デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1994

先日、一番新しい版画を摺り終えて、自分のケースにしまった時、この作品が今年の 7番目のものであることに気づきました。もう 7枚目? でも展示会があったのはついこの間ではなかったかしら? いつの間に時間がたったのだろう?

こういったセリフはしばしば耳にするのですが、私自身が実際に使ったことはありませんでした。何故なら、私の仕事は、毎月毎月、厳格に一定のペースですすんでおり、「時が速くすぎる」とか「ゆっくりすぎていく」などという感じをもったことはありませんでした。日々は着実に流れていきます...チク、タク、チク、タク...でも今年は何か違っているようです。もう秋だなんて!

あと数カ月しか残っていません! 展示会の準備をしなくちゃ、広報活動も、それに年賀状、東京での版画教室(これについてはまた今度お話しします)、「百人一緒」の冬号の編集、地域の「文化の日」にやる版画製作体験教室...それから...何か忘れてるような気がするな...そうそう、版画を作らなくちゃ!

ハリファックスから羽村へ

(前回からの続き)

このささやかなシリーズは「ハリファックスから羽村へ」というタイトルですが、これは一ヵ所から別の場所へ直接移動したということではありません。この話の準備の為に、私たちはいままでに一体何ヵ所くらいの「家庭」を持ったか、数えてみようとしました。でも、ざっと20まで数えたところであきらめました。しかし、こうした引っ越しの中でも一番最初がもっとも重要だったように思います。それは私の両親が生まれ故郷を離れた時でした。結婚後、二人は家族や友人、それに住み慣れた土地を離れて独立し、ハリファックスから大都会ロンドンに引っ越しました。

父は子供の時から音楽にかかわっていました。最初はラッパを、後年はサキソフォンを演奏していました。テレビが家庭に娯楽をもたらすようになる前のことです。「ビッグバンド」全盛期で、イギリスのどの町にもダンスホールがありました。今の若者が、有名なロックバンドでギター演奏することを夢見るのと同じように、当時の世代はトランペットやサキソフォンに夢をたくしていました。父は、地元の工場で人生を過ごすよりも、音楽の世界で仕事をするほうが望ましいと考え、実行することにしました。

父は極めて短期間に成功しました。当時もっとも名の知れていたバンドリーダーの一人、オスカー・レイビンのもとでバリトン・サックス(と歌)の地位をつかみました。今では、その時代にもっとも知られていたほんの数人の名前しか覚えている人はいません。グレン・ミラー、トミー・ドーシーなどです。しかし当時はもっと多くのバンドが名をはせていました。父が所属していたのもそんなバンドの一つでした。ベストセラーになったレコードも作り、様々なラジオ番組にも出演しました。しかしバンドの一番の収入源はダンスの伴奏です。巡業で何度も国中を回り、あふれかえる群集の前で夜ごと演奏しました。

この結果、父は家には不在がちになり、母は、自分で勝手にやっていくしかなかったと思います。バンドが巡業でロンドンに近くに来たときか、長期間町に滞在する時しか父に会えませんでした。「有名」なミュージシャンと結婚するということは寂しいことに違いありません。私が生まれる予定の時、大都会の見知らぬ病院で一人寂しく出産するよりはと、母は一時的にハリファックスに戻りました。ですから私はハリファックスで出生登録されたのです。(数年後弟が生まれましたが、その時は母はロンドンで出産しました。) これは一般的な日本人のパターンと似ていることに気づいて、なんだか奇妙な気がします。

もちろん私はこの時代の事はほとんど覚えていませんが、一つだけ分かることがあります。私が生まれた瞬間から、やがて弟がやってきて(妹はかなり遅れてきました)一緒に行動するようになるまで、私は家族の活動の中心だったということです。母は日課のように、私と遊び、本を読んでくれ、公園に、博物館にと連れていってくれました。これは断言できますが、母は仕事で外出するときも、私を保育園に預けるといったことは考えもしませんでした。このことも、最初の息子を持った日本人の母親の行動と似いています。でも一つ、とても大きな違いがあります。日本の母親が自分の役割として考慮するのは、子供の面倒を見て、可能なかぎり保護し、子供のために出来るかぎりの事をすることですが、イギリスの母親は(少なくとも当時は)違いました。もちろん子供の面倒はみますが、それはなるべく子供が、自分でいろいろなことが出来るようにするためです。自立するための手伝いを、とても早い時期から援助するのです。

たとえば 4才で、私は学校(私立の小学校のようなものです)に行くことになりました。毎朝一人で、ロンドンの地下鉄に乗って通いました。母が心配していたことは確かです。しかし同時に母は、いつも大人が回りにいて道を示してくれることなしに、私が一人で何かをすることの重要性も理解していました。(何と冷酷な母親だろうと思われるかもしれませんが、ご安心下さい。母が話してくれたのですが、私が初めて一人で出かけた時、迷子にならないようにと、少し距離をおいて私の後をつけてきたそうです)

 母は学校からの「通知表」を保管していました。これには私がどんな勉強をしたかが書かれていてとても面白いです。もちろん「3R's」(読み書きソロバン)という科目も含まれますが、中には発声法やボクシングもあるのです! こういう科目から学んだことが今も私の中に残っているとは思いませんが。 6才になるまではこれが私の生活パターンでした。

6才の時に両親は、住み慣れた土地を離れて再び引っ越す決心をしました。今度は別の町に多るのではなく、海を越えて新しい国に移るのです。移住してカナダ人になるのです...

次回に続く...

跡見学園短期大学図書館

私の版画作品を収集していらっしゃる方を訪ねる時、作品がどのように保管されているのかにとても興味があります。ケースに保管したまま、本棚の下の棚に整然としまっている方もいるでしょうし、押し入れにしまいこんでいる方もいるでしょう。しかし、大勢の方が、版画コレクションを「バラバラに」して友人にプレゼントしたり、家族で分けていらっしゃるのにはとても驚きました。もちろん、ご自分のものをどうされようとも私が口をはさむことではありません。でも、私の「子供たち」が「家族」と離れるのはちょっと寂しい気持ちがします。

昨年の事ですが、ここ東京の跡見学園短期大学図書館が、有名な百人一首関係のコレクションに私の作品を追加したいと思っている、ということを聞いたときはこの上もなく嬉しく思いました。版画シリーズをバラバラにしない収集家の登場です。

高橋美枝子さん、中井敏江さんとおっしゃるご婦人に初めてお会いしたのは、昨年の新宿での展示会でした。それ以来ずっとお二人はコレクションを始められ、私との手紙の交換もされています。お二人が慎重に管理されているとても印象的な百人一首関連のコレクションは1700点を越えています。その中で、書籍が占める割合が多いのですが、すべてではありません。お仕事について知りたくて、この間お訪ねしたときのことですが、お二人は広範囲に渡るとても興味深い収集品を、いとおしむように見せてくれました。人形、巻物、それにもちろんカルタがありますし、便箋からハンカチやセンベイの包みなど、百人一首をモチーフにしたものばかりです。中でも一番面白かったのは一対の茶碗です。どちらも茶碗の内側に非常に細い筆で、百人一首のすべての歌が書かれていました。

コレクションには、歴史的にも重要なものがたくさんあります。現存する百人一首に関する資料としては、 2番目に古いことが確認されている本も含まれます。学者は研究のために資料を利用していますし、新たに発見された草稿により、藤原定家が百人一首のもともとの編纂者だったのか、という長期間に渡って論議されていた問題が解明された、といった話をお二人に伺うのは大変に興味深いことでした。

私の版画セットが 1ヵ月ごとにコレクションに追加されている、ということを考えるのはとても嬉しいことです。今から何百年後に、学者や研究者が私の作品をここで詳細に調べることが出来る、と考えるとほのぼのとした気持ちになります(私の版画は東洋文庫にも送られています。私はそこで初めて春章の本を見たのです。このことはいずれ書きます...)。高橋さん、中井さん、私の仕事に興味を持ってくださりありがとうございます。お二人は、仕事を離れて個人として、一般には知りえないような公共機関のコレクション情報を教えて下さいました。今後ともずっとお付き合いをしていただれば幸いです。

(コレクションは通常展示はされていませんので、「ぶらっと立ち寄って」も見られません。しかし特別な用途があればこの限りではありません。その場合は予約を入れて下さい。)

跡見学園短期大学図書館
〒112 東京都 文京区
大塚 1ー5ー2
03(3943ー1368)

扇動的な美

1600年代初頭、徳川漠府の創始者家康は、ついに将軍になるという夢を果たし、そして直ちに、国中の人々の行動を支配するための実に複雑な規則を作り始めました。彼が目指しているものははっきりしていました。社会的な移動性を制限し、現状を維持し、そうすることで彼及び彼の子孫たちが国家の支配者としての地位をできるだけ長く保つことができるようにしたかったのです。これよりかなり以前に日本社会には階層が形成されてきており、人々の地位ははっきりしてきていました。天皇を名目上の頭首とし、以下、貴族、武士、農民、職人、商人などが続き、再下層には賎民がいる、といった具合です。しかし、今やこれが成文化され、固定されてしまいました。生活のほとんどすべてにわたって規定がありました。それぞれの階級にはどんな布地や模様の服が許されたいるか、どんな家を建てられるか、どこまで旅行してもいいか、他の階級の人々とどの程度つきあってもよいか、そしてもちろん、日常生活の行動にいたるまで規定されていました。家康が権力を維持するために定めた規定は、実に効果的なものでした。 2世紀半以上にもわたって(1603〜1868)、彼の家系が国を治めることになったのですから。これは、とりわけ、当時戦争が繰り返されて国土が荒廃していたヨーロッパと比較してみると、実に長い期間だったと言えます。

しかし、規則は規則にすぎません。実態はこれとは違ったものでした。最初の 100年かそこらは、この計画は大変うまくいっていました(少なくとも徳川家の見地からは)。しかし、実際問題として、完全に「時計を止めておく」ことは不可能です。この制度には次第にひずみがでてきました。最も大きな問題のひとつはお金に関するものでした。武士階級は、伝統的に彼らの俸禄を、実際に流通している通貨ではなく、米でもらっていました。彼らは受け取った米で家族や家臣たちを養い、そして、彼らがもっぱら伝統的な生活様式を維持している限りはこれで十分でした。しかし、都市−とりわけ江戸の町では、次第に新しい生活様式が生まれつつありました。それは裕福になった新興の商人階級が生み出したもので、そこでは、貨幣のはたす役割が少しずつ重要性をもつようになってきていました。商人階級の人々は、身分は低く、社会的階層制度の下位に位置していましたが、ものを作ったり売買したりすることで現金を手にし、だんだん富裕になりつつありました。

手にするお金が増え、余暇が増えると、新しい社会活動が生まれることは避けられません。社会の大部分を変容させ、封建制度の劇的な崩壊に大いに貢献したふたつの動きが、この時期に大きくなっていきました。歌舞伎と吉原です。そして「浮世絵」は、このどちらにおいても、重要な役割を演じました−そしてそれは決して「たまたま演じた」というわけではないのです。

歌舞伎が起こったのは、徳川時代よりもずっと前のことですが、徳川時代に生まれたこうした環境が整って初めて花開いたのです。これは大変な人気を呼び、町民や商人だけでなく、支配者側の困ったことには、侍階級の者のなかにも、これに夢中になるものがいました。木版画は演劇の世界で重要な役割を演じました。単に俳優や作品の「広告」としてだけでなく、観劇体験には必須のもののひとつでした。また、テレビや新聞のなかった時代に、木版画は、実際に劇を見に行った人だけでなく、より広範な人々に観劇体験を広めるのにも欠くことができないものでした。権力者の側からすると、問題は、劇の扱う主題がいつも公の秩序とは相容れないものであることでした。そのため、劇場関係者と彼らの行動を規制しようとする人々との間には、いつももめごとがありました。木版画とて例外ではありません。すべてのデザインは、実際に作られる前に検閲官の同意を得なければなりませんでした。こうした圧力にもかかわらず、版画は社会的変革に寄与し続けました。歌麿ほどの有名な版画家でさえ、将軍に批判的だと考えられる版画を作ったとして、監獄に入れられていたことがあるのです。

にぎやかな劇場と比べるとずっと「私的な」レベルの話になりますが−というのは、その行為のほとんどは人目につかないところで行なわれるものですから−、おそらく吉原は、より生き生きとした社会変革を作り出している場所であったといえるでしょう。そこでは単なる性的なサービス以上のものが提供されていました。そこは町人たちが会合したり、余暇を過ごしたり、様々なことを話し合ったり、そしてもちろん、ロマンティックな出会いを楽しむ場所でもありました。当時のヨーロッパの同様の施設では、そこが人目につかない場所であるのをいいことに革命をもくろんでいる人々がいたようですが、江戸の町民は彼らとは違って、幕府を倒すことには関心がなかったようです。しかし、快楽を追求する彼らの行為は−それは、詩を読むことや、最近でた小説の話や、最近手に入れた新しい着物を見せびらかすことなども含んでいましたが−、結局、「すべての者に自分の分をわきまえさせる」という、体制の目ざすところを少しずつ緩るがしはじめていたのです。そして...武士階級の者たちもそうした行為に魅せられるようになりました。

こういった場所での最大のお目当では、なんといったも女性たちでした。そして、彼女たちの間には客を獲得するためのすさまじい競争がありました。着物や髪型やその他の装飾品のこととなると、お金を出し惜しみするようなことはありませんでした。ここの女性たちの評判は遠くにまで広がって、彼女たちのなかでもトップクラスの者の社会地位は、マリリン・モンローのようなものだと言えばわかりやすいでしょうか。普通の男にはとても手の届かない、まさに夢の女性です。最も裕福で恵まれた者だけが、茶屋で彼女たちの接待を受けることができました。そしてこれこそが、権力者にとっては問題の核心だったのです。人の社会的地位が、その人の生得権や身分ではなく、人が買うことのできる花魁の名声度によって測られるようになると、封建社会の終焉はもう真近でした。

もちろん、一般の庶民には、これらの有名な花魁を一目見ることもできませんでした。彼らはその姿を描いた版画を見て満足していました。それらは何千枚も印刷され、江戸の民衆が我先にと買い求めました。これらの絵が社会に与えた影響は莫大なものでした。ちょうど、我々の時代にはモンローの肖像が数十年にもわたってそうであったように。もう一度思い出してください、当時は新聞も雑誌も映画も写真もなかったのです...我々の知っている様々なメディアのもつ力はすべてたったひとつのものに凝縮されていたのです−木版画に。

これらの女性や茶屋という環境は、こうして江戸時代後期の思想を形作る大きな推進力となりました。募府と町民との争いは何年にもわたって行きつ戻りつしました。募府は体制の権力を維持しようと様々な規制を設け続けました。着物にはどんな色が許されるか、どんな髪型ならいいか、どんな劇なら公演できるか、どんな本なら読んでもよいか...しかし、町民たちはいつもそれとは違った生活を追い求め、その気持ちを表現する新しい方法を見つけました。そして彼らは浮世絵にその指針を求めたのです。彼らは自分が探しているものが何であるのかを説明することはできませんでしたが、自分たちにとって、現状はすすんで受け入れる気になれないものだ、ということはわかっていました。1800年代の半ば、ついに外の世界が日本の扉を叩いた時、御膳立ては既に整っていたのです。封建社会は、外見は強くしっかりしたものに見えていましたが、実体は空虚なものでした。それは混沌のうちに崩壊し、代わって新しい社会が誕生しました。

浮世絵版画がこの長い変革の過程で果たした役割については、どんなに強調してもし過ぎる、ということはありません。版画は社会のどこにでもありました。茶屋で詩を詠む会をしていた者たちは、自分たちの最良の作品を印刷して流布させたことでしょう、おそらくは、そういう仕事を得意としていた鈴木春信あたりの挿絵を添えて。町民の妻たちは、本屋で最新の版画を買いたがりました。最新の流行や髪型を知りたかったのです。版画には、相撲の力士や、歴史的な英雄、昔話の登場人物など、あらゆる人々が描かれていました。当時の文化で、版画に描かれなかったものを見つけるのは因難です。私たちの町の本屋にある数多くの雑誌が私たちの社会を反映しているのと同様に、版画は当時の社会を反映していました。そして私たちが、雑誌「フォーカス」を高級な芸術とは決して考えないように、当時の人々はそれらの版画を特別なものだとは考えていませんでした。それらを作った人々は「職人」にすぎず、私たちが今日、世界的に偉大な芸術家だと考えている、その原画を描いた人々でさえ、書家や古代中国の様式で絵を描く人たちと比べれば、ずっとずっと低い社会的地位しか与えられていませんでした。浮世絵版画は「芸術」ではなく、「商品」でした。もったいぶった作品などではなく、当時の文化を、気取らず正直に表現したものでした。当時の文化によって作られたものであり、また同時に文化を作るものでもありました。政治的なパンフレットが革命的なものであったのと同じくらい、浮世絵版画は社会を変える生き生きとした力でありました。

もしこれらがなかったら、日本の歴史はずっと違った道をたどっていたことでしょう。どんな美しい花魁の版画でも、それ一枚では封建社会を倒すことなどできなかったでしょうが、浮世絵は確かに封建社会を倒す上で重要な役割をはたしたのです。それは芸術に対しての、考え得る最高の栄誉だといえるでしょう。これらの版画が、私たちの世紀になってようやく、当時には得られなかった敬意と理解を得ることができるようになったというのは、実に喜ばしいことです。これらの版画が永遠に、世界を変革する芸術の力のシンボルであり続けますように。

今年の春から、私は時々「毎日ウィークリー」にちょっとしたエッセーを書き送っており、そのうちのいくつかが一面に載りました。だいたい毎月一回くらいの割合です。私はこれをとても楽しんでいます。ついに版画以外のことを書くチャンスが来た! (これはとてもよくできた興味深い新聞です。もし少しでも英語に興味がおありでしたら、読んでみることをおすすめします。) なんと! 私の「百人一緒」で“広告”を見ることになろうとは考えても見ませんでした!

今回は職人さんの話がなく、その代わりに歴史の講義をしてしまいましたが、みなさんががっかりされていなければいいなあと思います。こうしたことが私にはとてもおもしろいのです。残念ながら私は、長く複雑な日本の版画史の一面しかお話しすることができませんでした。おもしろい話はもっといっぱいあるのです。でも私は作業台から離れすぎないように気をつけなくてはいけませんね...ワープロを片付ける時間です。仕事にもどらなくちゃ!