は逆に、とりわけ日本人的な所にばかり目が行ったのでした。

こういった受け止め方は、ほかにも色々なところでみられます。例えば、初めて外国に行った旅行者は、驚きの眼差しで辺りを見回すでしょう。建物、人、服、食べ物、と自分の国と違う物ばかりが目に付くのです。そして、『この国の人は、なんて違うんだろう』と思います。日本に帰ってくると、新しく見てきた事についての話で一杯です。ですから、それを聞いた友達は、心に描くその国が『自分たちと違っている』というイメージを一層強めるのです。

こういった、旅行者の『特殊な状況での物の見方』というものは、飛行機など一般的でなく、テレビで外国を見るなどということがまだない頃ならば理解できます。外国を『不思議な人達が住んでいて妙な所なのだ』と思わせたことでしょう。でも、通信や交通機関の進歩したこの現代になっても、何ら変わっていないように思えるのはどうしてでしょう。

私自身の経験からも、また身近なケースからも言えることですが、西洋人の目から見る日本、そしてその逆の場合において、こういった見方の違いはあるのです。私が、まだ日本をじかに知ることのなかったころ、この国に関する知識はほとんど本からのものでした。そのほかに、メデアや日本に行ったことのある人、そして稀に実際の日本人からも聞くことはありましたが。そして、『違いにばかり目が行く』という現象は重複して起きたのです。まず、自分が読んだ本の作者はほとんどが西洋人でしたから、もちろんのこととして彼らは相違点を強調して書いていました。くわえて私自身も、共通部分はざっと読み飛ばして、相違点にばかり興味を動かしたのです。何年ものこういった事前調査の後、この国にやっとたどり着いた時には、もう確信がありました。『僕は全く違う新しい世界にやって来た。』『ここには見慣れたものなんかなく、習慣だってまるで違うんだ。』 どうやって生きて行くつもりだったんでしょう。

もちろん、ちゃんと暮らして来ました。今から思えば何年も前のことで、当時心配したり不安になったりしたことがおかしいくらいです。なぜなら、ここでの生活になじみ、地域社会の一員としてやって行くのに、何の問題もなかったのですから。こんな思い違いをしたのは、私の読んだ本が基本的事実を正しく伝えはしていたものの 〜 違いこそありましたが 〜 そのほかの99%をないがしろにしていたからです。本質的なところでは、日本人も私とまったく同じでした。朝起きて、トイレに行き、朝食をとり... そして一日が過ぎるんです。同じような欲望や要求があり、似たような問題を抱えていました。同じような感情があり、周りの人たちとの繋がりを持っていました。99%という数は、ちょっと強調し過ぎたかも知れません。よく考えれば、もっと大きい数値なんですから!

何年も日本人の間で暮らしてみれば、『大きな違い』なんて実際のところ存在しないのです。靴を脱ぐか脱がないか、道具は引いて使うか押して使うか、米を食べるかジャガ芋を食べるか、そして本音と建前にこだわるか率直にいくか。そんな違いは事実を見れば、ないに等しいんです。二人の人を並べれば、生物学的にはかなり同じです。双方、共に『人間』なんです。

友達の笑子さんが、去年エジプトに行きました。ツアーでなく、フリーの旅行者として。彼女が出掛ける前、その国について本を読んだりして調べたか聞いてみると、予備知識なしに行ってみたいということで、答えは 'No' でした。二週間程して、彼女が『エキゾチック』な国への旅行から戻ってきたときは、話を聞くのを楽しみにしていたのですが...期待外れでした。話すことなんかほとんどないというのです。彼女を迎え入れたのは、父親が学校の先生で娘が大学生、といった全く普通の家庭でした。なんだか自分の家を訪ねたみたいな気がしたそうです。もちろん、名所を見たり珍しいものを食べたりはしましたが、彼女が日本に持ち帰った一番興味深いことは、エジプトのように、宗教や食べ物や気候からして違う、エキゾチックな国でさえも、そこに住んでいるのは同じ人間だということでした。笑子さんは、私が気づくまで何年もかかったこと、それも多くの人が気付かないままでいることを、ほんの二週間で学んでしまいました。エジプト人も私やあなたと同じなんです。

生まれながらに備わっている性質というのは変わらないもので、私たちはどうしてもよその国を偏って見がちですす。人間とはそういうものなのです。でも、違った文化をこんなふうに見られたらいいと思うのです。つまり、もっと自分たちと似ているもので、それほど奇妙でもなく警戒するものでもないというふうにです。私は、いつの日か、天文学者が宇宙のどこかに文明らしきものを持った集団を発見するのを待ち望んでいます。そうしたら恐らく、私たちは、自分たち人間がどんなに似通っているかということにやっと気付き始めるからです。そしてその時、まるで違う宇宙の誰か(何かかな?)と自分たちを比べるでしょう。

ですけど、そうなってもきっと、私は同じ落し穴に引っ掛かってしまうんですよ。宇宙人だって自分たちと同じじゃないかなんてね。父親が学校の先生で、娘が大学生で...天ノ川に居るお隣さんじゃない...なんてね。

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