デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

この欄で何度も言ったように、何か新しいことを始める時、私はいつも分析的な方法でやってみます。つまり、「これはいったいどういう仕組みになっているのか?」ということを理解しようとするのです。今振り返ってみると、こういうやり方が適当な場合もありましたが、「これではどうやっても失敗することになる」、というものもあったのです。そして、サックスに対する私の取り組み方は、まさにこの後者の方でした!

私は有名なサックス奏者のソロを分析した本をいくつか買いました。「ジャズの即興演奏入門」というレコードも買いました。手に入れることができるものは何でも買いました...そして「練習時間」には譜面台を取り出して、それらの本のひとつを広げ、その楽譜を見て吹きました。父がこれを読んだら、どう思うでしょう。あきれて首を横に振るか、この馬鹿さ加減を笑い飛ばすか...ジャズサックスの演奏法を目から学ぼうとするなんて!ジャズを学ぶにはよい演奏を聞くこと−そして自分でそんなふうに演奏してみる−そしてもっと聞いて−また自分でやってー更にまた聞いて...そうやって段々と自分独自の演奏スタイルを確立していくのです。それなのに私の使った主な道具は鉛筆と紙でした...

私のしたことで有益だったこともありましたが...私は、地元のある素晴らしいサックス奏者−フレーサー・マクファーソン−の大ファンでした。それで自分の練習のために、彼のレコードアルバムのひとつからそのソロ部分を全部、ていねいに楽譜におこしました。この長い楽譜ができあがった時、地元のたくさんのサックス奏者達がこれを欲しがりました。私はフレーサーの許可を得て、これをコピーし、かなりの部数を売りました。こういった活動はもちろん良い練習になりましたが、結局の所、私は分析に時間を使いすぎて、演奏には十分な時間をとらなかったのです。

定職を持たなかったこの何年かの間、私はいつも翌月の家賃を払うための仕事を見つけようとしていました。相変わらず子供達のバンドの指揮は続けていました。ある夏、その保護者会が「サマーキャンプ」を行うことを決めました。このキャンプは地元の学校で行われ、子供達には夏休みの間の練習場所を提供し、親達には夜の演奏クラスを、そして更に、大きな子供達には特別の「ジャズグループ」を作らせたのです。父は笑っていることでしょう。何もわからない者が何もわからない奴等を指導しているとは!

でも、実はとてもうまくいって、私達はとても楽しんだのです。とりわけ、ジャズグループは成功でした。私達は地元の公園でコンサートを開けるほどにまでなったのです。夏の終わりが来た時、子供達はこのグループを終わりにしたくない、と言いました。そこで、私達はキャンプバンドを本物のジャズロックグループとして、週2回、夜、練習を続け、また演奏する場所を探し始めました。

ジャズロックグループには指揮者は要りません。ですから、夏の終わりにグループが再結成されて、ベースギターを弾く者が誰もいないことに気づいた時、私はベースギタープレーヤーとしてグループに加わることにしました。グループのなかで最年長だったので、名目上は私がリーダーで、楽譜のアレンジのほとんどは私がやりました。たいていはその時流行りの歌からでした。

でも、「そのグループはうまかった」と言ってしまっては嘘になってしまいますね!メンバーはみんな経験不足だったし、ほとんどはまだ高校生だったし、リーダーのベースプレーヤーはロックバンドを率いるのにうってつけのタイプではありませんでした。私達の創り出す騒音はひどいものだったでしょう。でも、私達はとても楽しんだのです。ナイトクラブで演奏することこそできなかったものの、学校のダンスパーティなど地元で何度か演奏する機会がありました。

そういうわけで、私の、クラシックのフルート奏者からの「転向」は完了したかのように見えました。ここに、ロックバンドでエレキベースを弾く私が誕生したのです!あの頃の写真があればいいのですが!

次回へ続く...

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