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... 限定番号について ...


「展示会場で...」

(会場にやって来た人との会話 ...)
 
 

ゲスト: あのうすみませんが、ブルさん、ちょっとお話してもいいですか。
デービッド: はい、いいですよ。おいでくださってありがとうございます。

ゲスト: 展示してある版画を拝見しましたが、ちょっと気付いたことがあって、気になっているんですが--- ブルさんの版画には限定番号がないんですね。本物の、限定版なんですか。

デービッド: えーと、みんな本物ですよ。でも、限定版ではありません。私は自分の版画を限定版にはしないんです。だって、版木を彫るのには、長い長い時間が掛かるんです、摺り終わってから版木を処分するなんてことは、とてもできませんから。

でも、これが理由というよりも、単純に、限定番号なんて信用していないんです。

ゲスト: どうしてですか。
デービッド: 手っ取り早く答えてしまえば、日本の版画にはもともと番号なんてなかったんです。こういった版画がつくられた江戸時代に遡ってみれば、版画は単に商品にすぎず、芸術品ではなかったのです。ですから、「投資」の対象になるなんてことはありえなかった。私はただ単純に伝統にしたがっているだけです。
ゲスト: はあ、それはそれで、とてもいいことなんですが、今は江戸時代じゃありませんよね。現代の人達の要求度はもっと高くなっていますよ。
デービッド: いいえ、そんなことはありません。ただ単に、製造番号や限定枚数をきめるということが慣習になっただけのことで、版画製作者も購入者も、あまり意味を考えずに、ただ慣例に従っているだけなのです。

でも、版画は、大量生産的美術品です。そのことだけが、唯一の存在理由なのです。言い換えればそこにある「メッセージ」ができるだけ多くの人達に伝わるようにする、ということです。限定番号が品質を保証するなどと言う考えは、矛盾語法であり、意味の曲解であり...その上、不誠実です。

ゲスト: どうして、不誠実なんですか? みんな限定版号を付けているじゃないですか。
デービッド: 不誠実ですとも。供給できる数を制限することで、故意に商品の値段を釣り上げるわけですから。他の物で、意図的にこんなことをしたら、社会的なひんしゅくをかって、おそらく法的にも問題になると思うのです。それなのに、一体どうして版画の世界ではこんな馬鹿げた慣習がまかり通っているのでしょうか。何世紀にも渡って、こうした利潤追求の破壊行為を続けてきたお陰で、結局は版画の世界を破滅させてしまったのです。
ゲスト: 破滅?
デービッド: そう、破滅です。見回せばおわかりでしょう、一体どれだけの人が版画職人として生計を立てられているか....一枚でも版画を持っている人が人口の何%いるでしょうか。答えはわかりますよね。
ゲスト: でも、版画を買う人達は、下の方に番号を書いて欲しいと思いますよ。限定数と番号は、明らかに版画の価値を高めているわけですから。
デービッド: 版画家は自分の作品にどんな価値が出てほしいのでしょうか。本心から、経済的な価値がでることを期待しているのでしょうか。自分の作品を投資として集めてもらいたいのでしょうか。もしそうなら、そんな人は、版画でなくて株券でも売ればいいのです。

私は、自分の技術を使って、美しい材料から美しい物を作ることが 好きだから、版画を作っているのです---桜の木、フワフワの和紙、そして柔らかな顔料。作る過程もできた物も、両方とも喜びをもたらしてくれる。たまたま、いいえ、そうじゃなくて、綿密に計画を立てているから、私の作品はみんなに喜ばれているようです。 物を集めたいというのは人間の本性ですから、家に持ち帰って時々見て楽しめるように、版画を手許に置きたいと願う人達もたくさんいるのです。こういった人達に自分の版画を売るのは嬉しいことです。買う人も私も、限定数の量や何年か後の値上がりなど、まるで考えません。版画なんて、インクの染み込んだ一枚の紙にすぎないのです。紙のもたらす価値は、それを手にする人の目の中にこそあるのです。

ゲスト: とてもいいことで、理想的ですよね、でもね、版画に限定番号がなかったら、妥当な値段では絶対に売れないですよ!
デービッド: 妥当ですって?どんものにも、「妥当」な値段には2つの定義があるんです--ひとつは製造者の、もうひとつは消費者の--そして、今のところ版画の世界では、このふたつの開きがどうしようもなく大きいのです。版画を売っているどこを見ても---画廊であろうが、展示会であろうが、インターネットのサイトであろうが、---とても高い値段がついています。こういった値段は、消費者の側からすれば、「妥当」ではありません。そして、その結果、売買はとても少なく、ほんのひとにぎりの版画家だけが腕で食べていける、ということになるのです。
ゲスト: でも、値段は高くあるべきですよ。売れる版画の数がそんなに少しで、しかも値段が安かったら、版画家は収支決算が合わなくて、やっていけなくなりますよ。
デービッド: どうやら私達の会話は堂々回りをしているようです。私の考え方だと、一般の人に(金持ちの投資家だけでなく)手の届く範囲の値段にまで落とせば、販売数はグンと増えるはずです。値を釣り上げてほんの少しだけ売る変わりに、安くすれば、遥かに多くの枚数が売れるでしょう。そこの兼ね合いは捜さなくてはなりませんが。
ゲスト: でも、そうしたら版画家は、ひとつの作品毎に、もっとたくさんの枚数を作らなくてはならなくなりますよ。芸術家じゃなくなって、職人になるじゃないですか。
デービッド: ほら、そこなんです!それが版画製作なんです!版画家というのは版画を作る過程を楽しんでいるんです。一枚、二枚、三枚、四枚。全部見て下さい---美しいでしょう!これはみんな、僕がこの手で作っているんです。

仕事に怖じけてはだめです。ミケランジェロは、バチカン礼拝堂の天井壁画に芸術的な概念だけでのぞんだのではありません。彼は、足場に登って、塗って塗って塗りまくったのです。来る月も来る月もその次の月も.....私は足場には登りませんが、毎月ひとつの版画を200枚仕上げます。20回摺りの作品もあって...これば労働?その通り!

これが働くということなのです。つまり、創造的な捉え方ができたら、それからは、手を使って働き、構築した概念を実際の物に具体化していく。どなに長い時間が掛かろうともです。両方ができなくては!そして、もしもこれができないのなら、あなたは選択分野を間違ったということです。それに結果を考えてください。無造作に銀行や事務所の壁に掛けられるたったの何枚かを作るのでなく、真に欲しい人が、あなたの作品を集め、純粋に個人的な楽しみとして買ってくれるでしょう。

ゲスト: 忠告しますけど、限定番号がなかったら、あなたの版画を置かない画廊が出てくるでしょうよ。

デービッド: 私は画廊で自分の作品を売ってもらおうとは思っていません。今日の画廊が一番重点を置いているのは、"美術品"や"エリート的なもの"などのお高くとまった物です。多分世界のどこかには、純粋に芸術家と消費者の間を取り持って、その過程で双方間の理解深めるよう、中間に立つ存在価値を示せる画廊があるかもしれませんが、そんな画廊はごく一部でしょうし、あっても双方から遠いところにあると思うのです。

ゲスト: それじゃあどうやって作品を売るんですか。芸術家は自分で画廊を開くんですか。
デービッド: 私のような例はどうでしょう。私は、版画をはじめた時から、作品は直接、私の手から収集家のところにお分けしてきました。一年に一度(1月に)この展示空間を借りて、自分の作品を並べて注文を受けるのです。私は物理的に空間だけを借りるのです。会期中、画廊専属の人はだれも会場に出てこないことにお気付きでしょう。私が、ひとりですべてを取り仕切っているのです。この会期中の一週間が、その一年の収入と生活水準を決定するのです。最初の頃はなにもわかりませんでしたから、版画からの収入はすくなくて、他の仕事もしなくてはなりませんでした。でもここ10年以上はそんな必要はなくなりした。ですから、できるんです。人を引き付ける作品を作り、値段をほどほどのところに押さえて、出版も宣伝もすべて自分でするので、限定番号などという馬鹿げたことにこだわる人ひとりもいません。
ゲスト: ブルさんなら容易いことでしょうが -- 日本に住んでいますから。おっしゃるとおり、日本の伝統版画には限定番号なんてありませんでした。でも外国では事情が違うんですよ...

デービッド: その反論だけには、自信をもって答えることができませんねえ。そう、私のやり方はここ日本だから通用するです---でも他所でも通用するかなあ。でも、きっと大丈夫だと思いますよ。

限定数を決めずに摺ったのはもうずうっと昔のことでした。今世紀の初めにはもう、日本の版画家達は限定数の習慣を取り入れていましたから、そうしないなんて事を考える作者はいなかったでしょう。版画製作と販売のすべては外国とまるで同じように確立しています---すべてが限定数を基本になっています。

ですから、ここで生き残っていけるのなら、どこでだってやっていけるはずです。もちろん、推測にすぎませんが。この議論を展開する意味があるのなら、こういうこともあります。私の収集家の25パーセントは日本以外からなのです。(アメリカ人、ヨーロッパ人、オーストラリア人...)ほんとうにどこでも大差ないのです。

ゲスト: そうですか、じゃあブルさん、これからの数年の幸運をお祈りしますよ。アジアの経済はここのところかなり不安定だから、うまく生き残れるようにね。
デービッド: ありがとう。先のことはわかりませんよ--もしかしたら、また近いうちに英語を教えるようになっちゃっているかも!木版画で食べていくのはだれにとっても生易しいことじゃありませんから。でも、ま、今のところはなんとか....

一緒に話をしてくれてありがとう。楽しかったですよ。

ゲスト: じゃあ、もうちょっと拝見しますよ、もしもかまわなければ....。
デービッド: どうぞごゆっくり御覧下さい。


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