デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1992

秋号が又遅くなってしまいました。私が夏を関東のサウナのかわりに田舎で過ごすかぎりは、たぶんこれは変わりそうにもありません。

今回は、春章の原本についての話、私の企画の始まりについての続きの話、そして少しばかり違ったことについてです。昨年冬の『百人一緒』6号のような想像上の脱線ではなくて実際の経験です。それは直接には、私の版画製作企画には関係がありませんが、この余談を許して下さり、そして楽しんで下さいますように。

その8:2番目の作品

今月の話は、ドラムの音で始めましょう...ファンファーレ...全段一面見出し...版木届く! それは、実際よいタイミングでした。

というのは、版木が届く少し前に、とうとう版下をうまく準備することが出来るようになったからです。東洋文庫で写してもらった小野小町の小さなネガフィルムを用いて、実際の木版画サイズに引き伸ばしたカラー写真を注文しました。 それが届くと非常に薄い紙にコピーをとることができました。(その過程は、『百人一緒』1号に説明しました。)不明な細部は細いペンで、書き足し、彫りが可能な版下を作ることが出来ました。それは、そんなによくありませんでした。ネガフィルムが小さすぎて、写真はぼやけていましたが、それを使わざるをえませんでした。さあこれで始められます!

私の日記によると、小野小町の墨版の彫りは、3週間(実働70時間)かかり、その後の色板には 2日かかりました。天智天皇は一年かかりました。動機の問題のようです...

彫りの合間に三千代と私は、版木の代金を払ったり将来の版木の入手について話し合う為に島野さんの所へ寄りました。(この時に偶然前回のニューズレターに書きました*の店、金子商店に行き当たりました)。島野さんは、もっと定期的に版木を送って下さると請け合って下さいました。そして今まで、他の注文でどんなに忙しかったとしても、私がお願いするとうりに毎月送って下さいます。たぶん島野さんは、私の版木を準備するのにどんなにか長時間働いているかと思うと申しわけなく思います。 私を助けてくださっている職人さん達のうちで島野さんへの借りが一番大きいです。少しでもお返しする一つの方法として、新しく出来上がった版画を彼の所へ送っています。(山口さんや、松崎さんにも同じようにしています)。これらの職人さん達から見れば私の版画はあまりよくないとはわかっていますが、私は彼らの努力の最終産物を見ていただきたく思います。とくに版画が月々よくなっていくのを見ていただきたいと思います。

私は、彫りに一生懸命であると共に、この企画の他の面もいろいろやっていました。天智天皇の版画を作っていた時に三千代が撮った写真を貼った、私の活動についての短い宣伝用のチラシを作り、いろんな新聞社に送りました。(その時のチラシのコピーはファイルしており、今読んでみると、実際に 100枚の版画のセットを作ろうとしていますと書いてあります。天智天皇の完成と小野小町の彫りが終わった頃に百人一首シリーズを作ることを決めたようです。)

チラシに対して新聞がどんなことをしてくれるでしょうか。私にはわかりませんでしたが、何かをしなければならないとわかっていました。もし私が単に静かに仕事台に、向かっているとしたら、版画は確実に作ることができますが、家賃を払えるでしょうか。どうにかして人々の注意を引く必要がありました。

そこで今度は、版木を待つかわりに、電話がかかってくるのを待っていました... こんどはどれ位待ったなければならないでしょう...

... 続く ...

春章の本

春章の百人一首は一般の人にはほとんど知られていませんが、消失してしまったわけではありません。いろいろな教科書や百人一首の一般的な解説書には春章の画が使われています。これらの複製には常に後で出版された本が使われています。 これについてはおもしろい話があります。

江戸時代には、本はもちろん木版から摺られました、そして、基本的な技術は一枚の版画を作るのも、本を作るのも同じでした。版元が初版の版画や本が売り切れると、注意深くしまっておいた版木を出してきて摺り師に依頼しました。ほとんどの本の最後のページには芸術家や、版元、出版日付等のインフォメーションがのっています。そしてこのインフォメーションは、もちろんそのページ用の版木に掘られました。再度摺る必要が生じた場合、通常その最後のページを直したりはしませんでしたので、時として、いつ本が実際に作られたかを知るのはほとんど不可能となります。 春章の本も明らかに何回も摺られました。というのは色の違う版画が存在することが知られているからです。

私の手本として用いている東洋文庫の本は初版本です。どうして知ってるかって? そうですね。 春章の本は再度摺る場合に違った風にとり扱われました。何らかの理由で、2回目の出版をする時に版元は歌を違った書にしました。春章の美しい書(美しい彫り)は元の版木から削られてしまいました。完全に新しい歌が大橋流の書家「さやまちかゆき」によって書かれました。歌人の姿はそのままでした。元の版木(春章の書の削られたもの)と、新しい書の版木を用いて、後の版画が摺られました。書は、この初版のものと後の版のものではまったく違います。春章のものはデリケートで歌人の姿によく合っています。一方ちかゆきの書も流れるようで優雅であるが、歌人の姿を圧倒してしまいます。(私は両方好きです。この百人一首の企画の始の頃は二つ作ろうと考えていましたが、あまりに大変なのであきらめました。)

春章の書のある版本は今では非常に希で、一度だけ摺られたものであろうと推測されます。 後からの出版の本は神保町の古本屋に時々あらわれますが、保存状態はよくありません。再版が何回かなされたのでしょう。(最近保存の大変よいものがここ東京の古本屋から手に入れられます。原画を手に入れたいとお考えなら'only'¥780,000です。)

これらの江戸時代の版木はどうなったのでしょう? 三つの推測がなされます。 1)春章のものは売れていて、版木をこわしてしまう理由がありませんので、江戸の度重なる火事や地震で消失してしまった。 2)何年もの間、何回も出版され、ついには売り上げが落ち再出版する価値がなくなり、版木は薪として使われたか、他の新しい版画を作るのにカンナで削られてしまった(もし版木が十分厚ければ)。 3)売り上は大変よく、版木はあまりに度々使われ、たくさん摺られ、版木が使用できないほど減ってしまったので、すててしまった。

版木がどうなったか知ることは、おそらくできないでしょう。もちろん、時としてこのことは、私が彫っている版木がどうなるんだろうと考えさせられます。版木が壊されてしまうなどとは絶対考えたくありませんが、時がすぎるとすべては、ちりになってしまうのでしょう。少くとも、私の時代が過ぎ去ってかられであればよいと思います...

奥ノ野

 鷹は、古く朽ちはてた農家の上を高く飛んで行く。しかし誰も見る人はいない。風は、山の木々をさらさら揺らせていく。しかし誰も涼しい風が肌をなでていくのを感じる人はいない。冷く澄みきった谷川は岩から岩へと飛びはねながら遠い海へと流れていく。しかし誰もその音を聞く人はいない。

『奥ノ野』、昔から続いてきた開拓地に今は誰もいない。草は腰のあたりまでのび、かつての田んぼ道をおおっている、猪垣(ししがき)はあちこちにかたむき、田んぼや畑はいろんな雑草におおわれ、猪の足跡がそこいらじゅうについている。今では 5年になる...年寄り達が、そのせまりくる年や自然との絶望的な戦いをあきらめ、この山での生活を拒否してきた子供達と生活するのに山を下りた。猪はこの時を待っていた。彼らは長い間待っていた...

奥ノ野に至るには三重県南部の紀伊半島を山の中へと入って行く。電気もガスも電話も車道もなく、近くの村から約、一時間ほど山道を歩く。森の道を登るにつれて、ゆるやかに高度が増していき、他の見捨てられた田んぼの跡が木々の間にかろうじて残っている。 山道を歩いて行くと、谷川の流れの音が下の方から聞こえ、その同じ流れがかつては、これらの段々になった山田に水を注ぎ、ここにかつて住んでいた人々に食物を供給していた。この谷間にかつては、たくさんの人々が住み、農家は次々に長く続き、その一番山奥が奥ノ野である。子供達の声は澄んだ空気の中に響き、緑の山々にこだましていた...

何百年も前、何人かの人々が安住でき、開拓できるくらいのそんなに急でない場所を求めてこの谷間を登っていった。彼らは棒を土につきさし、肥沃な土を堀出しこれ以上さがす必要はないと決めたにちがいない。日本のいたる所の隔離された村はその昔戦いに敗れた平家の落人によって始まったと言われており、この場所がそれを語っている。それは真実に違いない。彼らの声は、夜の風の中に聞かれ、彼らの明かりは、田んぼの上の森の中にある古い神社の近くでゆれている。神社は、高い杉の木で守られている。それらの人々はどんなにか苦労して開墾したことであろう。溝を堀り、家を建てるのに木を削り、急な山に田んぼを作るのに必要な石垣を築くのに用いる何千個もの石を運んだ。 彼らは、これらのことを出来うる限りきちんとやった。この谷間を決して離れることはなく、又彼らの子供がこれをうけつぎ、祖先の努力の上に彼ら自身の成果を築きつづけるであろうということを知っていた。段々になった田んぼは山へとつづき、荒々しい台風がかならずおそってきて、地盤がゆるむことを予測して石はしっかりと積み上けられた。石垣は何百年ももちこたえていた。何百年も、共に働く父から息子へ、母から娘へと。もちろんそれぞれが生きる為に食べる為に、そしてそれぞれが又田畑をよりよい状態で子孫に伝えていく為に働いた。

何百年も...この時まで。その鎖は断ち切れ、田畑を相続していくものは今では猪である。ここに住み、彼らの子供達の声が谷に響きわたっているべき世代の人々は違った生活を選んだ。彼らは交換をした。 遺産も歴史も交換してしまった。鷹や木々や美しい流れと、コンクリートのアパートやスーパーマーケットや車や雑踏や騒音との交換...

5年前、おじいちゃんが田畑を永久に残して、町へおりていった時、最後にふり返って見ただろうか? 祖先のことを考えただろうか? 雑草がおい繁ることを思っただろうか? なぜ?とたずねてみただろうか? 心痛をおぼえただろうか?

私は毎年夏に、町のアパートを離れ、ここにきて、この地に立つ。あたりをみまわし、その変わり様に気がつく。木々は折れ、道をふさぎ、農家の屋根にはもう一つ穴がふえ、石垣のくずれも増えている...そして自分にたずねる、『どうしてほっておくんだ』。おじいちゃんのせいじゃない。彼は一生懸命ここでやり、町に少し住んで、今では村里のお墓に眠っている。彼は自分の役割は果たした。責任があるのは私だ。私の前のくずれた石垣の石の一つ一つが私への静かな非難だ。私は頭をそむけ聞かないふりをするがそのメッセージを避けることはできない。ここを訪れる度に沈黙の響きは大きく執拗になっていく...もどっておいで...もどっておいで...

それに答えるとしたら早くしなければならない。すでに短い 5年の間にすら、損傷は、はげしくもうすぐ手おくれになってしまう。台風は、祖先の成したことを無にし、猪は昔々に取り上げられたものを取りかえすことになる。

今夜これを書きながら、涙が流れました。これを読んで心を動かされない人がいるだろうか?

もう一つ秋の恒例は、妻の三千代がカナダの大学へ出発することです。三千代は、夏の間ここ日本で過ごしましたが、今ではバンクーバーでの学業にもどっていきました。子供達と私で、日々の生活はかなりうまくやっていけますが、時として、少し助けが必要になります。次の一月の新宿での展示会はとてもいそがしくて、一人でできるとは思えません。もしお願いすることができましたら、ギャラリーに行くのに便利な所に住んでられる方で、半日くらいギャラリーに来て、私の仕事についてお客さんに説明していただけないでしょうか。そうしていただけると、とても助かります。次の一年間を生きのびられるかは、いつも一月の展示会にかかっているので、この機会を最上のものにするのは大変重要です。もし少しばかりお時間がいただけるようでしたらご連絡下さい。

 それでは、又...