デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

私の両親が育ち、私が生まれた所というのは、おもしろいことに、日本からイギリスに旅行に行く人たちの主要な観光地のひとつになっています。旅行者たちは、19世紀の作家、ブロンテ姉妹の著書「ジェーン・エア」や「嵐が丘」によって有名になったこの地の文化や風景を見るために、ここを訪れます。彼らがこれらの本に描かれた文化や社会を見つけることは、今はほとんどできないんじゃないだろうか、とは思いますが、もちろん風景は今も残っています。もっとも今は、当時のような近づきがたいような感じはうすれているように思われます。

ここはヨークシャー平原です。風の吹きすさぶ不毛の丘と切り立った岩の谷が何マイルも何マイルも続いており、多くの人がいだいている「おだやかで緑豊かなイギリス」というイメージからは、およそかけはなれたところです。でも、そこはハイキングを楽しむのにはいい所です。気候は温暖で、広大な景色と空の広がる、本当に素晴らしい場所です。しかし、ほんの一昔前には、そこは今とは全く違ったおもむきを呈していました。というのは、ここは産業革命の中心地、良くも悪くも世界に大きな変革をもたらした、あの工業化の過程が誕生した所だからです。

巨大で暗い工場、炭坑、蒸気機関車の線路、そして運河があちこちにあり、どの建物もみんな石炭の煙で真黒になっていた... 私たちがそこ「ハリファックス市」にいだくのはそうしたイメージです。私の両親が育ったのは、まさにそんな風景のなかででした。私が、彼らの生まれ育った場所を、陰鬱な暗い言葉で書いたなら、彼らは怒るでしょう。彼らにとって、そこはまったく普通の場所だったし、生活もそれほどひどいものとは感じていなかったのでしょう。でも、私は彼らの当時の環境を考えると、身震いせずにはいられません...

れんが造りの長屋のちっぽけな暗い家。一階と二階に部屋がひとつずつ。私の狭い東京のアパートよりもずっと小さな家。暖炉の他には暖房設備などももちろんなく、その暖炉の前にブリキの桶を置いて、風呂にはいりました。トイレ? 長屋の端に共同のものがありました。そして、どこもかしこも、家や工場が石炭を使って火を焚くので、煙とスモッグと塵に覆われていました。

私の両親はふたりとも、学校を14歳くらいで終えると、すぐ動き始めました。その時代のほとんどの人がそうだったように。彼らは服飾工場に動きに行きました。当時、そこでは、戦闘服を作っていました。労働時間は長くきびしく、彼らは受け取ったわずかな給料を家計費の足しに、と彼らの両親に渡していました。彼らは積極的に戦争に参加するにはまだ少し若すぎました。もっとも、父は、10代の後半には召集を受けましたが、ちょうどその頃、ヨーロッパでの戦闘は終わりました。結局彼らはそこで約 3年を過ごしました。

平和で穏やかな一日の仕事を終えて、このここちよい家で夕べのひとときを過ごしながら、こうしたことを考えていると、彼らの少年少女時代というのは私にはまったく非現実的なものに思えます。私の生活もこれと非常によく似たものになったかもしれない、と考えることも非現実的な感じがします。しかし、ふたつのことが起こって、私の生活は両親と同じようにはなりませんでした。戦争が社会に変化をもたらし、そしてもっと重要なことには、両親が「今よりももっといい暮らしがしたい」と思い始めたのです。自分たち自身のためにも彼らの子供のためにも。

次回に続く...

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