デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 1994

ここに書いているいろいろな話以外に、もっとたくさんの書くべきことがあり、順番を待っている状態です、と私はしばらく前に書きました。でも最近はそうでもなくなりました。出番を待っている話はいぜんと同様にたくさんあるのですが、最近は少し、書くことをさぼっていて予定より遅れ気味です。この号も、1ヶ月前にはお手元に届いていなければなりませんでした。

今も書き続けていますし、2、3ヶ月前には日本の英字新聞3紙記事が載りました。日本人の読者の方には親しみにくいので申し訳ないのですが、私が分かりやすい日本語で書けるようになるまでには、まだまだ時間がかかります。その時が来るまでは、このささやかな「百人一緒」をお読みいただくことになります。

ハリファックスから羽村へ

(前回からの続き)

私たちの家族がカナダへ移住することになったのは、「ビックバンド」の時代が終わろうとしている時だった、というのも理由のひとつです。20人ものバンド仲間を巡業に連れて行くというのは、大変お金のかかることでした。そして、音楽のスタイルが変わるにつれて、私の父のような演奏家に対する需要も変わっていきました。父は、この先仕事を見つけるのはますますむずかしくなっていくだろうと予感しました。しかし、ある日彼は、海の向こうのカナダでいい話がある、ということを聞きました。そこでは、軍のバンドのポジションがいくつか空いており、その席がイギリスの演奏家に開かれている、というのです。音楽関係の「安定した仕事」−労働時間は決まっていて、はてしなく続く夜の移動というのもない−そういう仕事が魅力的に思えたのでしょうか、それともひとつの所に落ちついていられない彼の性格がそうさせたのでしょうか、とにかく彼は決心し、私たちはカナダへ渡ました。

残念なことに、当時、私はまだ 5歳で、このとてもおもしろかったにちがいない日々の事を何も覚えていないのです。「エンプレス・オブ・スコットランド号」という大きな船で大西洋を渡ったこと、北の町エドモンドンへの 3日間におよぶカナダ横断汽車の旅、そして始まった新しい生活。もちろん、前の国も新しい国もともに英語国でしたので、カナダの社会になじむのは比較的簡単でした。それでも、いくつか問題がありました。そのうちのひとつが学校でした。カナダの学校がむずかしかったからではありません。易し過ぎたのです。私は他の同じ年齢の子供とともに 1年生のクラスに入りました。でも彼らとはひとつ大きな違いがありました。彼らはABCから勉強を始めたのですが、私はすでに読み書きができました。通っていたイギリスの学校でも家庭でも読み書きを学ぶことが奨励されていたのです。ですから、「A=Apple B=Ball ...」といったタイプの授業の間中じっと座っている、というのは、私には非常に退屈なことだったにちがいありません。先生たちは私に図書室のカードを渡して、私が読書の時間をもてるようにとりはからってくれ、私の興味をそこなわないようにしようとしました。でも、私の能力と学校のカリキュラムの間のギャップはかなり大きかったのだと思います、というのは、 1年生の終わりには、先生たちは私に 2年生をとばして 3年生になるように勧め、状況を改善しようとしたからです。そんなわけで私は 2年生をやっていません...

先日、この話を子供たちにすると、彼女たちは素直に感心していました。しかし残念ながら、これは「10歳で大学を卒業した天才」の話ではありません。この続きを話すと、彼女たちは大笑いしました。私は一歩先んじたスタートをきったわけですが、あっというまにみんなに追いつかれてしまいました。私が非常にやせた小さな子供であったこともあり(先号の写真からは想像できないでしょうね!)、私はだんだんおちこぼれていきました。高学年生になる頃には状態はかなり悪くなり、私は 5年生をもう一度やりなおすように言われました。結局、小学校を終えるのに 6年かかってしまったのです!

日本人の読者の方にとっては、子供に小学校の学年を重複させるなんて大変悲劇的なことに思われることでしょう。ここではそんな話を聞いたことはありませんし、友達がみんな次の学年に進んでいるのに、ある子供だけに 1年重複させたとすれば、大きな社会問題になるでしょう。しかし、私の場合、この 2回目の 5年生をやった年は、私の家族がしばしば引っ越しをした年だったので、(だいたい 2年毎にそういう年がありました)、それほど深く傷ついた、ということはありませんでした。

私は学校以外のことにもいるいる興味をもっていました。ボーイスカウトに入って、キャンプ地域の奉仕活動を大変熱心にやり、しまいには地域のリーダーになるほどになりました。今考えてみると、これは意外な感じがします。私はとても内気な子供だったのですから。でも、思うに、私がリーダーになったのは、単に私が従順で、言われたことをきちんとやると思われていたからだと思います。私はリーダーにふさわしい生来の能力など何ももちあわせていませんでしたが、グループのリーダーになったことは私の性格のそういう面をひきだす助けになってくれたと思います。

こうして、私の小学校時代なだいたいにおいて幸せに過ぎていきました。たいていは私と年の近い弟と一緒に、時間を忘れるほど遊んで楽しみました。私たちはいつも同じ部屋でした。けんかもたくさんしたと思いますが、今となっては誰がそんなことを思い出すでしょうか?

次回に続く...

島田文二ご夫妻

>この「収集家の紹介」シリーズの初期に、白いエプロンに帽子姿のパン屋さんの長さんをお訪ねしました。今回は、同じような服装の島田さんです。パン屋さんじゃない、ラーメン屋さんです!

初めて島田さんにお会いしたのは 4年前ですが、その時は今とは全然違う仕事をされていました。生花業界の会社員だったのです。でもその仕事に満足されていなかったのでしょう。1年前にはそこを辞めて、自分でラーメン屋を開き、今は奥さんの米子さんと一緒に働いていらっしゃいます。

先日の午後、お二人を訪ねましたが、ゆっくりとは話ができませんでした。お客さんが多くて、注文のたびに会話がさえぎられるからです。でもこのおかげで、私は座りながらお二人の仕事ぶりをじっくりと観察することができました。日本に来てから今までに、数え切れないくらいのラーメンを食べました。しかしこういう光景は見たことがありません。大きなミソの固まりと手頃な大きさの「ミカン」が麺の山に乗り、大きなオタマいっぱいのスープ、手のひらのサイズのハムが5枚、さらにモヤシ、野菜、コーン。これが、ピザほどの大きさの器がかくれるくらいに盛られているのです。これで一人前です! 私なら食べきるのに1週間かかります! しかし、島田さんがこの巨人なラーメンを目の前においても、お客さんはまばたきさえしません。この店の常連にとっては当たり前なのでしょう。

たった二人でこういう店を切り盛りするには、たくさんの時間がとられます。前の仕事と比べると、1週間のうちで働いている時間は2倍くらい増えたそうです。経済的な安定性も(もちろんボーナスも)ありません。島田さんが夢中で取り組んできたことが感じられます。自分には、なぜそんなに夢中になるのかわからない、と考える方もいらっしゃるでしょう。そんなに時間をかけて? お金のために? そんな問題ではありません! 自分のために働いているという達成感が重要なのです。島田さんは前の会社を辞める前にも、こういう経験をされたことがあります。自分で家を建てようとして、みずからハンマーを手にしていたことがあるからです。(私の作品の収集家のうち、二人が自分の手で家を建てたというのは単なる偶然でしょうか?)

島田さんご夫妻がお客さんにラーメンをお出しするのを見ていて、私は考えざるをえませんでした。私の版画を集めるための費用がどのくらいの負担になるのか。食材や設備、家賃などなど、相当な支出があるのは明らかです。お客さんが支払う 600円ほどの代金では、それほどの金額は残らないでしょう。私の版画一枚の料金を支払うのには、ラーメンを何杯作らなければならないのでしょうか? そのことを考えると困惑してしまいます。お二人は、私の版画を60枚お待ちなのです!

もちろん、すべての収集家の方にとっても事情は同じです。色のついた紙と引き替えに、大変な思いをして稼いだサラリーの一部を送ってくださるのです。でも島田さんの場合は、その負担が特にはっきりと目に見えます−1杯...2杯...3杯... 毎月毎月、何時間にも及ぶ労働の結果が、私の夢を支えてくれています。どうすれば十分な「ありがとう」が言えるのでしょう? いかにすればお返しができるのでしょう? 方法は一つしかありません。報いるだけのよい仕事をして、ふさわしい版画シリーズを作ることです。そうすれば、百人一首シリーズに参加してくださっているお二人も、誇らしく思われるでしょう。

ですから、この店の近くにお住まいの方は、どうか時々立ち寄ってみて下さい。輝くように清潔な店と、壁に飾られた書を満喫して下さい。ただし、行かれるときには、必ずお腹をペコペコにしておいて下さい!

島田ラーメン店
東京都 武蔵村山市
残堀 5ー153
0425(69)2182
(毎週水曜定休)

私たちはみんな隣同士です

昨年の夏、私たちが子供たちの田舎に泊まっていた時、私は毎日、夕方は川の土手に座って過ごしました。そこは大変安らげる場所で、暗くなってもうこれ以上はいられないくらい寒くなってから家に帰ってくると、私は毎日ノートをとりだして、その平和な光景から思いついた事柄について短いエッセイを書きました。そこに2週間滞在し、私は14のエッセイを書きました。

東京に戻って山積みになった新聞に目を通していると、読売新聞で、次のようなテーマでエッセイコンテストの参加作品を募集しているのが目に止まりました。「私たちは環境のために何ができるだろうか?」 私は、これは私が書いていたものにぴったりだ、と思い、14のなかからひとつを選んで送りました。みなさんのうち何人かの方は先月すでに新聞などで御覧になっているかもしれませんが、私のエッセイは幸運にも優勝し、環境庁長官賞をいただきました。

これは「百人一緒」とは何の関係もありませんが、こういうのもちょっとおもしろいかもしれません...

* * *

私は日本にすんで 8年になります。今では日本の事情にも慣れ、当時の日本と現在とのいくつかの違いがわかります。

私立ちは、毎年夏、子供たちの祖父が住んでいた田舎へでかけます。そこにいる間、毎日川で泳ぎます。川はたいてい、日焼けした小学生の子供たちでいっぱいです。初めてその川へ行った時、川にゴミがたくさん捨ててあるのを見て、大変驚きました。村のちょうど真ん中にあるこの美しい遊泳場所が、がらくたでだいなしになっていることにがっかりしました。

 私たちは村の子供たちに何も言いませんでしたし、叱りもしませんでした。でもある日、ゴミに耐えられなくなった私たちは、いくつかの大きなビニール袋をもってきて、ゴミを集め始めました。川で遊んでいる子供たちの反応には 2つのタイプがありました。たいていの子供たちは私たちのしていることに気づかないのか、あるいはただ無視していました。でも、ごく少数でしたが、何人かの子供たちは私たちを手伝って、ゴミ拾いを始めたのです。

その時から、私たちはこれを習慣としました。川に泳ぎにでかけた時には、いつも様々なゴミのはいった袋を持ち帰りました。そして、村の人たちもしだいに私たちのすることに慣れてきたようでした。毎年毎年、拾うものはいつもたくさんありました。ゴミはいくつかのお決まりのものがほとんどでした。小さい子供が投げ捨てたカップ麺の容器やスナック菓子の袋。その父親たちが捨てたコーヒーやビールの缶、たばこの空き箱。そして(これがもっとも始未が悪いのですが)、明らかにこの川のまわりにある田んぼの農夫たちが捨てたと思われる、農業用の化学肥料などがはいっていた大きなビニール袋。

これは 8年前の話です。今、この川はどうなっているでしょう。日本の多くの人が知っているように、状況はかなり改善されました。ここ数年、川から持ち帰るゴミは大幅に少なくなり、泳ぎに行く時にゴミ袋をもっていく習慣はなくなりました。まだ完全ではありません。カップ麺の容器やスナック菓子の袋はいまだに散らばっていますが、空き缶や空き箱はほとんど見られなくなりました。そして、ここ何年も、農業関係のゴミは見たことがありません。状況が改善されたのは私たちの行動のおかげだ、などと言うつもりはありません。私の家族が村に滞在していたのは、毎年数週間だけのことです。日本中が次第にきれいになっていく現象はこの小さな川よりももっとスケールの大きなものです。

1960年代に行なわれた東京オリンピックが大きな転機になったと聞いています。友人たちの話では、その前は、私の家の近くを流れる多摩川も、廃車、タイヤ、家具、家庭ゴミなど、ありとあらゆるゴミが山のように積まれていたそうです。しかし、オリンピックに来るお客さんにきれいな顔を見せたり、という気持ちから、徐々に新しい倫理観が古いものに取って代わったのです。今では廃車の代わりに桜の木が植えられ、このあたりは近所の人々の憩いの場となっています。

そういうわけで、今、多摩川流域はきれいになっています。以前は、そこを誰のものでもない「外」のものだ、と考えていたのが、今では「内」、地域の人々みんなのものだ、という意識に変わってきたからです。次のステップは明快です...この考え方を広げていくのです。自分の近所や町だけでなく、ひとりひとりの「御近所」、町、山間部までを「地元」に含めてしまうのです。

こうすれば誰にでも何かができます。地域全体を自分の家だと考えてみましょう。そこをきれいにし、資源を無駄使いしないようにし、他の模範となるようにしていきましょう。

最終ページのこの欄に、ちょうど1年前、私は「今年は、長く困難な一年でした」と書きました。実際にその通りでしたが、幸いなことに「今年」はそんなことを書く必要がありません。これまでのところは「うまく」いってます。きっと、経済的な問題のプレッシャーがなくなったからであり、10枚の版画にいい手応えを感じたからであり、娘たちが、子どもから「若いレヂィー」になり始めているのを見ているからでしょう。これらのことが原因だろうと思います。ここ数年の嵐のような時期が終わり、今の(おおむね)平穏な年を過ごせることに感謝しています。

今年の終わりにはどうなるかわかりません。でも昨年と同じように、機会に恵まれて目標を達成できれば、何の文句もありません。

60枚完了、あと40枚。