デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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版画の見方

今朝、起きてからカーテンを開けました。一面の銀世界です。昨夜のうちに10センチほど降ったに違いありません。東京の片隅が再び、見知らぬ世界に変貌しました。車の騒音は遠のき、マンションのみすぼらしい裏庭は、美しい屋外彫刻美術館なりました。そして私の仕事場は、ギャラリーになっていました。

光のせいです。雪の日の明かりほど、木版画を見るのにふさわしい光はありません。本当に、私の考えでは、これ以上の条件はありません。版画はまさに、この光によって変貌(またこの言葉ですが)します。平面的な 2次元の「画像」が、生き生きと呼吸する創造物に変わるのです。大げさな、とお思いですか? だとしたら、まだ試されていないのですね。本棚か押し入れから、大事に保管してある場所からケースを取り出して(壁に吊したままではないといいのですが)障子のついた畳のある部屋の、背の低いテーブルに置いて下さい。部屋の明かりは消します! 版画を開いて、そしてお楽しみ下さい。和紙の、ふわっとした暖かな感触を見て下さい。柔らかな光のもとではよくわかります。線の一本一本が、バレンで摺った和紙からくっきりと浮き出ています。文字の部分のかすかな印影がわかります。様々な色が混じりあって一つに統合された色合い、木版画のすべてを味わって下さい。一人の人物によって描かれた絵としてではなく、製作に関わったすべての職人の共同作業として感じ取って下さい。和紙職人、バレン職人、刃物職人、顔料職人、そして彫り師、摺り師の共同作品を堪能して下さい。

一度この体験をすると、もう二度と、決して他の見方では満足できなくなります。ギャラリーの壁の明るい光はどうか、ですか? お聞きにならないで下さい。毎年このことでは心が痛みます。自分の版画、をザラザラした光の下にさげて後ろに下がり、その作品を眺めている人々、人工的な無慈悲な環境で眺めている人々を見るのは辛いことです。皆、たんに春章を見ているだけなのです。そこには私はいません。山口さんもいません。五所さんも白井さんも島野さんも...誰もいません。木版画そのものを見ることができないのです。

皆さんはこうお考えだと思います。「それは素晴らしい。でも現実的ではない。雪が降ったときでないと本当には版画が楽しめないのか?」では、二つ目の秘訣をお教えしましょう。大事なことは、雪そのものではありません。光は横向きからで、できれば拡散された状態にして下さい。雪が降る日を待つ必要はありません。畳の部屋と障子という組み合わせ自体がとても効果があります。垂直方向からの照明を消すことを忘れないで下さい。頭上からの光はだめです。江戸時代には、木版画は、頭上からの明かりにさらされることはありませんでした。障子を通った明かりか行燈の光だけでした。版画を額に入れて壁にかけることなどありません。いつもは引き出しにしまうか、特別な場所に保管してありました。木版画は「建築的な図解の要素」ではない。

という言葉を、美術関係の雑誌で読んだことがあります。もっと個人にそくした性質を持つものだと言います。手に取って眺めるものであり、壁紙ではないのです。額に入れて壁にかけると、壁紙になってしまいます。

ですから、どうか試してみて下さい。畳の部屋に座り(日本にお住まいですよね?)木版画に、あなたの版画に親しんで下さい。見逃していたものを発見して下さい。

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