デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1999

私が日本に来て18年が経ちましたが、ここでの私の生活と仕事のことで、未だに驚いてしまうことがあります。外国人が伝統的な日本の工芸に取り組んでいると、日本人から珍しがられることです。私が思うに、これは全然、珍しいことでも特別なことでもありません。若い日本の学生がフランスの芸術を学ぶためにパリに行ったとしても、そこの誰も何とも思わないでしょう。フランス人は、自国には素晴らしい芸術的伝統があるのだから、他国からそれを学びに来る人がいるのは当然だと思っているわけです。日本の人達はどうしてそんなふうには考えられないのでしょうか。これは私にはちょっとした謎です。日本の鎖国はとっくに終わっており、多くの外国人がここへ勉強しにやってきています。もう「ありふれた」ことになっていていい筈です...

それなのに、まだまだ感動してくれるのです。私の友人の写真家井上和博氏は、日本に住んで伝統的な分野で仕事をしている外国人についての写真付きのエッセーを、日本の新聞や雑誌に、よく載せています。昨年、彼は、そんな私達21人を紹介する本を出版しました。木版画家、鍛冶屋、音楽家、舞踊家、料理人...これは「日本を継ぐ異邦人」というタイトルで、中央公論社から出ています。

こういう、伝統文化を受け継ぐ外国人達をどう思われますか?もし、私達の活動に興味がおありなら、井上さんの本はおもしろいかもしれません...

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

この欄で何度も言ったように、何か新しいことを始める時、私はいつも分析的な方法でやってみます。つまり、「これはいったいどういう仕組みになっているのか?」ということを理解しようとするのです。今振り返ってみると、こういうやり方が適当な場合もありましたが、「これではどうやっても失敗することになる」、というものもあったのです。そして、サックスに対する私の取り組み方は、まさにこの後者の方でした!

私は有名なサックス奏者のソロを分析した本をいくつか買いました。「ジャズの即興演奏入門」というレコードも買いました。手に入れることができるものは何でも買いました...そして「練習時間」には譜面台を取り出して、それらの本のひとつを広げ、その楽譜を見て吹きました。父がこれを読んだら、どう思うでしょう。あきれて首を横に振るか、この馬鹿さ加減を笑い飛ばすか...ジャズサックスの演奏法を目から学ぼうとするなんて!ジャズを学ぶにはよい演奏を聞くこと−そして自分でそんなふうに演奏してみる−そしてもっと聞いて−また自分でやってー更にまた聞いて...そうやって段々と自分独自の演奏スタイルを確立していくのです。それなのに私の使った主な道具は鉛筆と紙でした...

私のしたことで有益だったこともありましたが...私は、地元のある素晴らしいサックス奏者−フレーサー・マクファーソン−の大ファンでした。それで自分の練習のために、彼のレコードアルバムのひとつからそのソロ部分を全部、ていねいに楽譜におこしました。この長い楽譜ができあがった時、地元のたくさんのサックス奏者達がこれを欲しがりました。私はフレーサーの許可を得て、これをコピーし、かなりの部数を売りました。こういった活動はもちろん良い練習になりましたが、結局の所、私は分析に時間を使いすぎて、演奏には十分な時間をとらなかったのです。

定職を持たなかったこの何年かの間、私はいつも翌月の家賃を払うための仕事を見つけようとしていました。相変わらず子供達のバンドの指揮は続けていました。ある夏、その保護者会が「サマーキャンプ」を行うことを決めました。このキャンプは地元の学校で行われ、子供達には夏休みの間の練習場所を提供し、親達には夜の演奏クラスを、そして更に、大きな子供達には特別の「ジャズグループ」を作らせたのです。父は笑っていることでしょう。何もわからない者が何もわからない奴等を指導しているとは!

でも、実はとてもうまくいって、私達はとても楽しんだのです。とりわけ、ジャズグループは成功でした。私達は地元の公園でコンサートを開けるほどにまでなったのです。夏の終わりが来た時、子供達はこのグループを終わりにしたくない、と言いました。そこで、私達はキャンプバンドを本物のジャズロックグループとして、週2回、夜、練習を続け、また演奏する場所を探し始めました。

ジャズロックグループには指揮者は要りません。ですから、夏の終わりにグループが再結成されて、ベースギターを弾く者が誰もいないことに気づいた時、私はベースギタープレーヤーとしてグループに加わることにしました。グループのなかで最年長だったので、名目上は私がリーダーで、楽譜のアレンジのほとんどは私がやりました。たいていはその時流行りの歌からでした。

でも、「そのグループはうまかった」と言ってしまっては嘘になってしまいますね!メンバーはみんな経験不足だったし、ほとんどはまだ高校生だったし、リーダーのベースプレーヤーはロックバンドを率いるのにうってつけのタイプではありませんでした。私達の創り出す騒音はひどいものだったでしょう。でも、私達はとても楽しんだのです。ナイトクラブで演奏することこそできなかったものの、学校のダンスパーティなど地元で何度か演奏する機会がありました。

そういうわけで、私の、クラシックのフルート奏者からの「転向」は完了したかのように見えました。ここに、ロックバンドでエレキベースを弾く私が誕生したのです!あの頃の写真があればいいのですが!

次回へ続く...

版木の夢 (その二)

前回、この話の最後で「そんなことが起こりえただろうか」と書きました。果たしてそれは夢だったのでしょうか?いいえ、現実だったのです。そっくりその通りの事が起こったのです。

* * *

その後、版画出版社の経営(版元)は子息に移った。私がこの版元を初めて訪ねた時(今から20年程前に)、ことのほか親切に対応してくれた。当時の私は木版画についてずぶの素人で、何枚かの版画を見、自分でいたずら紛いのことをしたことはあったが、技術の本質に関しては何も分からなかった。訪ねて行ったのは、彼が出版していた版画を何枚か購入する為だったが、思いもよらない収穫を得る結果となった。伝統的な木版画家になりたいのだと私が言うと、彼はあざ笑ったり、気を削ぐようなことは一切口にしなかった。それどころか、どこで道具や材料を手に入れたら良いかを教えてくれたり、在庫の中からまだ使っていない版木をくださったりもした。その後も、私自身が版画出版をしていることもあって、分からないことを尋ねると、いつでも快く助言をしてくださったり、教えてくださったりしていた。そんな関係が続き、この間も版下の作り方のことで教えを乞うために訪ねた折り、例の版木のことを初めて知ったのだった。

この訪問の時も、版元は彼のやり方を隠しだてなく、喜んで教えてくださった。彼の会社で行っているいくつかのやり方を説明するのに、次々と版木や版画を出してくる。やがて話題は、版下の作り方から彫り全般のことに移り、たまたま私の尋ねた質問に答えるため、近くの棚に行き、古い版木を手にして戻ってきた。それはかなり大きな版木で、私に向けて差し出されると、すぐにそれが有名な橋口五葉の「化粧の女」だと分かった。(彼の会社は五葉の復刻版では名が通っている。)

その版木を手元に引き寄せ、目を近づけると、それはすごいものだった。美しい絵をきれいに彫っただけの代物ではなく、彫り取ったあとが細部に至るまでみごとに均一な面になっている。これは非常に特別な方法で彫られていて、しかもこの版木はまるで使われていなかった。表面には薄く墨が付いていたが、これは試し摺りのためであって、繊細な線がどれもすべて剃刀のような鋭さを保っていることが、出版用として使われていないことを物語って

版元はその版木のいわれを説明して下さったのだが、私はほとんど何も聞いていなかった。ただひたすら目の前の板に心を奪われていた。この様なものを現実に見ることができるなんて、よもやあるまいと思っていたのに。タイムマシンなんて存在しないことは誰でも知っている。だとすれば、過去にさかのぼって彫師の仕事場に行き、彫り上がったばかりの版木を見るなんてことはできないはずなのだが、それが、今こうして目の前にある。信じられない。

現実に、それは私の手元にあった。私は、その彫をできる限り記憶に留めようと、無我夢中だった。このまつ毛を彫る時にはどんな角度で彫刻刀を持ったのだろうか、この着物の大胆な線を彫った時はどの程度の深さまで....その版木から吸収することはあまりに多すぎ、時間はほんの少ししかなかった。

当然のことながら、1、2分の後には版木をテーブルの上に戻さなくてはならず、そのまま彼と話を続けた。やがて何時間かたち、私たちの話にひと区切りついて、版元が版画や版木を片付け始めた時、私はもう一度、彼にその版木を手にとって見てもいいか尋ねた。そして再び、目のあたりにしている物をできる限り脳裏に留めようとした。しかし数分後には片付けが終わってしまったので、しかたなくていねいにお礼を言って返すと、彼が棚の上に戻すのをじいっと見つめた。それから私達は、昼食に出たのだが、「振り返るな!」と強く自分に言い聞かせながら部屋を出た。

その夜、家に戻ってからも、版木のことを脳裏から払うことはできなかった。版元に頼んであの墨板に続く色板を彫らせてもらえないものか、と考えあぐねた。そうすればあの版画が日の目をみるだろうと。でも、考えれば考えるほど、あの墨板はそういった形で使われないほうが良いということが分かってきた。世界中には、似たような版画も、使用された版木もたくさんある。でも、あのようにまだ使われずに残されている版木は、たとえあるにしてもまれだろう。あの版木はあのままにしておいたほうが良いのだ。おそらく、何年も前に先代の版元が版木を棚にしまったそのときに、こう考えたのかもしれない。「未来への贈り物としよう。後の世の彫師がじかに見て観察し、そこから何かをつかみ取れる、まれにみるチャンスを与えるために。」

翌朝、投函した版元への手紙に私は、時間を割いて付き合って下さったことへのお礼と共に、次のように書いた。

「....今回、中川木令氏の「化粧の女」の墨版には、衝撃的な感動を覚えると同時に、なんとも複雑な思いを抱いております。あれ程の仕事をするにはもっと努力を積まなければという、奮い立つ思いが沸き出る一方、あそこまでの域に達するなどとは途方もないこと、と気落ちする思いもあるからです。あれほどお時間を割いて戴いたすぐ後でこんなことをお願いするのは大変心苦しいのですが、ひとつお願いがあるのです。と申しますのは、あの墨版を見たときの感動を他の方達にも伝えたく、その記事を季刊紙として発行しております『百人一緒』の冬号に書いてみたくなったのです。それで、その墨版のクローズアップ写真が欲しいのですが、夏の間にでも、いつかご都合のよろしい時に、写真を撮りに伺えますでしょうか。身勝手な思いと重々承知の上で、この私の思いを分かって戴きたいのです。あれほど素晴しいものを手元に置くなどということは努々かなわないまでも、せめて、あの彫られた線をクローズアップした写真を仕事台の間近に置けたら、叱咤激励の源となるように思えるのです。......」

この手紙を書いた後、私はコンピューターに向かって、この話の「その1」を書いた。記憶ができるだけ鮮明なうちに、感じたままを書き留めて置きたかったから。そして、夢を見続けた........。

二日後、版元からの電話が鳴った。私は彫り台に向かっていたのだが、彼の申し出のあまりの唐突さに、まるで耳を疑ってしまい、彼の話を聞きながら、日本語を聞き間違えてやしないかとものすごく緊張した。きっと何かの間違いだ。彼の言うに、私が尋ねていって版木の写真を撮る代わりに、なんと、送るというのだ。観察して彫り方をじかに探って、都合のいいときに写真を撮ればいいと。もちろん、下さるというのではないが、納得のいくまでこの私の部屋に置かせて下さるとは、なんと寛大な人なのだろう。この地球上で、その版木を誰よりも愛で、鑑賞する男のいるところに。他の誰よりもその版木を貪欲に読み取ろうとする男のいるところに。

* * *
 

小包は今日の昼、今から3時間程前に届いた。包が届いたときには人が来ていて、もちろんその人達も見たがった。でも、今は、僕だけが、この版木と二人だけ。静かに、とてもしずかに。

版木は座卓の上に置かれ、窓から差し込むぼんやりした明りの下にある。部屋の電灯はすべて消えている。これこそが版画の味わい方なのだが、それはまた、版木の見方でもある。もう急くことはない、数分もしたら会えなくなってしまうなどと慌てることもない。

どこから見ていこうか......。そんなことはどうでもいいや。どの線一つをとっても何かを教えてくれる。左下の方、着物の線の所では、絵師が線の表と裏をかなり違った感じにするよう要求したのだろう。彫刻刀の先が線に沿って動くに連れ、中川さんの手首が動いていく様子が手に取るように見える。この花模様の所では、不必要な部分を取り除くのにどれほど薄く削りとったかが見える。同じ様な模様を彫る時、僕は明らかに深く彫りすぎている。そして当然の事ながら、私の目は飽くことなく上の方に向かい、髪へとたどる。ここで目にした物をなんと説明したら良いのだろうか、言葉が見つからない。繊細?細い?本物のよう?こういった言葉ではとても言い尽くせない。私自身、ただ唖然とするのみで、ここから何かをつかみ取るにはあまりにも......。

少なくとも、まだ今のところは。でも、この版木のお陰で、私はもう霧に包まれた坂道で盲滅法に頂上を目指す登山家ではなくなった。雲は晴れてどちらの方向に進めばいいのか、どの方向に登って行けばいいのか、はっきりと見える。

だが、私の登っている山に頂上はない。登山家とは違い、こつこつ登り詰めても、頂上を達成するという喜びに浸ることは一度としてない。その代わり、現実の登山家のように、山を降りる必要もない。私の旅は前進のみ、そしてひたすら上方へと、限りなく続く。

* * *

これで、話はほとんど終わりです。私の彫りの腕は、ゆっくりでも上達しています。あの日私は、版元の事務所で最近作を見せたのですが、褒めてはもらえませんでした。それは、彼が正しかったのです。言葉に出さなくても、おそらく、この貴重な版木を私に預けるという事で、まだ私に望みがあるということを暗示しているのだと思うからです。私はこの版木から、心を奮い立たせる何かを感じます。いつの日かこの版木が、どこかきちんとした施設に保管され、版画を摺るのに使用される危険のない、安全な状態に置かれるといいと思います。この版木には何にも替え難い価値があるのです。もしも私に発言の力があるのなら、国宝として扱われるに値すると主張したいくらいです。だから一時的にせよ、この宝物を手元に置けるということには、言い尽くせない喜びと満足を感じています。「版元、貴兄が私を信用し、寛大な配慮をしてくださったことへの、私の感謝の気持ちは、どんな言葉を以てしても言い尽くせません。いつかきっと、御親切に報いるような作品を作を作ってみせます。」

カナダからのメッセージ

もうカナダに引っ越して3年になります。前のニューズレターを書いた後もいろいろなことがありました。

私が、7年生になったとき、私の英語がよくなったので、今通っているESLの学校からふつうの学校に変わりました。始めはちょっと心配だったけど、けっきょくはいいきっかけでした。始めは友だちを作るのがたいへんだったけど、ESLの学校から私のように、ふつうの学校へ来た子がいたのでだいじょうぶでした。たまたま、とってもいいブラウン先生につきました。なぜなら楽しいことをいくつも教えてくれたからです。ほかの先生が生徒をプールにつれていってるあいだには、ブラウン先生は、私たちを、二泊三日のスキー旅行につれていってくれました。ブラウン先生は、ほかにセーリングにもつれてってくれました。セーリングに行く前にセーリングのことを色々教えてくれたのですが、今でも全部おぼえています。あるとき、ベースボールゲームにもつれてってくれました。私はベースボールについて何も知らないから、とてもつまらないことになるだろうと思っていましたが、セーリングの時と同じように行く前にベースボールについていろんなことを教えてくれたので、とても楽しかったです。その年おもしろかったのは、フィルドトリップだけじゃなくて、スクラブルや、クロスワードパズルとかゲームやパズルすることでした。そしてそれらからいろんなことを学びました。

この年もう一つ忘れられないことがありました。私の一番の親友、あきなが一年間一緒に住むために、日本からカナダに来ました。どんなにラッキーなことか想像できますか?毎日おとまり会のようなものです。夢が実現したきぶんでした。それはあきなの考えと、あきなのお母さんも日本の外で生活する経験をすべるきだと考てくださったからです。想像したとうりすばらしい一年でした。いろんなことを一緒にしました。裏庭にツリーハウスを作り、よく利用しましたが、今はネコのミミだけが使っています。私たちはジムナスチックが大好きで、夏はしばふの上で練習しました。けれど冬は毎日雨が降るのでガレージをジムナチックの練習場に変えました。その時は車がなく自転車をおいてあるだけだったからガレージを使うことはまったく問題がありませんでした。ガレージの壁を全部ピンクに塗りドアに私達三人の名前(Akina,Himi,Fumi)と書きました。毎日夕方ジムナスチックの練習にガレージへ行きました。

クリスマスに父からビデオカメラをもらってから三人で映画を作りました。ストーリーや役も全部作りました。とってもうまくできあがりましたけど今見ると少しはずかしいです。もう一つ映画を作るつもりでしたが時間があまりにも早くすぎてしまい作ることができませんでした。あきなは今、日本にもどっていますが2人にとって、とても良い思い出ができました。

7年生を終わり8年生を始めるのは大きな変化でした。小学校が終わり、たくさんの上級生と一緒の大きな学校へ通います。突然、私はたくさんのことをおぼえなければなりませんでした。たとえば私のスケジュール、それぞれのクラスがどこであるか、誰が先生かなどです。それぞれのクラスで違った生徒と一緒になるので友達を作るのがとても大変でした。いくつかのクラスでは小学校の時に知っていた生徒がいましたが、ほとんどのクラスでは、誰も知りませんでしたから、新しい友達を作らなければなりませんでした。

たくさんいいこともありました。たとえば自分のロッカーをもらったり、自分で科目を選べたり、たまにおべんとうのかわりに、学校でお昼ごはんを買ったり、又、姉と同じ学校なので一緒に行くこともうれしかったです。

前のニューズレターのストーリーから御存知のように姉の日実は、フィギュアスケートをしています。今は私もやっています。最初、私はジムナスチックとスケートを毎週一回ずつやっていました。その後スケートがだんだんうまくなってきて一週間に一回ではたらなくなったので、三回に増やしました。お金や毎日のスケジュールが問題になってきたのでジムナスチックかスケートか、どちらかを選ばなければならなくなりました。両方やりたかったけど、それはできないのでスケートを選びました。これには、いろいろ理由がありました。日実もスケートをやっていたから、アイスリンクへ一緒に行くことができるし、スケートについての話しや、経験を話し合うこともできるからです。又、ジムナスチックの基本は家の裏庭で、いっぱい練習できるけど、スケートは家ではできません。

日実と私はいろんな大会やホームクラブのショーに出ています。今までのところ、私は二つの銀メダルと一つの銅メダルを獲得しました。来年はもっとスケートを楽しみたいと思っています。

私は、カナダでとても楽しくすごしています。楽しく読んでいただけましたか?

***

2年前、私は父のニューズレターのために小さな話を書きました。それからいろんなことが変わりました。ほとんどは学校とスケートです。

前の話で8学年の時は、ESLに行っていることを書きました。9学年では私の英語がすごく上達したので二つしかESLのクラスはありませんでした。他の授業ではカナダ人といっしょにクラスに行きました。友達をつくるのが、すこしかんたんでした。最初の友達はデンマークから来た男の子でした。

10学年になったときは、ぜんぜんちがっていました。ESLは一つもなくて勉強がもっとたいへんになりました。一ついいことは富実も同じ学校に入学したことです。毎日、いっしょに学校に行きました。けれど学校が始まって2、3ヵ月たったころ私の目がへんになってきました。何人かの眼科医に診てもらって「ハラダ病」だと言われました。ステロイドホルモンの大量投与が始まり、これはとてもいやな副作用がありました。お腹、ふともも、そして最も悪いことにあごのまわりや顔に水分がたまりはじめました。

初めはよかったんだけど、薬をのみつづけているとだんだん太ってきました。1月に父の完成展示会のために日本へ行った時は私の様子はひどいものになっていました。体にたまった水が私が、あたかも食べすぎているかのように見えましたが、本当はそうではありませんでした。学校ではとてもうんざりでした。というのは私はキユートな女の子の1人でしたが、食べすぎの太った子に見えるようでいやでした。数ヵ月これ以上ストレスにたえられなくなって学校へ行くことをやめて通信教育にかわりました。このことはうれしくて楽しみでした。最初1人でちょっとさみしかったけど、自分のペースで勉強できるとわかっていい気分になりました。そして2匹のネコはいつも私のそばにいました。

私は学校から送られて来た数学、社会、美術、英語、科学、等普通の学校教科をワークブックと教科書を使って勉強します。私は自分でスケジュールを組み各セクションが終わると採点してもらう為に学校へ送り返します。その学期が終わると学校へテストを受けに行きます。学期末までにすべてをおわらせるのにとてもいそがしくすぎていきました。私はついにもっともっとやりたかったようにスケートに集中できるようになり、とてもハッピーです。

私の、日々のスケジュールはおもしろいものです。午前中はスケートにいって午後に勉強して、夕方6時ごろアイスリンクに戻ります。前のストーリーでスケートをしていることを書きました。私は本当に真剣にやるようになってきました。初めは10人の他の子供達とのグループレッスンでしたが、急速にうまくなったのでコーチが個人レッスンをうけるようにすすめてくれました。私の初めのコーチはジオバニで彼にシングルジャンプを全部おそわりました。後で女のコーチにかわりダブルジャンプをおそわりました。近くのアイスリンクでの大会に出られるようになり、金メダルを2つ獲得しました。今は、またべつのコーチになり、他のアイスリンクに変わりがんばっています。もうすこし上達したら州大会に出られます。来年は過去2年とまたずいぶん違う年になるからそれをすごく楽しみにしています。

今年がこんな「仕事の年」になるなんて!年の初め、展示会やら新しく摺物アルバムを始めることやらで忙しくなるだろうとは思っていましたが、2、3ヶ月したら落ち着いてくるだろうと思っていました。しかしそうはならなかったのです。「忙しい季節」は1年中続くことになりそうです!

どうしてそんなに忙しいのでしょうか?もちろん、新しく始めた「摺物」は、私が今までやっていた版画以上に時間がかかります。彫りを始める前に、ひとつひとつの絵の線を丁寧に描き直します。ほとんどの作品で摺りの回数は15回から20回となり、使う色の数も大幅に増えました。それに、ひとつの作品につき200枚摺っています。つまり、前のシリーズの2倍です。これにも時間がかかります...

これに加えて、毎月、百人一首シリーズの版木をいくつか取り出してきて、摺りをしています。1月の展示会で、このシリーズのことを初めて知ったという収集家の方達がたくさんおられました。そしてこの作品を欲しいと言って下さる方々に「ノー」とは、とても言えません...

時間をとられてしまうもうひとつは、講演会や実演などの広報活動です。私はそれほど話が上手くはありません(日本語では!)が、こういったことはおもしろいし、私の仕事を理解してもらうためには重要なことだと思っています。それにしても、そういった依頼が多いのです。ですから、一月にひとつ以上は受けないことにしようと決めなければなりませんでした...

そしてもちろん、郵便受けもコンピューターのメールボックスも毎日いっぱいです...

「降ればどしゃぶり」という古い諺がありますが、まったくその通りだなぁと思います。傘を見つけることができさえすればいいのですが...