デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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今回の「百人一緒」は、『夏の号』というよりも『梅雨の号』と呼ぶべきでしょう。この文章を書いているのは 6月の初めですが、あなたがお読みになる頃は、湿度が高くて蒸し暑い季候になっていることでしょう。私自身は本質的に、梅雨がいやではありませんが、今年の夏はここ数年のようにジメジメしないといいなあと思います。お米の出来が心配だからでしょうか? そういうわけでもありません。毎日ご飯を食べますが、私はパンも好きですから。もっと心配なのは、和紙の原料になるコウゾや、バレンを包む*の出来ぐあいなのです。昨年は悪天候の影響で、これらの植物が不作でした。私たち、版画に携わる人間は誰もが、今年はいい材料ができるようにと祈っています。
ようやく、「百人一緒」のいつものパターンに戻ってきました。「○○さんを訪ねる」と収集家の紹介という構成です。そして(もしも我慢していただけるなら)私たちの個人史についての連載の第 1回目をお読みいただきます。楽しんでいただければ幸いです。
私の両親が育ち、私が生まれた所というのは、おもしろいことに、日本からイギリスに旅行に行く人たちの主要な観光地のひとつになっています。旅行者たちは、19世紀の作家、ブロンテ姉妹の著書「ジェーン・エア」や「嵐が丘」によって有名になったこの地の文化や風景を見るために、ここを訪れます。彼らがこれらの本に描かれた文化や社会を見つけることは、今はほとんどできないんじゃないだろうか、とは思いますが、もちろん風景は今も残っています。もっとも今は、当時のような近づきがたいような感じはうすれているように思われます。
ここはヨークシャー平原です。風の吹きすさぶ不毛の丘と切り立った岩の谷が何マイルも何マイルも続いており、多くの人がいだいている「おだやかで緑豊かなイギリス」というイメージからは、およそかけはなれたところです。でも、そこはハイキングを楽しむのにはいい所です。気候は温暖で、広大な景色と空の広がる、本当に素晴らしい場所です。しかし、ほんの一昔前には、そこは今とは全く違ったおもむきを呈していました。というのは、ここは産業革命の中心地、良くも悪くも世界に大きな変革をもたらした、あの工業化の過程が誕生した所だからです。
巨大で暗い工場、炭坑、蒸気機関車の線路、そして運河があちこちにあり、どの建物もみんな石炭の煙で真黒になっていた... 私たちがそこ「ハリファックス市」にいだくのはそうしたイメージです。私の両親が育ったのは、まさにそんな風景のなかででした。私が、彼らの生まれ育った場所を、陰鬱な暗い言葉で書いたなら、彼らは怒るでしょう。彼らにとって、そこはまったく普通の場所だったし、生活もそれほどひどいものとは感じていなかったのでしょう。でも、私は彼らの当時の環境を考えると、身震いせずにはいられません...
れんが造りの長屋のちっぽけな暗い家。一階と二階に部屋がひとつずつ。私の狭い東京のアパートよりもずっと小さな家。暖炉の他には暖房設備などももちろんなく、その暖炉の前にブリキの桶を置いて、風呂にはいりました。トイレ? 長屋の端に共同のものがありました。そして、どこもかしこも、家や工場が石炭を使って火を焚くので、煙とスモッグと塵に覆われていました。
私の両親はふたりとも、学校を14歳くらいで終えると、すぐ動き始めました。その時代のほとんどの人がそうだったように。彼らは服飾工場に動きに行きました。当時、そこでは、戦闘服を作っていました。労働時間は長くきびしく、彼らは受け取ったわずかな給料を家計費の足しに、と彼らの両親に渡していました。彼らは積極的に戦争に参加するにはまだ少し若すぎました。もっとも、父は、10代の後半には召集を受けましたが、ちょうどその頃、ヨーロッパでの戦闘は終わりました。結局彼らはそこで約 3年を過ごしました。
平和で穏やかな一日の仕事を終えて、このここちよい家で夕べのひとときを過ごしながら、こうしたことを考えていると、彼らの少年少女時代というのは私にはまったく非現実的なものに思えます。私の生活もこれと非常によく似たものになったかもしれない、と考えることも非現実的な感じがします。しかし、ふたつのことが起こって、私の生活は両親と同じようにはなりませんでした。戦争が社会に変化をもたらし、そしてもっと重要なことには、両親が「今よりももっといい暮らしがしたい」と思い始めたのです。自分たち自身のためにも彼らの子供のためにも。
次回に続く...
どなたであれ、私の作品を購入しようと決心してくださる方がいることはとても嬉しいのですが、同じ方が 2度、私のお客さんになってくださることはめったにありません。この仕事にとりかかって 2年目のことです。ある日、大阪在住のアメリカ人の会社員から電話がきました。私の記事を新聞で読み、もっと詳しいことが知りたいというのです。しばらく話しをして、私は版画の見本を何点か送りました。そして彼と奥さんはお客さんになりました。残念なことに、二人のことをもっと知る機会がないまま、二人ともアメリカに戻ることになってしまいました。これで私たちの交流も終わるかに思えました。去年の暮れ、葉書きを受け取って驚きました。二人がまた日本に帰ってくるばかりか、今度は福生市に住むことになると言うのです。私の住んでいる羽村から自転車で10分ほどの距離です。
それ以来、ラリー、ユキ・ラコス夫妻と知り合う機会が何度かありました。二人がどんなタイプの人間かといったことを説明したいのですが、うまく理解してもらえないかも知れません。この地上にいる限り、人生を楽しむといった感じのカップルです、と言ってしまえば、二人は祭好きの人間だと思われてしまうでしょう。でもラリーとユキは真っ正直な実業家であり、様々な仕事と社会活動、地域活動に従事しています。二人の人生哲学は実は単純なことです。「この世界は素晴らしく、美しい。人生を楽しむばかりでなく、出来る範囲で社会に貢献する責任を誰もが負っている」二人の所から帰るときはいつも、元気をもらってくるように感じます。精神的な「疲労回復剤」のようなものです。何をする時でも一所懸命な二人の熱意がうつるのです。知り合って間もない頃、二人の活動をおおまかに、こんなふうに見ていました。キャンピングカーやバイクでアメリカ中を旅行し、日本でも同じことをするための準備をし、男性合唱を楽しみ、援助が必要な若いアーティストの作品を購入し、自分でも絵筆を握り(ラリー)、アクセサリーを収集し(ユキ)、さらに仕事にも没頭する。
二人の仕事はうまくいき、その結果、人生哲学の別の側面を実践することができるようになりました。楽しんだことを、社会にお返ししなければならない、という気持ちが生まれました。たとえば私の仕事を援助したり、教会活動をすることなどです。ラリーが宗教のことを話した最初の時、正直に言うと、私はちょっと緊張しました。クリスチャンは時として、信仰に忠実なあまり布教的になることがあります。でもラリーはそんなことはありません。それどころか、宗教が個人の力、喜びの源になっているという見本のようなこの人物は、どんな説法も及ばないほど魅力的な「宣伝」になっているのです。
この面白い二人と、もっと一緒の時間がとれればいいのに、そうすれば、いかに二人が人々をくつろいだ気持ちにさせることができるかという見本になるのに、と前回別れるときに二人に話しました。私のお客になってくれて版画を買ってくれたことにたいするお礼を言おうということさえ、私は考えませんでした。「じゃあ、また」。ただこんなことを言っただけです。ラリーとユキは「お客」ではありません。二人は友達です。皆さんも二人と一時を過ごすことができればいいのに、と思います。そうすれば人生がもっと豊かになるだろうと思います。
私は「百人一緒」の取材のための今回の訪問を楽しみにしていました。何故なら、そこは、私が東京のなかで一番好きな場所にあるからです。機会があるごとに私は何度もそのあたりへでかけています。いいえ、浅草ではありません。そこには多くの木版画職人がいて仕事をしていますし、もちろん私もそこへ行くのが大好きですが、今回は神田・神保町のあたりです。私が惹かれるのは九段下から小川町にかけての靖国通り一帯です... 何十という古本屋さんが列をなしているところです。たいていの場合、いったんこういう店に入ってしまうと、私はその日のうちにしなければならないことをみんな忘れてしまいそうになります。しかし今回、地下鉄の神保町駅を降りて東のほうへ向かった時は、私は、心を鬼にして山のような本の誘惑をふりきり、まっすぐ歩いて行かなければなりませんでした。今回の目的は本を見ることではありません。あらゆる種類の絵の具を扱っている松吉一行さんのお店を訪ねることです。私は、版画をつくるための顔料をここで手に入れています。
しばらく前まで、彼の店は、古い茶色の木造建築でした。しかし、不動産業者の圧力でそれはつぶされてしまい、今、この店は、背の高い近代的な建物の一階にあります。戦時中になんとか戦火を免れたこのあたりの古い木造建築はみな、戦争のような劇的なやり方ではありませんが、同じくらい強引なやり方でつぶされてしまいました。その結果、よく似た鉄やコンクリートの建物が両側にひしめきあっています。しかし、いったんこの店の中に入ると、そんな思いはふきとんでしまいます。棚という棚に、いろいろな色の絵の具の瓶が並び... 床から天井まで、私が届くよりもずっと高く、積み上げられているのです。緑色の絵の具が御入用ですか? いくつかの棚には緑色の入った瓶が92個並んでいます。そのひとつひとつが隣りのものとは違っているのです。黄色はどうでしょうか? 50種類以上あります。白はどうですか? 白色を選ぶなんていうことができるのでしょうか? しかし、ここには40以上もの違った色合いの白色が選ばれるのを待っているのです! そしてこれは、ある一種類のタイプの絵の具の話です。別のタイプの絵の具にも同様の選択が可能なのです。ここ松吉さんの棚と倉庫には、世界のあらゆる所の原料から作られた何百、何千という様々な絵の具がいろいろな芸術家たちに使ってもらうのを待っているのです。
ここにこの店ができてから約60年になります。初めは、京都の店の分家として松吉さんのお父さんが作られました。この仕事をするのにこの地を選ばれたのは、画家や出版社の近くがいいと考えられたからだろうと思ったのですが、そうではないようです。ここを選ばれた理由は、衣服を作る仕事場に近い、ということでした。衣服を作る仕事はいろいろな染料や顔料を必要とします。かつてここはそういう仕事場がたくさんあったところなのです。しかし、時は流れ、松吉さんの顧客はもはや限られた職業の人たちだけではなくなりました。今や、織物の染色をする人たちだけでなく、私のような木版画家や、看板屋さん、そしてもちろん、92個の緑色たちが待っている日本画家も彼のお客さんになっています。彼のお客さんは日本中にいます。その上、海外へ品物を送ることもあります。松吉さんは、「英語がうまくならないとそっちのほうまで手を広げられないけれど...」とおっしゃっていますが。
戦時中は、松吉さんはまだ小さかったので、田舎へ疎開しておられました。でも、松吉さんは、約15年前、お店の倉庫が火事にあった時のことをはっきりと覚えておられます。建物の中から消防士たちが出てきた時、絵の具のせいで色とりどりの制服になっていたさまをありありと覚えておられるそうです。今になって思うと、いろいろな色の絵の具の山に水をかける様子は、滑稽に思えてきます。でもその時は、有毒な物質が燃えて出る煙の雲は決して滑稽なものなどではありませんでした...
この店の製品のほとんどは「すぐに使える」状熊で売られています。しかし、収納庫の上に並べられたいくつかの瓶を見ると、ここの仕事がどんなふうに変わってきたのかを知ることができます。これらの瓶の中には様々な伝統的な色を作るための原料がそのままの形で入れられています。花びらや花の種、松笠など。ラベルには「ベニバナ」「ヤマモモ」「ヤシヤダマ」「ウコン」などと書かれていますが、これらはみな今日ではあまり聞かれなくなった言葉です。瓶の上のほこりを見ても、そのことがわかります。でも、ここが生気のない古い店だ、というのではありません。私が松吉さんと話していた数時間の間中、電話とファックスはひっきりなしにかかってきていました。彼の助手たちが、発送のためにたくさんの大きな箱を包装し、荷造りしていました。活気にあふれた音があちこちから聞こえてきました。
私はこの店のあまりいいお客ではありません。私はそれほど多くの版画を作りませんし、私の買うのは、高価でない絵の具の小さな包みのいくつかで、それで十分何年ももつのです。でも、ここのお客さんのほとんどが私よりも生産的で、松吉さんの仕事がずっと先まで続いてくれるといいなあと思います。私は本当にそう思います。何故ならこの仕事は、職人とそれを支える人たちとの鎖の大切なひとつの輪だからです。この人たちがおられなかったら、私は自分の仕事を続けることができません。でも、もちろん、これらの輪のどれもが、みんなきわめて重要なものなので、何が一番重要かなどと言うことはできません。これらのうちのどれかひとつでもこわれてしまったら、私の版画製作の全過程は停止してしまいます。松吉さん、まわりの店がみんな、このあたりを買占めている大きなスポーツ店に身売りしていく中で、この仕事を続けてくださってありがとうございます。私は本屋さんに首をつっこんでいないで、もっと頻繁にここを訪ねて来ることを約束します!
7:00 - 朝ご飯 ... 洗濯 | |
9:00 - プールで1000メートル ... | |
10:00 - 彫りと音楽... | |
3:00 - お帰り! | |
5:30 - 宿題、家庭仕事、夕飯、お風呂 ... | |
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今号は、前回同様に12ページになりました。いつもは 8ページ構成です。これが意味するのは、つまり私には、話が冗漫にならないように肩越しに私の文章を見ながら厳しくチェックしてくれる編集者が必要だ、ということです。残念ながら私はすべてを一人で処理しています。しかし今後はページを増やすのを慎もうと思います。必要以上に木を切り倒すのは無駄ですものね。