デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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その9:宣伝の始まる

小野小町の試し摺りは、天智天皇の時よりずっと大変でした。色の数は 2倍必要で、着物の柄はより複雑でした。最初の版画天智天皇は、原画が割合にはっきりしていたので、色を選ぶのはそれほど難しくなく、単に同じような色にしましたが、小野小町は原本が大変色褪せ、気に入った色にするのに何回も何回も試してみなければなりませんでした。とくにピンクが問題でした。常識だと思っていたことに従って、私は単純に赤色と、貝をくだいたものから作った白い粉である胡粉(ごふん)をまぜました。これでピンクはうまくできましたが、それどころか綿菓子のようになり、白っぽい糊状のものは版画の墨の線を完全におおってしまいました。明らかに何かまちがっていました。浮世絵版画の黒い輪郭は常に最初に摺り、色は後で摺るということをいろんな本で読みました。しかしそうだとしたら墨線をおおってしまうのを防ぐにはどうしたらいいのでしょう。簡単なことです。私の『版画救急番号』...松崎さんに電話をするだけです。

彼は直ちに私の問題を解決しました。色をうすくするのに白い顔料を使うことはほとんどありません。解決法はずっと簡単 ...水です。乳鉢の色素が水でよりうすめられると、版画に表れる色はよりうすくなっていきます。深紅の色が徐々に褪せていき淡いピンクになります。これは以前試してみましたが、紙の上ではにじんで湿ったきたないものになっただけでした。鍵は糊でした。たとえ顔料が水でうすめられていても糊が十分な役割をはたし、なめらかな摺りとなります。胡粉は、ひきだしの中に戻り、それ以来そこに入ったままです。

この企画の宣伝についてはどうでしょう。私はちょっとしたチラシをいろいろなメディアに送りましたがそれから何がおこったでしょう。最初は何もありませんでした。何の反応もなしに 2週間がすぎました。そしてこの仕事は私の他は誰も興味がないのではとふわんに思いはじめましたが...ある日、私は朝食を摂りながらジャパンタイムズ(新聞)をめくっていました。そしてあやうく朝食のグラノーラで窒息しそうになりました。私の企画についての説明の横で私の写真が私を見つめていました。私が何をしているかについての情報を得るのに電話をかけてくるかわりに、彼らは単に私のチラシを使いました。次の 2週間はもっといろいろおこりました。他の英字新聞、多摩のローカル新聞、いろんな新聞の多摩版、そして政府刊行の雑誌が情報やインタビューの為に電話をかけてきました。

これらの出来事は、私に大きなはげみとなりました。そうです他の人々もこれは興味のあることだと考えました。だからこれで生活していくには私が何をしているかたくさんの人々に知ってもらうという単純な事柄になりました。 1億2500万の人々の住んでいるこれらの日本のどこかに私の版画を集めるのに興味を持ってくださるであろう数十人がいるに違いありません。そうですね、私は全国から 1億2500万の電話はもらいませんでしたが、一つありました...約50mほど先からです。それは私達がいつも行くパン屋さんの長御夫妻で『あなたが版画を作っているなんて知らなかったわ。契約するわ。』と驚きを表現されました。私は版画シリーズの最初の二枚を届け、何かしらためらいがちに代金を受け取りました。

これは1989年の 6月のことでした。カナダでサラリーマンだった時、最初に木版画を作ろうとした時から 9年たっていました。 9年間も版画家になることを夢みてきました。これはゴールに向けての 9年間の小さな一歩、一歩。私は自分のことを版画家とは言えませんでしたが、私の仕事を援助してくださるという意思表示が、版画を作れるんだということを私自身が確信するのに非常に手助けとなりました。

... 続く ...

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