デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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今夜、椅子に座り、この最初のページを書く前に、過去に何を書いたか調べてみました。今までにこんなにたくさん書いたとは気付きませんでした。どんどんたまっていくのは刷り終わった版画ばかりではないのですね。
さて、私の仕事は、あと 6年残っています。 1年に 4回、この『百人一緒』を書くわけですから、まだ24回分ありますね。そんなにたくさんのネタがあるでしょうか? そうです。私はいつもノートをつけています。何を話題にしたか、何がまだ残っているかと、リストから調べます。いい考えがうかんだ時はノートに付け加えています。こうしてまた、ノートもどんどん増えています。
前回は、お客さんの紹介と職人さんの訪問記は休みました。今回もそうです。今回の『職人さんを訪ね』は、典型的な日本の伝統的職人さんとはちょっと違います...
小野小町の試し摺りは、天智天皇の時よりずっと大変でした。色の数は 2倍必要で、着物の柄はより複雑でした。最初の版画天智天皇は、原画が割合にはっきりしていたので、色を選ぶのはそれほど難しくなく、単に同じような色にしましたが、小野小町は原本が大変色褪せ、気に入った色にするのに何回も何回も試してみなければなりませんでした。とくにピンクが問題でした。常識だと思っていたことに従って、私は単純に赤色と、貝をくだいたものから作った白い粉である胡粉(ごふん)をまぜました。これでピンクはうまくできましたが、それどころか綿菓子のようになり、白っぽい糊状のものは版画の墨の線を完全におおってしまいました。明らかに何かまちがっていました。浮世絵版画の黒い輪郭は常に最初に摺り、色は後で摺るということをいろんな本で読みました。しかしそうだとしたら墨線をおおってしまうのを防ぐにはどうしたらいいのでしょう。簡単なことです。私の『版画救急番号』...松崎さんに電話をするだけです。
彼は直ちに私の問題を解決しました。色をうすくするのに白い顔料を使うことはほとんどありません。解決法はずっと簡単 ...水です。乳鉢の色素が水でよりうすめられると、版画に表れる色はよりうすくなっていきます。深紅の色が徐々に褪せていき淡いピンクになります。これは以前試してみましたが、紙の上ではにじんで湿ったきたないものになっただけでした。鍵は糊でした。たとえ顔料が水でうすめられていても糊が十分な役割をはたし、なめらかな摺りとなります。胡粉は、ひきだしの中に戻り、それ以来そこに入ったままです。
この企画の宣伝についてはどうでしょう。私はちょっとしたチラシをいろいろなメディアに送りましたがそれから何がおこったでしょう。最初は何もありませんでした。何の反応もなしに 2週間がすぎました。そしてこの仕事は私の他は誰も興味がないのではとふわんに思いはじめましたが...ある日、私は朝食を摂りながらジャパンタイムズ(新聞)をめくっていました。そしてあやうく朝食のグラノーラで窒息しそうになりました。私の企画についての説明の横で私の写真が私を見つめていました。私が何をしているかについての情報を得るのに電話をかけてくるかわりに、彼らは単に私のチラシを使いました。次の 2週間はもっといろいろおこりました。他の英字新聞、多摩のローカル新聞、いろんな新聞の多摩版、そして政府刊行の雑誌が情報やインタビューの為に電話をかけてきました。
これらの出来事は、私に大きなはげみとなりました。そうです他の人々もこれは興味のあることだと考えました。だからこれで生活していくには私が何をしているかたくさんの人々に知ってもらうという単純な事柄になりました。 1億2500万の人々の住んでいるこれらの日本のどこかに私の版画を集めるのに興味を持ってくださるであろう数十人がいるに違いありません。そうですね、私は全国から 1億2500万の電話はもらいませんでしたが、一つありました...約50mほど先からです。それは私達がいつも行くパン屋さんの長御夫妻で『あなたが版画を作っているなんて知らなかったわ。契約するわ。』と驚きを表現されました。私は版画シリーズの最初の二枚を届け、何かしらためらいがちに代金を受け取りました。
これは1989年の 6月のことでした。カナダでサラリーマンだった時、最初に木版画を作ろうとした時から 9年たっていました。 9年間も版画家になることを夢みてきました。これはゴールに向けての 9年間の小さな一歩、一歩。私は自分のことを版画家とは言えませんでしたが、私の仕事を援助してくださるという意思表示が、版画を作れるんだということを私自身が確信するのに非常に手助けとなりました。
... 続く ...
それは私達の訪問にあたって特にさい先のよいスタートというわけではありませんでした。私達は駅で会いましたが、彼の車は熱心に説きふせようが、ののしろうが動こうとはしませんでした。そこでJAFに電話をかけて、きてもらい、彼がマジックトリックをかけている間、私達は近くのコーヒー店で待ちながら雨が窓を打つのを見ていました。その作業はありがたいことに短く、私達はまもなく車に戻り、一軒の農家へと向かいました。この古い農家を改修した家には英国人の木版画家であるデイヴィッド・ストーンズと夫人の彰子さんが住み、それは又仕事場とギャラリーもかねています。
彼らは、ここ愛知県岡崎市の山間の村に11年以上も住んでいます。この家を下から上まで改修するに一年間かかりました。その前に名古屋に住み、版画製作にはふさわしくないと思いました。その夜、彼の家のギャラリールームにかかっている版画を見ていた時、彼がいろいろな季節の山のシリーズの版画を見せてくれることになるのですが、『コンクリートのマンションに住んでこれを描いている私を想像できますか?』 まさに、彼は21年も日本に住んでいますが、彼の芸術的能力が花開きはじめたのはこの田舎の谷間の村に来てからです。
彼の作品は、私のものとはぜんぜん違います。浮世絵版画に使われると同じ桜の版木や和紙から生まれたものですが、彼者絵と美人画の古いものとはまったく違っています。彼は、彼のまわりにあるものを版画にします...家の近くで泳いでいる魚、神社の木の橋、日本庭園、川岸の風景... 岡崎での田舎生活の間に、彼の版画はたくさん増えました。彼の作品は力強く、明るく壁一面の絵といったようなものではありません。彼の作品のほとんどは小さく、スケールは内にひめられ、印象は的確にとらえられています。人物を表わしたものは少なく、ムードとしては一様にのどかなものです。デザインと和紙や色は芸術家と彼の環境のように調和しています。自然そのものが彼の作品の大きなテーマになっています。家の近くを歩きまわりながら、彼はいろんな大きさの木々を誇らしげに指さします。『私達がこれを植えたんですよ... 向うのもね...』 それは彼の版画製作の為に使ったものを地球に返すということだけではありません。彼にとって一片の土地の管理人とは、託された時よりもよりよい状態で未来世代へと伝わっていくであろうことを責任を持って確かめることを意味します。彼の山林学は、最近の日本人の自然形態を破壊する商業的やり方とは違って単によりよい習慣をうえつけるということにあり、近くの農夫たちは、彼の最近の植林を見て首をかしげます。
未来を案じるということは、又彼の仕事での行動にも反映されます。その昔、彼に援助を与えた京都の版画家は今では80才代です。誰もその版画家の後をつぐものはいません。近頃の日本の職人に共通したことで、若い世代はよりお金になる刺激的な仕事に群がります。デイヴィッド・ストーンズの役割は、消えようとしている古い職人と伝統的芸術を熱心に学ぼうとするまだ現れてこない若い世代との間の掛け橋のようなものと見ています。もし伝統を守っていくことが外国人の版画家の仕事であるなら、それはそうなのでしょう。彼は伝統を守っていくことでしょう。そうしながら、彼の新鮮な血液をそそぎこむでしょう。そしてもう一世代生きのびる力を与えるでしょう。
私達は彼らのもとを辞します。デイヴィッドは、仕事場にすわり、彼のハンマーの音は彼らの美しい家に新しい版画の出来あがる音として響き、彰子さんは隣の部屋で彼女の生徒の為に茶道の準備をし、外では彼らの若木の一本が窓にサラサラと木の葉の音をたてます... そんな天国のような場所はないと誰が言えますか。
デイヴィッドと彰子さんは版画を見に来てくれる人大歓迎です。彼らはしばしばスケッチ旅行に出かけるので前もって電話をして下さい。彼らの所へは中央高速(岡崎インターチェンジ)か又は列車(名古屋〜豊橋間の名鉄線の美合駅下車)で行けます。彼は駅まで迎えにきてくれます(新しい車で!)
〒444ー33 愛知県 岡崎市 蓬生町字 坊ノ入22 0564(47)3277
私の版画製作について人々と話す時はいつも私は芸術家じゃないけど自分のことをクラフスマンだと強調します。クラフツマンは創造することよりも何かを作ることを喜びとする人のことです。もちろんこの二つの考えの間を分ける明確な線はなく、私が毎日することには明らかに芸術的面も含まれますが、私の気持の中では、すくなくともそのイメージは明らかです。私はかつて見たことのない新しいものを作り出しているわけではなく、単に私の手の技術を使っているにすぎません。日本語での会話では常に職人という言葉を使っており、私達の辞書はこれをクラフツマンと訳していますが、この二つの考えが実際にどれくらい違うのかなと考えています...
私は 6年ほどここ日本に住んで、たくさんの職人を訪ね、彼らの仕事や生活について長いこと話合うことを楽しんできました。彼らの言ったことでたくさん驚かされ、彼らの考えは、時として私のクラフツマンという考えの概念とはかなり違っているということに気がつきはじめました。このことは以前アダチ版画研究所の責任者である安達以乍牟氏と話している時に強く感じました。アダチ版画研究所は、東京の有名な出版社で、将来このニューズレターで紹介させていただきたいと思います。
安達氏は伝統的な日本の版画製作の世界の先導的権威者の一人として広く知られおり、彼の仕事場の職人によって作られた版画は、最高の基準のものとして認識されています。私の版画を彼に見てもらい批評をお願いした時に私の努力に対しての高い評価は期待していませんでした(又高く評価されませんでした)。しかしながら彼の言われたことは私をかなり混乱させました。彼は私の作品について『丁寧すぎる』という表現をしました。私はそれを賛辞と受け取り『サンキュー、サンキュー』と答えました。すると彼は私が理解しないのにうんざりして頭を振っただけでした。その時以来、彼の言葉について、何を私に伝えようとしているのだろうとかなり考えました。
クラフツマンという西洋人の考えについて述べてみます。次のイメージが直ちに私の心の中に浮かびます...経験のある技術に優れた人...順序だてる人、ゆっくりと注意深く仕事をする人...忍耐...質の高いものを作るのに必要な時間をどれだけでもよろこんで費やす人...注意深く...注意深く。このニューズレターの英語を読んで下さっている人はこれに同意してうなずいていると想像できます。しかし日本人の『巷の人』に職人についての彼の概念をたずねるとどうなるでしょう。経験のある技術のある人...彼の道具について深い知識のある人...信じられないくらい早く仕事のできる人...質の高い仕事のできる人... こんどは日本人の読者がうなずくばんです。もし私が西洋人としてスペインのギターを一年かけて注意深く作ったという話を聞くと私はまったく感嘆してしまいます。日本人の職人にとっては、これは信じられないことで、のろまな仕事人と考えられることは恐ろしいほどの侮辱です。
西洋人の考えで育てられ、今では日本で職人として働こうという考えとしては、その状況は何か精神分裂症的です。しかし私は、理解しはじめました。安達氏が私に言っていたことは、私の版画は死んでおり、生命がないということです。そうです。私の版画はきちんとして、すっきりしていてナイスです。しかし私の刃はあまりにも注意深く、私のバレンはあまりにも繊細に動きました。私は私の感覚で、私の心で、仕事をしたのではなく私の知性でしました。その違いは西洋と日本の両方の書道を考えると理解しやすいでしょう。このことを描いてみると...着物を着た日本女性が白い紙の前にひざまずき筆をかまえています。彼女は最初の字を書きはじめます。手はゆっくりと注意深く動きます。筆が計画したとうりの道を通っているかどうか目を近づけて見ます。横。縦。小さな点をここでうって。細い線をここで。少しつづ少しつづゆっくりと、終りまで一定の速さで... ばかげていますか? もちろん。実際にはどうするかというと。筆を持ち...それからすばやく筆を入れ、とどまり、筆はそれ自身が意志を持っていたかのごとく紙を横ぎります。ここではもっと強く...ここでは力を抜いて。注意深い計画の反対。結果は? 生きている書。文字はおどりながらその紙を下へと動きます。伝統的な西洋の書は? そうですね、見るだけでどうやってできたかわかります。どこへもおどっていきません。それは行進していきます。
実際には単にスピードの問題ではなく、知的なかかわり合いです。私達西洋人は明らかに頭脳を使って分析し、計算し、その過程の一歩一歩をコントロールすることを好みます。日本人はたぶんこの器官を迂回して、体や筋肉(よく訓練された)により自然に仕事をさせることを好むのでしょう。同じことは何かを学ぶときに明らかです。私はその過程を注意深く調べ、研究し、分析しようとします。私は何事も理解したいと思います。日本人は濃度の濃い所から薄い所へ流れるように、技術のある経験者と肩をすりあわせることによって学ぶように思えます。西洋人の生徒を受け入れるのをやめた日本人の尺八の先生のことを思い出しました。『彼らはあまりにも質問しすぎる』とその先生はいいました。日本人のやり方はよくて、西洋人のやり方は悪いということを言ってるわけではありません。日本人と西洋人は正に違っています。非常に違っています。日本人と西洋人が同じ頭の中に、同じ手の中に生きようとしている私の場合は例外です。
私が知っている版画製作についてのほとんどのことは、一人で理解しようとすることによって学んできました。もちろん時々はその分野の人々から助けてもらいましたが私のやり方の多くは分析的なものです。今ではこのやり方ではあまり進歩しないのではと認識しはじめています。私の彫りは今では『正しく』線は正しい場所に正しい厚さにあります。私の摺りは『正しく』色はなめらかで墨線の中にきれいにおさまっています。これでは不十分です。たぶん私の収集家の方々はこれで喜んで下さいますが、安達氏はもっと見ています。又はもっと正確に言うと、たぶん彼は見ないでしょう。...何を見ないかというと『生』の動きです。彼は私の彫りがおどりながらページを横ぎるのを見ません。丁寧すぎる...
問題の解決は明らかです。時間です。経験のある職人と一緒に過ごす時間です。彼らの仕事の音を聞くことです。彼らと同じ空気を吸い、同じ酒を飲むことです。単に同じ部屋にすわって。何も質問しないで。そしてもしこれがもっとできるとしたら、たぶんいつの日か安達氏が私の版画を見て...『まあ、そんなに悪くない...悪くない...』と言うでしょう。そんなにも長く私は生きられるでしょうか?
また 1年が過ぎました。今度も充実した12ヵ月でした。多分、少しは腕もあがったと思います。予定通りにことが運んでほっとしています。特にあわただしい周囲の状況を考えるとなおさらです。かつて誰かが、ある奇妙な法則に関してこんなことを言っていました。『仕事というのは、時間をかければかけるだけ増えていく』というのです。でも、私はさらに発見しました。『圧縮できる』ということです。時間が全然ない時でも、何とか片付くものです。
1年前の冬の号で、自分の写真を載せました。完成した全部の作品と、一緒に並んで写しました。でも今年はそれが出来ません。どうもふさわしくないからです。全体の40%が終わって、いい気分です。あともう少しで半分まできます。
40枚終わりました。あと60枚です。