デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

こうしてギターに関わっている間にも、私はフルートを演奏することを忘れてはいませんでした。私は、青少年交響楽団の仲間たちと木管楽器五重奏団を作り、それの練習やコンサートなどでいつもフルートを吹いていました。この五重奏団は、私がフルート演奏の腕を鈍らせないための場所となってくれただけでなく、作曲や編曲の練習をする機会も与えてくれました。この五重奏団のために書いた曲が市の音楽祭で賞をとり、それで私は、地方のテレビ局から、ある番組のテーマ曲を作ってくれと頼まれました。私は曲を書き、五重奏団がその局のスタジオでレコーデングをし、その後そのチャンネルで毎週放送されました。(25年前のことです...あの番組はまだやっているかなあ...まさかね!)

これに引き続いて私は、アマチュア劇団がするミュージカルの背景音楽の編曲と指揮を頼まれました。これはすごいことに思えるかもしれませんが、私が指揮したのは4,5人の演奏家とピアニストから成るアンサンブルだったので、フルオーケストラに比べればたいしたことではありません。そうは言っても、大変な仕事でした。熱意はあるけど才能のないアマチュアが作ったひどい歌を、聴くに耐える音楽に作り上げるのですから。パフォーマンスもおもしろかったです。あかりの消えた観客席。その中をスポットライトを浴びて指揮台まで大股に歩いていき、ステージの動きにあわせて「オーケストラ」を指揮するのです。素晴しい経験でした。

私のフルート奏者への道は方向を見失ってしまっていましたが、それでもまだ少しずつ進歩していました。当時バンクーバーのプロフェッショナル交響楽団は毎年学校の子供達を対象にしたコンサートを何回か開いていて、私は、モーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲」の独奏者として9回、そこで演奏しました。フルートを吹いてお金をもらったのは、これが初めてでした。2,000人が入るコンサートホールで、フルオーケストラをバックにして、というデビューでした。私はちょっと目を閉じてみなくてはなりませんでした。そうすれば、退屈してもそもそしている子供達は、たちまち、うっとりと演奏に聞き入っているカーネギーホールの聴衆に代わるのです! それともうひとつ大きな楽しみがありました。毎回、協奏曲が終わった後、舞台の袖に立って、「私の」オーケストラが、すぐ近くで、ストラビンスキーの組曲「火の鳥」を演奏するのを聴くことです。これは壮大な音楽で、華々しい音が私のそばを流れていく時、私はどんなにあそこで演奏したいと思ったことでしょう! 私はここにいて、オーケストラはほんの数メートル先にいる。こんなに近くに...

今44才のデービッドはこう書いてきて、20才の頃を振り返りながら、時々悲しそうに首を振ります。あの少年は、オーケストラのフルート奏者になりたかったんだよね? 本当にそう思っていたのなら、どうしてあんなに簡単に脇道へそれてしまったのだろう... 作曲、ギター演奏、ギター製作、家具の製作...

家具の製作? ええ、どういうわけか、私はそんなことまでやっていたのです。何がきっかけだったのかは覚えていませんが、最初に作ったのは、両親の寝室の姿見だったと思います... 父の楽器店の隣のビルに家具店があり、その店が、私がその次に作った物のいくつかを買ってくれたのです。ある日、彼らは私におもしろい提案をしてきました。その店は、近くに建てられる新しいホテルの家具を納品する、という契約を結んだのですが、そのうちのいくつかを私に作ってほしい、というのです。これは、こうした注文を受けて大量生産するための工房を構えて、家具職人として仕事を始めるよい機会でした。でも、そうはなりませんでした。この申し出より少し前に、私には既に別の計画があったのです。私のポケットには、イギリスのロンドン行きの航空券が入っていました...それも片道の。大学を中退して2年が経ち、大きくなった子供が定職もなく家にいることに対する両親の我慢はもう限界にきていました。ロンドン行きは両親の提案でした。ロンドンは、世界でクラシック音楽の中心となっている所のひとつです。「おまえは本当にフルート奏者になりたいのかい? だったら行きなさい!」

次回へ続く...

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