デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Spring : 1994

ドラムの響きもファンファーレもない、ひっそりと静かな「百人一首版画シリーズ」後半戦の開始です。今年は製作にとりかかるのが難しいかもしれない、と少し心配していました。というのも、 5年間という歳月がどのくらいの期間であるか、今ははっきりと理解しているからです。でもすでに、物事は順調に動き始めています。もはや日課となっている。彫ること、彫ること、そして彫ることです!

この号では、このあいだ開かれた展示会についての最新情報、毎号の内容のちょっとした訂正、それに、私の版画作品の見方に関してのアドバイスを取り上げます。そんなアドバイスなど必要ないと言われることは承知ですが、試してみて下さい。きっと新しい発見がありますよ。

5周年展示会の総括

カナダに住んでいて、日本に行くことを考えていた頃は、日本に関する本を片端から読んでいました。手当たり次第に読みました。新しい本、古いもの、あらゆる種類を読みました。私の中に広がった日本のイメージは古くさいものであり、少しも実用性がありませんでした(そういった本のことは忘れて、自分の目で見る、自分の耳で聞いたことを信じたほうがよかったのです)。でも、「いかにして日本で生き残るか」という内容の本で読んだ事実をはっきりと覚えています。著者は、日本で事業を始めるとしたら、安定するまでに最低 5年はかかるであろうと述べていました。これはビジネス関係の頃目に書かれていましたが、自分の考えていること、木版画の研究があてはまるとは思いませんでした。でも、1988年の秋に木版画に取り組む決心をしてから時が過ぎた現在、彼の意見は正しかったと気がつきました...安定するまでにおよそ 5年かかりました。

このことを書くのは、木版画製作という仕事がようやく確立できたと思えるからです。今年の 1月の展示会は大成功でした。マスコミの注目度は高く、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどあらゆるメディアで取り上げられて、 6日間に千人以上の来場者がありました。私の仕事のことを説明し、お客さんから話を聞くことはとても楽しかったです。趣味で版画を作っている人たちは作品を持参して見せてくれました。外国人が日本の伝統工芸に取り組んでいることが珍しくて、それで見物に来た人たちもいます。もちろん、ほとんどの方が百人一首のファンであり、春章の意欲的な作品群に出会って喜んでいらっしゃいました。しかし、こういう種類の展示会には二つの目的があります。「実演しながら解説する」という要素が一つです。それと、収集家として参加してくれる人々に、是非とも出会う必要がありました。20数人のお客さんが加わってくれることになりました。 1年間参加される方も、それ以上の方もいます。このことがお知らせできて嬉しいです。

申し分のない結果でした。多すぎもせず、少なすぎることもありません。収集家がこれくらいいれば、毎月の家賃の心配をしなくてもいいという点ではとても助かります。個々の収集家の方々と緊密なつながりを持つためにはこれで十分です。展示会の後、友人の一人が心配して言いました。「収集家がそんなに増えて、仕事が荒れることはありませんか?」 私は思わず答ってしまいました。仕事に関しては何も変わりません。彫りはまったく同じですし、以前と同様に毎月百枚ずつ摺っています。仕事場に保管しておく分が減り、発送する分が増えただけです(二人の女性がケース作り、包装、発送を手伝ってくれていますが、その仕事が少し増えたので喜んでくれたと思います)。毎月、手紙を読んだり書いたりする時間が増えるでしょうが、これは楽しみです。仕事ではありません。全体的に考えて、これ以上は望めないような展示会でした。

そういった訳で、 5年間という指摘は正しかったのですが、実のところはもっとかかっています。最初の木版画を作ったのは13年前、カナダで「サラリーマン」をしていた頃です。ひどいできでした。お話にならないくらいです。子供が作る程度のものでした。でもそれを目にした時は、もっと作りたくなりました。もっと上手になりたい。いろいろな展示会で見たような、そういう作品を作りたい、版画家になりたい、と思いました。今、ようやく、自分がなりたかったものになれたように思います...

ジョージ・バーナード・ショウが面白いことを言っています。人生にふりかかる二つの悲劇についての考察です。一つは、夢がかなわないという悲劇であり、もう一つは、それがかなう悲劇です。意味するところは、欲しいものを手に入れれば、人生の目標がなくなってしまう、ということですね。13年間の夢がかなって、版画家になりました。でも、まだまだ挑戦すべきことはたくさんあります。昔の職人や、今も活躍している現役の方々と比べると、私のゴールはまだ先です。ずっとずっと先です。

ショウ先生の見解には賛成します。でも私は心配してはいません。最初の悲劇についても二つ目の悲劇についてもです。その論理をまぬがれる方法を見つけたからです。夢を、実現可能な夢を増やせばいいのです。可能でありながらもつかみきれない夢を持ち続ければいいのです。

42歳という年齢で「人生の秘密」を発見するというのは可能でしょうか。本当に? こういった考えは、どこかで隠遁生活しているような老人のものだと思っていました。でも考えてみると、私自信がそう思っていたのです。何ということでしょう!

版画の見方

今朝、起きてからカーテンを開けました。一面の銀世界です。昨夜のうちに10センチほど降ったに違いありません。東京の片隅が再び、見知らぬ世界に変貌しました。車の騒音は遠のき、マンションのみすぼらしい裏庭は、美しい屋外彫刻美術館なりました。そして私の仕事場は、ギャラリーになっていました。

光のせいです。雪の日の明かりほど、木版画を見るのにふさわしい光はありません。本当に、私の考えでは、これ以上の条件はありません。版画はまさに、この光によって変貌(またこの言葉ですが)します。平面的な 2次元の「画像」が、生き生きと呼吸する創造物に変わるのです。大げさな、とお思いですか? だとしたら、まだ試されていないのですね。本棚か押し入れから、大事に保管してある場所からケースを取り出して(壁に吊したままではないといいのですが)障子のついた畳のある部屋の、背の低いテーブルに置いて下さい。部屋の明かりは消します! 版画を開いて、そしてお楽しみ下さい。和紙の、ふわっとした暖かな感触を見て下さい。柔らかな光のもとではよくわかります。線の一本一本が、バレンで摺った和紙からくっきりと浮き出ています。文字の部分のかすかな印影がわかります。様々な色が混じりあって一つに統合された色合い、木版画のすべてを味わって下さい。一人の人物によって描かれた絵としてではなく、製作に関わったすべての職人の共同作業として感じ取って下さい。和紙職人、バレン職人、刃物職人、顔料職人、そして彫り師、摺り師の共同作品を堪能して下さい。

一度この体験をすると、もう二度と、決して他の見方では満足できなくなります。ギャラリーの壁の明るい光はどうか、ですか? お聞きにならないで下さい。毎年このことでは心が痛みます。自分の版画、をザラザラした光の下にさげて後ろに下がり、その作品を眺めている人々、人工的な無慈悲な環境で眺めている人々を見るのは辛いことです。皆、たんに春章を見ているだけなのです。そこには私はいません。山口さんもいません。五所さんも白井さんも島野さんも...誰もいません。木版画そのものを見ることができないのです。

皆さんはこうお考えだと思います。「それは素晴らしい。でも現実的ではない。雪が降ったときでないと本当には版画が楽しめないのか?」では、二つ目の秘訣をお教えしましょう。大事なことは、雪そのものではありません。光は横向きからで、できれば拡散された状態にして下さい。雪が降る日を待つ必要はありません。畳の部屋と障子という組み合わせ自体がとても効果があります。垂直方向からの照明を消すことを忘れないで下さい。頭上からの光はだめです。江戸時代には、木版画は、頭上からの明かりにさらされることはありませんでした。障子を通った明かりか行燈の光だけでした。版画を額に入れて壁にかけることなどありません。いつもは引き出しにしまうか、特別な場所に保管してありました。木版画は「建築的な図解の要素」ではない。

という言葉を、美術関係の雑誌で読んだことがあります。もっと個人にそくした性質を持つものだと言います。手に取って眺めるものであり、壁紙ではないのです。額に入れて壁にかけると、壁紙になってしまいます。

ですから、どうか試してみて下さい。畳の部屋に座り(日本にお住まいですよね?)木版画に、あなたの版画に親しんで下さい。見逃していたものを発見して下さい。

新シリーズ

さて、「この企画の始まり」というコラムが先月で終わってしまったので、何かそれに代わるものを、とあれこれ考えてみました。このニュースレターでどんなことを読みたいと思うかについて、最近、何人かの方に御意見をお伺いしてみたのですが、これといって参考になるようなコメントは得られませんでした。

「何でもかまいませんよ。」
「何でもあなたの好きなことを書いてください...」
「そんなことは大した問題じゃありませんよ...」

私は、こうしたコメントに喜んでいいのか、がっかりするべきなのか、わかりません。この人たちは、「何ひとつおもしろくない」か「何でもおもしろい」とおっしゃっているように思えますが、そんなことは信じられません!

私は、このスペースを、しばらく、版画製作の詳しい技法を述べた「木版画の作り方」というコラムにしようかと考えました。でも、それはこく一部の人には大変役にたつ情報になりうるかもしれませんが、大部分の人にとっては、とりたてておもしろいものにはならないでしょう。(私はこれに関する話の種をたくさんもっていますので、いつか版画についての分厚い本を出版するつもりです...。) 私が聞いてみたところ、何人かの人が、次の様な、よく似た提案をしてくれました。昔に遡って、「この企画のそもそもの始まり」についての話を、というのです。私は、どうやって「百人一首」とめぐりあい、この版画シリーズを始めたかについてはお話ししました。でも、そもそも、日本でこんなものをあれこれいじくりまわしているカナダ人の男とはいったい何者なんでしょう?

この提案を聞いた時、私は思いました。「わかった、でも、いったいどのくらい昔にまで遡ったらいいんだろう...?」

それは暗い嵐の夜のことだった。ヨークシャーの荒野を吹き荒れる風が、生まれたばかりの男の子の泣き声をかき消していた...」

まさか! 誰も私の「生い立ちの記」を聞きたいわけではないでしょうし、私自身、それを書くつもりはありません。でも、この人たちの提案はいいところをついていました。私が、ヨークシャーの荒野からここ西東京のアパートに来ることになったいきさつを少しお話しすれば、それはなんらかのことを説明する手助けになるこもしれません。私がかの地で、両親と同じ道を歩んでいたなら、多分、服飾工場の低貸金労働者になっていたことでしょう、両親が長年そうであったように。私はその運命を免れました。でも、どうやって、どうして...? では、しばらくこのことを話してみようと思います。次の号から、私はおもしろいシリーズを組み立てて、この「どうやって、どうして」に答えてみようと思います。欧米の読者の方は「これは大して説明の要ることではない」と思われるでしょうが、多くの日本人にとっては、私がここにいて、今の生活をしていることは、興味のつきないものがあるようなのです。ともかく、イギリスから日本へ来るもととなった様々な出来事を確かめてみる、というのは私にはおもしろいことです。次の号をお楽しみに、わくわくするようなシリーズが始まりますよ...

追伸:さて、考えなくちゃ。僕が生まれたのは暗い嵐の夜だったの? ねぇ、おかあさん、ちょっと...

この前の号で、私は、これまで関わってくださったすべての収集家の方々のお名前を掲げて、みなさんの御支援に対し、感謝の気持ちを述べようとしました。でも、少し、手落ちがありました...

私は、東京都武蔵村山市の佐野好子さんのお名前は掲げたのですが、その御近所に住んでおられるお友達の小山陽子さんのことを書くのを忘れてしまいました。佐野さんとは定期的にお会いしているので、佐野さんは小山さんとふたりでひとりぶんの申し込みをされているのだ、ということを忘れていました。でも、小山さんは、お名前を書き忘れたことに不平を言うどころか、展示会のオープニングパーティで、ずっと部屋の隅で、そっと、みなさんのコートの脱ぎ着を手伝ってくださったのです! どうお詫びすればいいのでしょう...本当にすみません、小山さん。これからはもっと気をつけるようにします...

ふたつ目の手落ちは、直すのがもっとむずかしいものです。これはおよそ半分の収集家の方に関係があることです! 私がこのことに気づいたのは、そのパーティで、あるフランス人のカップル...ステファン・ナレタンビさんとエレンネ・マタさん...とお話しした時です。収集家の方々のお名前を列挙した時、私はステファンさんの名前だけを書いて、軽率にもエレンネさんのお名前を省略してしまいました。エレンネさんは不平はおっしゃいませんでしたが、快く思っておられなかったのではないかと思います...もちろん、私はお名前を掲げた他のみなさんのことも考えなくてはなりません...名前の書いていない御主人や奥様、パートナーの方のことはどうしたらいいでしょうか? 私はこのことをどう扱ったらいいのかわからないのだ、ということを認めなくてはなりません。英語では“Mr. and Mrs. X"のように書くのがいい場合もありますが、それではうまくいかない場合もあります。日本語で「鈴木さん」と言えば、御主人も奥様も含まれることになると思いますが、それではあまりに一般的すぎます。「鈴木Aさんと鈴木Bさん」という書き方は冗長な感じがします...

私の「ありがとう」は、私の仕事に関わってくださっているすべての人に対して言っているのだ、ということをわかっていただければ、と思います。私はたまたま私との関わりが深い方のお名前を用いたにすぎません。エレンネさん、お名前を書かなくてすみませんでした。(もし、ステファンさんのお名前がそんなに長くなければ、あなたのお名前を書くスペースがあったかもしれないんですけど!)

私の今年の新年の決心は、このささやかなニュースレターで、初心にもどって、もう少し職人さんのことを扱おう、ということです。職人さんについてはまだまだ書くべきことがたくさんあります。今回は書き損なってしまったようですが、でも、決心は変わっていません。近いうちに、ノートとカメラを持って訪ねようと思います...多分、彫り師の伊藤さんを...あるいは絵の具店の松吉さんを...もしかしたら若い見習いの職人さんを...あるいは...でも、おしゃべりはここまでです、仕事をしなくちゃ!

私がここでワープロに向かっている時間は、版画製作をしていない時間です。そして、もし私が版画を作らないなら、こんな話をする理由もなくなってしまいます。だから、このショーの休憩時間はおしまいです...第二幕です。後半のシリーズも前半と同じくらいおもしろいでしょうか、みなさんにとって何か得るものがあるでしょうか、作品自体についても、私を支えてくださっているみなさんたちとのコミュニケーションにおいても。そのことだけ、お訊きしたいと思います。

ありがとうございます。ではまた...