デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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「職人」 対 「Craftsman」

私の版画製作について人々と話す時はいつも私は芸術家じゃないけど自分のことをクラフスマンだと強調します。クラフツマンは創造することよりも何かを作ることを喜びとする人のことです。もちろんこの二つの考えの間を分ける明確な線はなく、私が毎日することには明らかに芸術的面も含まれますが、私の気持の中では、すくなくともそのイメージは明らかです。私はかつて見たことのない新しいものを作り出しているわけではなく、単に私の手の技術を使っているにすぎません。日本語での会話では常に職人という言葉を使っており、私達の辞書はこれをクラフツマンと訳していますが、この二つの考えが実際にどれくらい違うのかなと考えています...

私は 6年ほどここ日本に住んで、たくさんの職人を訪ね、彼らの仕事や生活について長いこと話合うことを楽しんできました。彼らの言ったことでたくさん驚かされ、彼らの考えは、時として私のクラフツマンという考えの概念とはかなり違っているということに気がつきはじめました。このことは以前アダチ版画研究所の責任者である安達以乍牟氏と話している時に強く感じました。アダチ版画研究所は、東京の有名な出版社で、将来このニューズレターで紹介させていただきたいと思います。

安達氏は伝統的な日本の版画製作の世界の先導的権威者の一人として広く知られおり、彼の仕事場の職人によって作られた版画は、最高の基準のものとして認識されています。私の版画を彼に見てもらい批評をお願いした時に私の努力に対しての高い評価は期待していませんでした(又高く評価されませんでした)。しかしながら彼の言われたことは私をかなり混乱させました。彼は私の作品について『丁寧すぎる』という表現をしました。私はそれを賛辞と受け取り『サンキュー、サンキュー』と答えました。すると彼は私が理解しないのにうんざりして頭を振っただけでした。その時以来、彼の言葉について、何を私に伝えようとしているのだろうとかなり考えました。

クラフツマンという西洋人の考えについて述べてみます。次のイメージが直ちに私の心の中に浮かびます...経験のある技術に優れた人...順序だてる人、ゆっくりと注意深く仕事をする人...忍耐...質の高いものを作るのに必要な時間をどれだけでもよろこんで費やす人...注意深く...注意深く。このニューズレターの英語を読んで下さっている人はこれに同意してうなずいていると想像できます。しかし日本人の『巷の人』に職人についての彼の概念をたずねるとどうなるでしょう。経験のある技術のある人...彼の道具について深い知識のある人...信じられないくらい早く仕事のできる人...質の高い仕事のできる人...  こんどは日本人の読者がうなずくばんです。もし私が西洋人としてスペインのギターを一年かけて注意深く作ったという話を聞くと私はまったく感嘆してしまいます。日本人の職人にとっては、これは信じられないことで、のろまな仕事人と考えられることは恐ろしいほどの侮辱です。

西洋人の考えで育てられ、今では日本で職人として働こうという考えとしては、その状況は何か精神分裂症的です。しかし私は、理解しはじめました。安達氏が私に言っていたことは、私の版画は死んでおり、生命がないということです。そうです。私の版画はきちんとして、すっきりしていてナイスです。しかし私の刃はあまりにも注意深く、私のバレンはあまりにも繊細に動きました。私は私の感覚で、私の心で、仕事をしたのではなく私の知性でしました。その違いは西洋と日本の両方の書道を考えると理解しやすいでしょう。このことを描いてみると...着物を着た日本女性が白い紙の前にひざまずき筆をかまえています。彼女は最初の字を書きはじめます。手はゆっくりと注意深く動きます。筆が計画したとうりの道を通っているかどうか目を近づけて見ます。横。縦。小さな点をここでうって。細い線をここで。少しつづ少しつづゆっくりと、終りまで一定の速さで... ばかげていますか? もちろん。実際にはどうするかというと。筆を持ち...それからすばやく筆を入れ、とどまり、筆はそれ自身が意志を持っていたかのごとく紙を横ぎります。ここではもっと強く...ここでは力を抜いて。注意深い計画の反対。結果は? 生きている書。文字はおどりながらその紙を下へと動きます。伝統的な西洋の書は? そうですね、見るだけでどうやってできたかわかります。どこへもおどっていきません。それは行進していきます。

実際には単にスピードの問題ではなく、知的なかかわり合いです。私達西洋人は明らかに頭脳を使って分析し、計算し、その過程の一歩一歩をコントロールすることを好みます。日本人はたぶんこの器官を迂回して、体や筋肉(よく訓練された)により自然に仕事をさせることを好むのでしょう。同じことは何かを学ぶときに明らかです。私はその過程を注意深く調べ、研究し、分析しようとします。私は何事も理解したいと思います。日本人は濃度の濃い所から薄い所へ流れるように、技術のある経験者と肩をすりあわせることによって学ぶように思えます。西洋人の生徒を受け入れるのをやめた日本人の尺八の先生のことを思い出しました。『彼らはあまりにも質問しすぎる』とその先生はいいました。日本人のやり方はよくて、西洋人のやり方は悪いということを言ってるわけではありません。日本人と西洋人は正に違っています。非常に違っています。日本人と西洋人が同じ頭の中に、同じ手の中に生きようとしている私の場合は例外です。

私が知っている版画製作についてのほとんどのことは、一人で理解しようとすることによって学んできました。もちろん時々はその分野の人々から助けてもらいましたが私のやり方の多くは分析的なものです。今ではこのやり方ではあまり進歩しないのではと認識しはじめています。私の彫りは今では『正しく』線は正しい場所に正しい厚さにあります。私の摺りは『正しく』色はなめらかで墨線の中にきれいにおさまっています。これでは不十分です。たぶん私の収集家の方々はこれで喜んで下さいますが、安達氏はもっと見ています。又はもっと正確に言うと、たぶん彼は見ないでしょう。...何を見ないかというと『生』の動きです。彼は私の彫りがおどりながらページを横ぎるのを見ません。丁寧すぎる...

問題の解決は明らかです。時間です。経験のある職人と一緒に過ごす時間です。彼らの仕事の音を聞くことです。彼らと同じ空気を吸い、同じ酒を飲むことです。単に同じ部屋にすわって。何も質問しないで。そしてもしこれがもっとできるとしたら、たぶんいつの日か安達氏が私の版画を見て...『まあ、そんなに悪くない...悪くない...』と言うでしょう。そんなにも長く私は生きられるでしょうか?

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