デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Spring : 1995

この号はいつもより早いですか? 実は、これで予定通りなのです。 今までの数号が遅れていたのですね。

この「百人一緒」も版画もそうですが、本来のスケジュールに戻れるのはいい気分です。私にとってはちょっとした驚きですが、この仕事にとりかかってまる 6年、何とか当初の予定通りに進めてきました。平成元年にアイデアをまとめた時には、これは筋の通った現実的なアイデアだと思っていました。しかし実際にその通りに事が運んでいて、しかも生計が立てられるようになってみると、いまだに夢のような気持ちです。

今回は、 1月の展示会の報告と「ハリファックスから...」および、この仕事を裏で支えてくださっている職人さんのことを取り上げています。

もう飽きましたか? 私はまだまだです!

ハリファックスから羽村へ

(前回からの続き)

 はるか遠くに過ぎ去った年月を振り返り、自分の性格や人間性に重要な影響を与えたものを見つけ出そうとするのは、本人にはむずかしいものです。たとえば今、「自分はこういうタイプの人間だ」と考えているとして、それは私の子供時代に起こった出来事によるものでしょうか、それとも、単に遺伝子によるものでしょうか? 私にはわかりません。ですから、私が次に書くことは真実であるかもしれないし、そうでないかもしれません...でも、とりあえずやってみましょう...

以前書いたように、私の家族はしょっちゅう引越しをしていました。平均して、 2年毎に新しい家に移っていました。ということはつまり、私はしばしば友達みんなを失わなければならなかった、ということです。「ここが自分の家だ」という感じを抱き始めると、いつも決まって、その感じはぬぐい去られることとなり、また別の場所でいちからやり直し、ということになるのでした。ですから、大人になったデービッドがいとも簡単にカナダの家や友達を捨てて、日本で新しい生活を始めたからといってなんの不思議があるでしょうか? 大人になったデービッドが、親友と呼べる人は片手の指の数にも満たないほどだからといって、なんの不思議があるでしょうか? これらのことには何か関連があるのでしょうか?

おそらくはこうした事情のために、あるいは私の母の早期教育によって、本が私の生活の重要な位置を占めるようになり、それは今日まで続いています。ある幼い日の記憶があります。図書館から家へ帰る途中の車の中でのことです。本を開いて車の中で読み始めたら気分が悪くなるだろうということはわかっていました...でも、やっぱり本を開いてしまったのです! (ここ東京の狭いアパートで暮らしていて、残念に思うことはほとんどありませんが、私の本をみんなカナダのトランクルームに残してこなければならなかったことは、その数少ないことのひとつです。もっと広い家に住めるようになって、本をみんなこちらへ送ることができるようになる日を夢見ていますが...そうなったら、しばらくの間みなさんは私の声を聞くことなんかなくなるでしょうね!)

今回のお話しが、こういった思い出ばかりではいけませんよね。この小・中学時代には実にいろいろな活動をしました。昼も夜もアイスホッケーをしたこと、プラネタリウムで天文学を勉強したこと、熱心に切手を集めたこと、ボーイスカウトでの応急手当をできるように勉強したこと、とても寒いカナダの冬の間じゅう、新聞配達をしたこと(カナダではこれは大人の仕事ではなく、中学生の仕事です)、そしてもちろん、私の弟や、私が10歳ぐらいのころに生まれた妹と遊んだこと...

私はなんでもやりました...宿題以外のことは。私の学校での成績は確実に下降線をたどっていました。 1年生ではトップでしたが、12年生ではかろうじて落第をまぬがれる、という状態でした。毎年毎年、成績は落ちていきました。通知表を渡される時は、いつも先生に同じことを言われました...「デービッドは実力を出しきっていませんね...」

でも、この台詞は一体どういう意味なんでしょう? 「実力を出しきっていない...」とは。頭が良いと思われている子供はみんな、学校で...教室で...テストで良い成績を上げなければいけないのでしょうか? どうして私はそんなふうに判断されたのでしょうか? 「私が実力を出しきっていない...」だなんて、誰が決めたのでしょう。どういう規準で決めたのでしょう? 私には、この43歳のデービッドが、ある意味では12歳の少年の頃とほとんどまったく同じ人間に思えます。あれこれ何でも知りたがり、自分がおもしろいと思ったことにはひたすら夢中になり、それ以外のことには目も向けない... 今でも私は「実力を出しきっていない」...でしょうか? 年若い少年にそんなことを言うのは、なんとばかげたことでしょう!

幸運にも、私はそんな台詞を無視するだけの常識を持ち合わせていたようです。

次回に続く...

展示会の総括

ここ数年の展示会の様子はまったく違っていたので、今年の展示会がどうなるか、私には本当にまるで見当がつきませんでした。 2年前は...惨憺たるものでした。昨年は...素晴らしい成功をおさめました。今年はどうだったでしょうか?

そうですね、いくぶん驚いたことに(そして大変ほっとしたことに)、今年もまた大変な成功でした。会場を訪れて春章の作品を楽しんでくださった方の数のうえでも、またこの企画に加わることを決めてくださった方の数のうえでも。昨年は、ちょうど折り返し点での展示会ということで少し特別の感があり、マスコミも大変協力的で、私はその恩恵にあずかることができました。しかし、それは同時に、今年はそれと同じだけの協力は期待できない、ということでもあります。私は、自分の仕事はおもしろくて、知らせるのに価するものだと思っていますが、新聞やテレビが毎年毎年同じ話を載せる、というものではありません...そして実際、載せませんでした。

でも、多くの人に来ていただくために、何もそれほど多くのマスコミの報道が必要なわけではないのですね。いいところにいい話がひとつあればよかったのです。そして今年は、朝日新聞がその「ひとつ」を書いてくれました。新聞の全国版に私に関するおもしろい記事を載せてくれたのです。今年の展示会が昨年と同じくらい忙しく、実り多いものとなったのは、ほとんどがこのひとつの記事のおかげでした。

マスコミの取材が全然ないだろうと思ったので、私は今年は関西の展示会を企画しました。関西では私は比較的知られていませんし、マスコミも何かおもしろくて書く価値のある話を見つけ出せるだろうと思ったのです。しかし御存知の様に、あの不幸な阪神大震災があって、当然のことですが、私の重要でない小さな企画は隅に追いやられてしまいました。東京の展示会が終った後、大阪のギャラリーの支配人と話をして、私たちは予定通り、30日から展示会を開催することに決めました。大阪での生活はかなり平常に戻りつつあると思われたからです。

もちろん、ホテル取る事はできませんでした。でも、豊中市の斎藤さん御一家が「どうぞ」とおっしゃってくださったので、私はその暖かいもてなしのおかげで、心地好い 1週間を過ごすことができました。私の母が、イギリスから東京に来て娘たちの世話をしてくれましたので、家のことは何も心配する必要がありませんでした。そのうえ、私の仕事に大変興味をもってくださっているように思われる方にも何人かお会いし、その方々は、私の企画に加わって下さったのです。

全体として、ふたつの展示会から、これ以上の結果は望みようがありませんでした。確かに、まだ「完売」ではありません。(収集家の方は 100人に達していませんから) しかし、今年もまた、経済的な心配はしなくてよさそうです。この成功を手助けしてくださったみなさんに、心からお礼を申し上げます。

そして今、これらの非日常的な出来事はみんな終わって、私も腰を落ち着けて、自分のすべき事に戻る時が来ました...彫り、彫り、そして又彫り...

彫師 ...

もう何年にもなりますが、この「百人一緒」で摺師の松崎啓三郎さんをご紹介しました。私に、摺りの技術に関するアドバイスをしてくれています。ところで、どうして私は彫師のことも紹介しなかったのでしょう?

皆さんはすでにご存じのように、伝統的な版画の世界では摺りと彫りは必ず別々の人が手がけています。20世紀の芸術家タイプの版画家は、もちろんすべてを自分で行います。デザインからサインまでというわけです。しかし、いまだに18世紀の方法で暮らす職人は、自分の仕事の密度を薄くしようとは考えていません。そういう人たちは一つのことに従事します。そのことだけを巧みにこなします。摺師は摺りを、彫師は彫りを。

しかしそうした分かりやすい違いとは別に、摺師と彫師を分けていることがあるようです。しかもそれは江戸時代から延々と続いているように思えます。摺師(の集団)は社交的で開放的で愉快な人ばかりで、自分たちの仕事について互いに話をするのが好きで、技術を教えあい、仲間がしている仕事にも興味を持ち、つまり隠し事はしないのです。

彫師(この場合も集団としてです)は、かなり風変わりな人々です。私がお会いした彫師の方々は、いつでも私の質問には答えてくれます。でも、仲間同士として、積極的に知識を共有しようとは考えていないように思えました。私が外国人だからという事とは関係なく、単に彫師の特殊技術の歴史が反映しているのだと思います。「昔」を振り返ってみましょう。彫りには異なる流派がありました。それぞれの流派では自分たちのやり方が他よりも優れていると信じ、それを守らなければならないと考えていたように思います。その後長きにわたり、こうした秘密主義的な習慣が身につき、今日まで続いているのです。こうした考え方は、伝統を維持するためには逆効果になっています。

このことに関しては(摺師の友人とはもっとも意見が食い違うところです!)、彫りのほうが摺りよりもかなり難しいという見方があります。聞くところによると、摺師の平均的な見習い期間は、およそ10年だそうです。一方、彫師が「彫りで食っていく」までには15年かかると言います。若い摺師でも(簡単なものなら)とても魅力的な仕事をこなすことができますが、若手の彫師の仕事は簡単には受け入れられません。ごく「簡単な」仕事でも、人の注目を集めるような彫りができるまでには、何年もの修行が必要なのです。彫師は、摺師より優れていると考えています。(少なくとも彫師のデービッドは摺師のデービッドに対して優越感を感じています)

摺りは彫りに比べて肉体的な力が必要ですから、様々なタイプの人々を引きつける(あるいは産み出す?)のかもしれません。摺師は「陽気」で社交的であり、彫師は「孤独」を好む集中型という私の見方は間違っているでしょうか? 昔から伝えられていることですが、摺師にとっては40代から50代が一番油ののっている時だといいます。豊富な経験を積み、しかも体力が落ちる前の時期です。一方、彫師は、まさに引退する直前まで素晴らしい仕事をし続けることができます。実際のところ、彫師の晩年の仕事に最良の作品が多いのです。

では今まで、どうしてこの「百人一緒」に「彫師を訪ねて...」という記事がなかったのでしょう? 単純なことですが、まだ一度も彫師を訪ねていないからです! 以前、伊藤進さんを訪ねる機会がありましたが、これはテレビ局の依頼であり、個人的な話をすることはできませんでした。数年前のある日の午後、お年をめした彫師のお宅に、事前に知らせずに「立ち寄った」ことがありますが、その時はとてもお忙しく、また私の態度がぶしつけだったのでしょう、くつろいだ話はできませんでした。

でも私も今は必死です。来日したのは、まさにこういう人々と共に時間を過ごすためです! もう 9年近くになります。一体いつになったら彫師の横に座って、仕事ぶりを見ることができるのでしょう? 皆とても忙しく、仕事の邪魔をされたくはないのです。きりのない質問を浴びせられて、悩まされると思われているのかもしれません。でもそんなことはしません。約束します! ただ座って...見て...聞いていたいのです。もちろん、できる限り技術を吸収したいと願っています。  最高の職人さんは、一年ごとに年をとっています... 秘密を「盗み」たいと思うのは私のわがままでしょうか? まだ、私はおメガネにかなわないからでしょうか?

きっと今年こそ、機会が来るでしょう。

最近受けたインタビューの最後に、私にいろいろな質問をしたいた若い女性が「こんなに楽しい人生をおくっておられて、本当にラッキーな方ですね」と言いました。好きな仕事で生計をたて、支えてくれる人もたくさんいて、自分でつくりだした美しいものに囲まれているなんて、と。

そのインタビューを受けていた時、私はちょっとした興奮状態にあったのだと思います。というのは、彼女の何気ないコメントに対する私の答えは自分でも驚くものだったからです。(そして、多分、彼女も驚いたことでしょう...)

そんなコメントを軽く受け流して、あたりさわりのないことを言う代わりに、私は彼女に話を聞かせ始めました。やわらかな、低い声で、私はここ14年間のいろいろな出来事を話しました。カナダでサラリーマンとして働いていたこと、でも、版画家になるという夢ができたこと...できるだけ倹約して給料のなかからお金を貯めて...安全で手堅い仕事を捨て、自分の育った国を離れたこと...妻とふたりの幼い子を連れて、新しい見知らぬ国に来たこと...私はそこの言葉を話すこともできず、仕事もなかったし、それどころかビザすらもっていなかった...それから何年もの間、英語を教えたり、おもちゃを作ったり、翻訳の仕事をしたりして昼も夜も働いたこと...版画を作ろうという私の夢はどこか遠くに消えてしまったように思えたこと...妻が他国へ行ってしまったこと、彼女には私に見えていたものが見えなかった...もう少し一生懸命働いて、もう少しだけ待っていさえすれば夢は実現できるのだ、ということが...それから、思いきって、他の仕事をすべてやめて、私の版画作りの羽だけで飛び始めたこと(当時はまだまだ未熟な羽でした)...経済的にはとても苦しくて一文なしになりそうだったこと...それから、ようやく私の仕事と生活を支えられるほどの支援を得られるようになったこと...

彼女にそんなことを話したのは間違っていたでしょうか? 「そして今、若い女性が私の部屋に座って...“あなたはとてもラッキーですね”と言うのです」と言いながら、涙ぐんでしまったのは、間違っていたでしょうか?

そうです、確かに今、私の人生は平和で、おもしろく、楽しいものに思えます。ストレスがないわけではありません。でも、それらのほとんどは取越苦労です。全体的に見て、今の状態はほとんど最高だと思えます。私はそんなラッキーなやつにちがいありません!