デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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扇動的な美

1600年代初頭、徳川漠府の創始者家康は、ついに将軍になるという夢を果たし、そして直ちに、国中の人々の行動を支配するための実に複雑な規則を作り始めました。彼が目指しているものははっきりしていました。社会的な移動性を制限し、現状を維持し、そうすることで彼及び彼の子孫たちが国家の支配者としての地位をできるだけ長く保つことができるようにしたかったのです。これよりかなり以前に日本社会には階層が形成されてきており、人々の地位ははっきりしてきていました。天皇を名目上の頭首とし、以下、貴族、武士、農民、職人、商人などが続き、再下層には賎民がいる、といった具合です。しかし、今やこれが成文化され、固定されてしまいました。生活のほとんどすべてにわたって規定がありました。それぞれの階級にはどんな布地や模様の服が許されたいるか、どんな家を建てられるか、どこまで旅行してもいいか、他の階級の人々とどの程度つきあってもよいか、そしてもちろん、日常生活の行動にいたるまで規定されていました。家康が権力を維持するために定めた規定は、実に効果的なものでした。 2世紀半以上にもわたって(1603〜1868)、彼の家系が国を治めることになったのですから。これは、とりわけ、当時戦争が繰り返されて国土が荒廃していたヨーロッパと比較してみると、実に長い期間だったと言えます。

しかし、規則は規則にすぎません。実態はこれとは違ったものでした。最初の 100年かそこらは、この計画は大変うまくいっていました(少なくとも徳川家の見地からは)。しかし、実際問題として、完全に「時計を止めておく」ことは不可能です。この制度には次第にひずみがでてきました。最も大きな問題のひとつはお金に関するものでした。武士階級は、伝統的に彼らの俸禄を、実際に流通している通貨ではなく、米でもらっていました。彼らは受け取った米で家族や家臣たちを養い、そして、彼らがもっぱら伝統的な生活様式を維持している限りはこれで十分でした。しかし、都市−とりわけ江戸の町では、次第に新しい生活様式が生まれつつありました。それは裕福になった新興の商人階級が生み出したもので、そこでは、貨幣のはたす役割が少しずつ重要性をもつようになってきていました。商人階級の人々は、身分は低く、社会的階層制度の下位に位置していましたが、ものを作ったり売買したりすることで現金を手にし、だんだん富裕になりつつありました。

手にするお金が増え、余暇が増えると、新しい社会活動が生まれることは避けられません。社会の大部分を変容させ、封建制度の劇的な崩壊に大いに貢献したふたつの動きが、この時期に大きくなっていきました。歌舞伎と吉原です。そして「浮世絵」は、このどちらにおいても、重要な役割を演じました−そしてそれは決して「たまたま演じた」というわけではないのです。

歌舞伎が起こったのは、徳川時代よりもずっと前のことですが、徳川時代に生まれたこうした環境が整って初めて花開いたのです。これは大変な人気を呼び、町民や商人だけでなく、支配者側の困ったことには、侍階級の者のなかにも、これに夢中になるものがいました。木版画は演劇の世界で重要な役割を演じました。単に俳優や作品の「広告」としてだけでなく、観劇体験には必須のもののひとつでした。また、テレビや新聞のなかった時代に、木版画は、実際に劇を見に行った人だけでなく、より広範な人々に観劇体験を広めるのにも欠くことができないものでした。権力者の側からすると、問題は、劇の扱う主題がいつも公の秩序とは相容れないものであることでした。そのため、劇場関係者と彼らの行動を規制しようとする人々との間には、いつももめごとがありました。木版画とて例外ではありません。すべてのデザインは、実際に作られる前に検閲官の同意を得なければなりませんでした。こうした圧力にもかかわらず、版画は社会的変革に寄与し続けました。歌麿ほどの有名な版画家でさえ、将軍に批判的だと考えられる版画を作ったとして、監獄に入れられていたことがあるのです。

にぎやかな劇場と比べるとずっと「私的な」レベルの話になりますが−というのは、その行為のほとんどは人目につかないところで行なわれるものですから−、おそらく吉原は、より生き生きとした社会変革を作り出している場所であったといえるでしょう。そこでは単なる性的なサービス以上のものが提供されていました。そこは町人たちが会合したり、余暇を過ごしたり、様々なことを話し合ったり、そしてもちろん、ロマンティックな出会いを楽しむ場所でもありました。当時のヨーロッパの同様の施設では、そこが人目につかない場所であるのをいいことに革命をもくろんでいる人々がいたようですが、江戸の町民は彼らとは違って、幕府を倒すことには関心がなかったようです。しかし、快楽を追求する彼らの行為は−それは、詩を読むことや、最近でた小説の話や、最近手に入れた新しい着物を見せびらかすことなども含んでいましたが−、結局、「すべての者に自分の分をわきまえさせる」という、体制の目ざすところを少しずつ緩るがしはじめていたのです。そして...武士階級の者たちもそうした行為に魅せられるようになりました。

こういった場所での最大のお目当では、なんといったも女性たちでした。そして、彼女たちの間には客を獲得するためのすさまじい競争がありました。着物や髪型やその他の装飾品のこととなると、お金を出し惜しみするようなことはありませんでした。ここの女性たちの評判は遠くにまで広がって、彼女たちのなかでもトップクラスの者の社会地位は、マリリン・モンローのようなものだと言えばわかりやすいでしょうか。普通の男にはとても手の届かない、まさに夢の女性です。最も裕福で恵まれた者だけが、茶屋で彼女たちの接待を受けることができました。そしてこれこそが、権力者にとっては問題の核心だったのです。人の社会的地位が、その人の生得権や身分ではなく、人が買うことのできる花魁の名声度によって測られるようになると、封建社会の終焉はもう真近でした。

もちろん、一般の庶民には、これらの有名な花魁を一目見ることもできませんでした。彼らはその姿を描いた版画を見て満足していました。それらは何千枚も印刷され、江戸の民衆が我先にと買い求めました。これらの絵が社会に与えた影響は莫大なものでした。ちょうど、我々の時代にはモンローの肖像が数十年にもわたってそうであったように。もう一度思い出してください、当時は新聞も雑誌も映画も写真もなかったのです...我々の知っている様々なメディアのもつ力はすべてたったひとつのものに凝縮されていたのです−木版画に。

これらの女性や茶屋という環境は、こうして江戸時代後期の思想を形作る大きな推進力となりました。募府と町民との争いは何年にもわたって行きつ戻りつしました。募府は体制の権力を維持しようと様々な規制を設け続けました。着物にはどんな色が許されるか、どんな髪型ならいいか、どんな劇なら公演できるか、どんな本なら読んでもよいか...しかし、町民たちはいつもそれとは違った生活を追い求め、その気持ちを表現する新しい方法を見つけました。そして彼らは浮世絵にその指針を求めたのです。彼らは自分が探しているものが何であるのかを説明することはできませんでしたが、自分たちにとって、現状はすすんで受け入れる気になれないものだ、ということはわかっていました。1800年代の半ば、ついに外の世界が日本の扉を叩いた時、御膳立ては既に整っていたのです。封建社会は、外見は強くしっかりしたものに見えていましたが、実体は空虚なものでした。それは混沌のうちに崩壊し、代わって新しい社会が誕生しました。

浮世絵版画がこの長い変革の過程で果たした役割については、どんなに強調してもし過ぎる、ということはありません。版画は社会のどこにでもありました。茶屋で詩を詠む会をしていた者たちは、自分たちの最良の作品を印刷して流布させたことでしょう、おそらくは、そういう仕事を得意としていた鈴木春信あたりの挿絵を添えて。町民の妻たちは、本屋で最新の版画を買いたがりました。最新の流行や髪型を知りたかったのです。版画には、相撲の力士や、歴史的な英雄、昔話の登場人物など、あらゆる人々が描かれていました。当時の文化で、版画に描かれなかったものを見つけるのは因難です。私たちの町の本屋にある数多くの雑誌が私たちの社会を反映しているのと同様に、版画は当時の社会を反映していました。そして私たちが、雑誌「フォーカス」を高級な芸術とは決して考えないように、当時の人々はそれらの版画を特別なものだとは考えていませんでした。それらを作った人々は「職人」にすぎず、私たちが今日、世界的に偉大な芸術家だと考えている、その原画を描いた人々でさえ、書家や古代中国の様式で絵を描く人たちと比べれば、ずっとずっと低い社会的地位しか与えられていませんでした。浮世絵版画は「芸術」ではなく、「商品」でした。もったいぶった作品などではなく、当時の文化を、気取らず正直に表現したものでした。当時の文化によって作られたものであり、また同時に文化を作るものでもありました。政治的なパンフレットが革命的なものであったのと同じくらい、浮世絵版画は社会を変える生き生きとした力でありました。

もしこれらがなかったら、日本の歴史はずっと違った道をたどっていたことでしょう。どんな美しい花魁の版画でも、それ一枚では封建社会を倒すことなどできなかったでしょうが、浮世絵は確かに封建社会を倒す上で重要な役割をはたしたのです。それは芸術に対しての、考え得る最高の栄誉だといえるでしょう。これらの版画が、私たちの世紀になってようやく、当時には得られなかった敬意と理解を得ることができるようになったというのは、実に喜ばしいことです。これらの版画が永遠に、世界を変革する芸術の力のシンボルであり続けますように。

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