デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 2000

私が、郵便物の差出人のところに押すゴム印を買っているハンコ屋さんは、ここ数年商売が繁盛していることと思います。まず羽村町が羽村市になった時、新しいスタンプを買わなければなりませんでした。そして、郵便番号が7桁になった時、次に電話の市外局番が変わった時。そして今回また新しいスタンプを注文しにいかなければなりません、今月また変更があったのです。でも今回は、私の方に原因があるんです!住所も電話番号もみんな変わります。そう、このアパートには14年間...一箇所にこんなに長く住んだのは生まれて初めてです...が、ついに引っ越すのです!

引越しは展示会の時期と重なるので、ご想像がつくとおり、おもしろいニュースレターを書くための時間があまりないのです。というわけで、この号はいつもよりページ数が少なくなっています。しかし、版画のほうは仕上がりつつあります、まだこまごました用事はいくつか残っていますが。手紙の返事を書くとか、帳簿をつけるとか...

でもそういうことを片付けるための時間はまたあるでしょう(そう願います!)。今は、このアルバムの最後の作品を仕上げて、展示会の準備をする時です。展示会でみなさんにお会いできることを楽しみにしています!

ハリファックスから羽村へ

その長かった夏も終わりに近づき、この後どうするかを考える時がきました。この先ずっとキャンプを張ってスカイダイビングをしているなんてことはできませんから!最初に決めなければならない最も重要なことはどこに住むかということでした。この2年間、トロントに住んでとても楽しかったのですが、どうしてもここにとどまりたいと思うほどの理由はありませんでした。そこで、カナダの西、バンクーバーへ戻ろうと考えました。バンクーバーの楽器修理店で数年一緒に働いていた友達とはずっと連絡をとりあっていたのですが、彼が「ついこの間バンクーバーで買った家の地下室に住まないか」と持ちかけてきたのです。彼がそんなふうに頼んだのには理由がありました。その部屋を使うにはかなり手を入れる必要があり、私ならそれができるとわかっていたからです。その代わりとして、数ヶ月間無料で部屋を提供してくれる、というのでした。私はその申し出を受け入れ、9月の半ば頃にバンクーバーにもどる、と伝えました。

こうして住むところが決まった後は、夏の終わりの数週間、スカイダイビングクラブでとても楽しく過ごしました。何ヶ月かスカイダイビングをやって技術的にも少しずつうまくなっていました。「専門家」のレベルではありませんが、ある種の能力を身につけたことは確かです。というのも、他の多くの人たちとちがって、私はそこに「住んで」いて、毎晩都会に帰る、ということがありませんでしたので、いわば非公式なスタッフのようなものになっていて、あらゆる道具を使っていろいろお手伝いしていたからです。週末になると、たくさんの人たちが「初めてのジャンプ」をするためにやってきました。彼らが使ったパラシュートはいつも布とロープがぐちゃぐちゃにからまって小屋にもどってきました。このからまりをほどき、2,3分後にはきれいにたたんで次の人が使えるように詰めなおすのは私の特別な楽しみになりました。誰かが、自分の詰めたパラシュートをつけて、最初のジャンプをするために飛行機に乗り込んでいくのを見るのはなんともいえない気持ちです...

しかしついに、テントをたたんで町の生活にもどり、西への旅をするための手配をしなければならない時期がきました。今まで何度も飛行機で行き来をしたことはあったので、今回は列車で行くことにしました。カナダに来てから一度も大陸横断列車に乗ったことはなかったので、ゆったりとした列車の旅はとても魅力的に思えたのです。切符を買って、指定の日に駅へ行き、トロントに別れを告げようとしました。しかし列車に乗り込もうとした時に、ちょっとした問題がおきました。自転車を持っていきたい場合、あらかじめ荷物車にきちんと積み込んでおくために、乗車日の前日までに駅に持ってきておかなければいけない、という規則があったらしいのです。私はそれを知らなかったので、自転車を持って乗り込むことが許されませんでした。自転車を捨てるつもりは到底ありませんでしたので、私は翌日の切符に変更せざるをえませんでした。これはなんでもないことのように見えます...単にトロントでもう一夜を過ごし、お気に入りの日本料理のレストランを訪れただけ...

ところが、この列車会社の規則が思いもかけない結果をもたらすことになったのです、これまでの私の身に起こったなによりも思いがけない。というのは、翌日、駅にもどって列車に乗る列に並んでいた時、たまたま隣に並んでいた女性と目があったのです。彼女は私に微笑みかけました...そして私も微笑み返した、と思います。彼女の服装は私とよく似た「学生旅行スタイル」で、小さなリュック、鮮やかな色の薄いブラウスにジーンズ。私達は言葉を交わすことはしませんでしたが、列が前に進んで列車に入り込み、みんなが自分の席と切符の番号を確かめ始めた時、私は彼女がどこに座っているかを書き留めました。私の数列前の反対側の席でした。

この話の続きはもう想像がつくのではないでしょうか。カナダを電車で横断する旅は約3日かかります。最初の日の夕方までに、車掌と少し交渉して、彼女の席を替えてもらい、彼女はその旅の間、私のとなりの席で過ごすことになったのです。

そしてもちろん、私達がともに過ごした「旅」は3日より長く続くことになりました。というのは、彼女が私との間にふたりの子供をもうけることになる女性だったからです...

進行中

ちょうど一年前、このニュースレターで、狭くて窮屈な生活空間に甘んじるしかないことへの、やるせない気持ちをこんなふうに綴りました。「どの部屋にも版画の道具や本、その他の材料が詰まってますし、版木は至る所に積み重ねられています。押し入れの中も版画や版木でいっぱいで....」住める可能性のあるところを見て廻ったりしたこと、でも、そこそこの便のある場所に持家を得るなどというのは、木版画家の収入では程遠い、ということについても書きました。望みはまるで捨てた、とは言わないまでも、心の奥の方に押しやったことは確かでした。どうにも成らないことにいらいらしても意味のないことですから。

この号でもまた、「家の状況」について話したいと思うのです。でも今度はもっと良い知らせで、つまり、欲しいと思っていた、自分にぴったりの家が売りに出ていたのです。そればかりか、資金のやり繰りも付いて契約も済みました。今や私は、羽村の隣にある青梅の、閑静な一角にある4階建て(地上2階、地下2階)の家の持ち主なのです。

11月のある日のことでした、貞子さんから面白いことを聞いたのです。彼女がたまたま耳にしたことに、ある芸術家が持家を売りに出しているというのです。それが青梅だったので、彼女はすぐ私に電話をしてきました。どうせ自分が望むような家じゃないだろし、いずれにしろ高くて私には手がでないだろうとは思いましたが、とりあえず見に行くことに同意したのです。

行ってみると、一見どうということもありません。ごくありふれた2階建ての家で、ダイニングキッチンと、いくつかの部屋があり、使える空間から見れば今の私のアパートと大差ありません。ところが、2階に行く階段のすぐ脇にもうひとつ階段があって、それは下に向かって伸びているのです。持ち主の後について降りていくと、10秒もしないうちに....私の気持ちが決まりました。これこそが求めていたところだったのです!

前から見たのでは分からないのですが、この家はとても急な斜面に建っているために、普通の2階建ての部分に加えて、その下にもまだ部屋があったのです。道路より下になっている部分は所有地の後方に向かって開放されていて、小川とその向こうに広がる緑が一望できます。この見晴らしの良さに加えて、宅地がかなり急な斜面なので、しっかりとした基礎を作るために岩盤まで届くよう、建築業者は4メートルもの高さのある部屋を作らなければなりませんでした。この部屋は(私は地下室とは言えません、なぜなら北からの光線がたっぷり差し込むんですから)それだけで現在の私のアパート全体と同じくらいの広さがあります...そして、その下にも、もうひとつ階(部屋)があるのです。

自分の目が信じられませんでした。広い空間、高い天井、たっぷりの光り、頑健なコンクリートの構造、4階建て...これだけではありません、ゆったりと静かに流れる川、あたり一面の緑、道路の騒音はまるで聞こえず、しかも青梅駅まで歩いて20分、この駅からは1時間おきに青梅特別快速が東京まで直通です。

私は、気持ちをおさえて興奮しすぎないようにしました。なぜなら、どうなるかはわかっていましたから。当然なにか落とし穴があるに違いない ...ここは東京、東京の地価はバブル時代の高値は去ったとはいえ、まだまだいい値段で...自分の懐具合では無理だということは、わかっていたのです。

ところが、上の階に戻り、ダイニングに座って持ち主と売却の詳細を聞いてみると、彼が切羽詰まった状態にあることが浮上してきたのです。彼は家を売らなくてはならず、それもただちに、実際のところ数週間以内に決めなくてはならなかったのです。彼は、1995年に購入した時の買い値の半額以下の値段、1800万円という値を申し出ました。自分でも当惑したのですが、私がなんとか工面できるかもしれない額だったのです。自分の口からそんな言葉が出たなんて信じ難いのですが、資金の調達いかんによっては買うことも考えられると話しました。

次の日の朝9時、私は行きつけの銀行にいました。必要と思われる資料を全て入れたケースを抱えて。住宅ローンの窓口に行き、借り入れを申し出ると、ふたりの担当者は顔を見合わせた後、私の方に向き直って、...「あのう、外国人の方は...」私は、外国人が不動産を取得したり家のローンを組んだりするのになんら法的な障害はないということを知っていましたから、ガンとして主張を続けました。彼等は電話であちこちに問い合せ、支店長と相談をして(この支店長は肉筆の浮世絵の蒐集家で、たまたま知り合いでした)ことの次第を詳しく話し始めました。

次に来たやっかいなやりとりは、所得税支払いの確証に関してでした....「あのう、お気の毒ですが、ローンは所得税を払っている方に限られておりまして ...外国人の方は、そのう...」これを聞いて私は、おもむろに荷物入れを開けると、過去14年間の確定申告書を取り出して見せたのです。どうやら彼等は、日本に住んでいる外国人は税金を払う必要がないものと、勘違いをしているようでした。私達はこの国に住む他の誰もとまったく同じに税金を払っているのですから、これは大きな間違いです。日本に来た最初から、所得税、都民税、市民税、それに個人事業税を支払い、国民健康保険にも加入しています。(国民年金は自分の意志で入っていませんが、希望すればこれにも加入できます)

融資担当の人たちは、書類の束に目を通してやっと私の要望を真面目に考え始めたようです。私達は、借り入れの額、不動産の担保物件としての価値、私に払える頭金、過去何年間における収入の額、などについて試算をはじき出しました。計算してみると、ローンを提供できない理由はなにもない、という解答がでたのです。

私は、1200万円を年2.9%の利率で10年のローンに組みました。こうすると、毎月の支払いは現在の家賃よりほんのちょっと高くなるだけです。公式に申し込みをして、数日後には返事がありました....受諾です。保証人の必要もなく、私自身の信用で十分でした。

こうして私は、家の所有者と売買契約を交わしました。私達は不動産屋を通さずに個人間で売買した為に、おびただしい枚数の書類が必要でしたが、とても有能な司法書士が間に入ってくれたお陰で、すべての事務手続きが完了し、不動産の権利証が自分の物になりました。49歳にしてとうとう、私は自分の持家を手にしたのです。(支払う税金のリストには、新たな項目が次々と加わりましたが)

それにしても、何という時に新居を購入したのでしょう。展示会までたったのひと月かそこら、おまけに版画製作の予定にはかなり遅れが出ています!もう仕事の中断は絶対にできませんから、この羽村のアパートは1月の終わりまで保持して、展示会が終わってからやっと、青梅への引っ越しを済ませることになることでしょう。そして、広いコンクリートの部屋を、温かくて快適な住まいと仕事部屋に改装する長い工程が始ります。

実際、望むように仕上げていくには、長い時間がかかるでしょうが、なにも急ぐことはありません。外側にツタを這わせて、むき出しのコンクリートをゆっくりと覆っていき、同じようにゆっくりと確実なペースで、作業台や本棚を作り、思い描くその他の装備もすべて作って...

私は運が良いのでしょうか?ええ、きっと、かなり幸運でした。でも、何年もの間、一生懸命仕事をしてきたという背景があればこそ、巡ってきたときに運を掴むことができたのです。そして、当然のことですが、長年にわたって私の版画を集めてくださった皆様のお陰でもあります。新居公開のパーティーに皆様を御招待するにはまだ時期尚早なので、もう暫くお時間をください。小川のほとりの工房、「せせらぎスタジオ」を公開する時は、お知らせいたしますので...

このところ、このニュースレターの翻訳をしてくれているふたりの女性にお礼を書くのを忘れています。みなさんのなかには、14年間も日本に住んでいたなら、このくらい自分で日本語で書けるんじゃないかと思われる方もいるのではないかと思いますが、そんなに簡単ではないのです!でも、私の日本語で書く能力が十分でないとしても、別段悪いことだとは思いません。1日の時間は限られていますし、私はかなりうまく使っているほうだと思います...それに、会話についてはかなりうまくできるので我ながらすごいと思っています。人と話すことができれば私にとっては十分です。書くほうはプロにおまかせします!そんなわけで、石崎貞子さん、土井昭美さん、お礼を言っていなくてすみませんでした。

でも、ふたりとも、自分のしていることがどれほど私にとって、そして読者の方々にとって意味のあるものなのか、わかっておられることと思いますが!