デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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新シリーズ

さて、「この企画の始まり」というコラムが先月で終わってしまったので、何かそれに代わるものを、とあれこれ考えてみました。このニュースレターでどんなことを読みたいと思うかについて、最近、何人かの方に御意見をお伺いしてみたのですが、これといって参考になるようなコメントは得られませんでした。

「何でもかまいませんよ。」
「何でもあなたの好きなことを書いてください...」
「そんなことは大した問題じゃありませんよ...」

私は、こうしたコメントに喜んでいいのか、がっかりするべきなのか、わかりません。この人たちは、「何ひとつおもしろくない」か「何でもおもしろい」とおっしゃっているように思えますが、そんなことは信じられません!

私は、このスペースを、しばらく、版画製作の詳しい技法を述べた「木版画の作り方」というコラムにしようかと考えました。でも、それはこく一部の人には大変役にたつ情報になりうるかもしれませんが、大部分の人にとっては、とりたてておもしろいものにはならないでしょう。(私はこれに関する話の種をたくさんもっていますので、いつか版画についての分厚い本を出版するつもりです...。) 私が聞いてみたところ、何人かの人が、次の様な、よく似た提案をしてくれました。昔に遡って、「この企画のそもそもの始まり」についての話を、というのです。私は、どうやって「百人一首」とめぐりあい、この版画シリーズを始めたかについてはお話ししました。でも、そもそも、日本でこんなものをあれこれいじくりまわしているカナダ人の男とはいったい何者なんでしょう?

この提案を聞いた時、私は思いました。「わかった、でも、いったいどのくらい昔にまで遡ったらいいんだろう...?」

それは暗い嵐の夜のことだった。ヨークシャーの荒野を吹き荒れる風が、生まれたばかりの男の子の泣き声をかき消していた...」

まさか! 誰も私の「生い立ちの記」を聞きたいわけではないでしょうし、私自身、それを書くつもりはありません。でも、この人たちの提案はいいところをついていました。私が、ヨークシャーの荒野からここ西東京のアパートに来ることになったいきさつを少しお話しすれば、それはなんらかのことを説明する手助けになるこもしれません。私がかの地で、両親と同じ道を歩んでいたなら、多分、服飾工場の低貸金労働者になっていたことでしょう、両親が長年そうであったように。私はその運命を免れました。でも、どうやって、どうして...? では、しばらくこのことを話してみようと思います。次の号から、私はおもしろいシリーズを組み立てて、この「どうやって、どうして」に答えてみようと思います。欧米の読者の方は「これは大して説明の要ることではない」と思われるでしょうが、多くの日本人にとっては、私がここにいて、今の生活をしていることは、興味のつきないものがあるようなのです。ともかく、イギリスから日本へ来るもととなった様々な出来事を確かめてみる、というのは私にはおもしろいことです。次の号をお楽しみに、わくわくするようなシリーズが始まりますよ...

追伸:さて、考えなくちゃ。僕が生まれたのは暗い嵐の夜だったの? ねぇ、おかあさん、ちょっと...

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