デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 1997

「百人一緒」冬号へようこそ!みなさんがこれを読まれるのは1月の初旬でしょう。そこで、私の一種の「記念日」のことを聞いてもらえますか。

私は1986年7月1日に日本に来ました。ですから、昨年の終わりでちょうど11年と半年になります。11.5 x 4 = 46、そして、私はついこの間46歳の誕生日を迎えたばかりです。つまり、私の人生の4分の1は日本で過ごしたことになるようです。

これは私には画期的なことに思えます。しかし、実は、それ以上に驚くべきことは、私がその間ずっと同じ所に住んでいる、という事実です。これまでは、最も長く住んだ所でも5年ほどでした。私の両親があちこち引越しをするような暮らしをしていたり、また私自身が何か別のことを求めていたりして...

しかし、ここで私は、11年間、同じ地域の同じ建物に住んでいます。そして、正直なところ、私が住んでいる「コンクリートの箱」をあまり好きではないのですが、何か他のこと求めて次に進もうという気にならないのです。

この理由はふたつ考えられます。私が年をとって、エネルギーを失ってきているのか...それとも幸せで満足しているからなのか...みなさんはどちらだと思われますか?

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

このところ、このシリーズではフルートの話ばかりだな、と思っておられますか?もしそうだとしたら、ご安心ください。このエピソードは終わりに近づいています...

オーケストラのフルート奏者になるためのこのオーデションは、私にはとても大事なチャンスでした。うまく行けば、将来は保証されるのです。というわけで、私は特別に練習してオーデションに備えようとしたでしょうか?いいえ、私は今までと同じように、日中は仕事を続け、夜はのんびりしていました。自分がうまく吹けることは「わかって」いましたし...オーケストラがよく演奏する曲目をどんなふうに吹いたらいいのかも「わかって」いましたし...そのオーケストラのメンバーもたくさん「知って」いましたし(夏のキャンプで友達になったのです)... 私が仕事をもらえることは「わかって」いたのです。

そこでどうなったかは、もちろんおわかりですね。私は完全に失敗しました。練習していなかったので、調子はよくありませんでした。私が与えられた曲は今まで見たことのないもので、私は、初心者のやるようなミスをしてしまいました。指揮者がテンポの指示をしていたのを見逃してしまったのです。おそらく、オーケストラにいた友達は、私とつきあいがあることを恥ずかしく思ってしまったことでしょう...そして、日本から来た若者が大変素晴しい演奏をし、他の者はみんな打ちのめされてしまいました。彼はしっかりと準備してきていました。彼は練習してきていました。彼はこのチャンスに備えて、何年も練習を重ねてきたのです。彼が仕事をもらいました。

私は何か自分への言い訳を考えたのでしょう、この失敗でひどく荒れたという記憶はありません。でも、今、当時のことを振り返ってみると、これで私のフルート奏者としての活動が終わり始めたのだな、と思います。

オーデションの失敗がそれほどつらくなかった理由のひとつは、楽器店の仕事が大変忙しくて、他のことを考える時間がなかったからです。そしてもちろん、私の性格上、与えられた仕事だけで満足しているなんていうことはありませんでした。職場の仲間のひとりと私は、いつもいろいろなおもしろい音楽を聞いているうちに、自分たちで出版事業を始めることにしました。何人かの作曲家に頼んで、ジャズバンド用の曲を書いてもらい、その楽譜を出版したのです。「カナダ・ジャズ・プレス」の誕生です!私たちは、最初の2冊を、北アメリカ中の楽器店に送り、成り行きを見ていました。このまま続けていればどうなっていたのかはわかりませんが、結局、その友達は別の仕事のために楽器店をやめ、私たちの小さな事業は消えていったのでした。

そして、私は音楽の世界で成功しなかったけれど、それがどうして決定的な痛手とならなかったのかというのには、もうひとつ理由があります。「音楽のパートナー」とも、だんだんと離れていったからです。私たちふたりは、結局のところ、最高の組み合わせではなかったのです。彼女はとても外向的で明るく、活気のある輪の中へ入っていくことが好きでした。彼女はオペラ歌手になりたいと思っていましたし、自分が華やかな世界-コンサートやパーテーのようなわくわくする世界-の一部となる日が待ちきれませんでした。彼女は私を社交ダンスのレッスンに連れて行きました。でも、私は彼女の足を踏んだだけでした。彼女は私を歌の先生の所へ連れて行きました。でも、私にできたのは、おかしなしわがれ声を出すことだけでした。つまり、私は彼女の理想のタイプではなかったのです。私たちが初めて出会った頃、彼女は、私が指揮をする姿に実物以上の私を見ていたのですが、実のところ、私はただの楽器店の店員でした。そして、彼女が地方のオペレッタで主役を務める日がやってきた時、相手役の男性は、ハンサムで、渋いバリトンの声の持ち主だったのでした...

もし違う慣習を持つ社会に住んでいたならどうなっていただろうか、と時々考えることがあります。まず結婚をしなければならず、その後で、パートナーが自分の思っていたような人ではない、と気づいた場合。私たちはなんとかうまくやっていく方法を見つけていたでしょうか。それとも不幸せな夫婦になっていたでしょうか?答えは知りようがありませんが、私たちの両親が私たちにこういう経験をすることを認めてくれ、社会もそれを許してくれたことには感謝しています。彼女が行ってしまった時、私は大変落ち込みました。彼女と一緒の時、私は本当に幸せだったからです。でも、あの頃の経験が私をずいぶんと変えたのだ、と気づくようになりました。もし彼女に会わなかったなら、私は内気で未熟な少年のままだったことでしょう。彼女は私にとって、大変意味のある人でした。

そしてもちろん、時々考えることがあります。彼女の人生はどうなったのだろう、と..

次回に続く...

関健二さん

このコーナーを何年も書いてきましたが、訪問計画を立てながら、こんなことを考えたりします。「わざわざ会うために出かけて行って話を聞かなくても、おおよその見当で書けちゃうんじゃないかなあ」などと。おそらくこれを読んでいらっしゃる方達も同じように、題を見て導入部を読めば書かれている内容についての予測がかなりできてしまうのではないでしょうか。

もちろんそんなことはしませんでしたよ。いつだって前もって訪問をして、それから記事を書きますから。特に今回は、お訪ねして良かった例です。さて、ここでちょっと皆さんに概略をお話ししましょう。今回は、摺師の関健二さんを訪ね、どのようにして仕事を始められたのか、見習い時代からのことを中心に伺ってきました。では、話がどう展開するか予測してみてください。どのくらい当たるかな。

関さんは、何百年と受け継がれてきている伝統的な木版画の職人ですから、お宅は下町にあって.......あれっ、違う、東京郊外の八王子市にある新興住宅地のモダンな家にお住まいです。
 さて、中に入るとすぐに、畳敷きの仕事場があって......これも違う、和室でなく洋間で仕事をしてらっしゃる。
 部屋には低い摺台が置かれていて、....おっと、洋式の高い作業台を使ってらっしゃる。
 作業台の上には、浮世絵の、山桜の版木が復刻を待っている.....おっと、これも違いで、板はベニヤ、彫られているのは現代の風景画。おまけに、この作者は関さん!

物でいっぱいの仕事部屋には、腰を落ち着けるスペースがないので、階下のリビングルームのソファーでお話しを伺うことにしましょう。今回の訪問では、「百人一緒」の記事のためだけでなく、お聞きしたいことが山ほどあります。摺りに関する質問が沢山あるので、バレンや作品をそおっと鞄の中に隠し持っています。聞くチャンスがあるかな。

最初の質問は当然、関さんが始めたオリジナルの版画についてなんですが、いったいどうなっているのでしょうか。作品を何枚か見せていただくと、縁どり線のない、霧の掛かった夢の様な風景画です。大きさもあり、現代風に建てられた家には、装飾品としてよく合いそう。摺師の関さんが、こういった仕事を始めたのにはいくつか訳があります。ひとつには、版画が贅沢品な上に今の景気状況では、あまり人の気持ちを引かないので、ただ電話の前で版元からの注文を待っていても埒が明かないこと。伝統版画の分野では、目下のところあまり仕事がないからです。

もうひとつの理由は、彼自身、版画の創作を楽しんでいるということ。摺師というのは、版元からの仕事がたとえどんな作品であろうと、何も考えずにひたすら摺っていくというように仕込まれます。関さんはこうして仕事をしているうちに、バレンの下にできる絵を観察し、さまざまな手法を学び、いつのまにかデザインも彫りも自分でやれるだけの技術を吸収してしまったのです。

新分野へ踏み出すには、こうした技術が下地になっているのです。今や、私たちが職人に対して持っている固定観念を捨て、新たなイメージを膨らませる時が来ているのではないでしょうか。平成もそろそろ十年、日本の社会で起こった大きな変化が、隅々にまで及んできているのです。

こんなことを話しているうちに、彼の見習い時代のことについて聞く予定だったことを思いだしました。大変だったその頃をどう思っていらっしゃるか、お聞きすることにしましょう。
 「見習いが始まったのはまだ14歳の時でしたよね。きっと他の職人さん達がしたがらない雑用を全部したんでしょうね。何時間もかけて顔料を擂り砕いたり、和紙を切ったり、...」
 「いや、全然。皆、自分のことは自分でしたから。職人だもの。」
 「でも、単調な仕事はやらされたでしょう。鮫の皮で刷毛をおろすとか、...」
 「いや、そんなことないですよ。そりゃあ自分のはやったよ、親方だって、誰だってそうだったからね。職人だもの。」
 いろいろ聞いているうちに、どうも混乱してきました。僕が想像していた様子とまるで逆。そこで、「最初の仕事はどんなのだったんですか。包紙とか、簡単なものだったんでしょう。」と聞いてみると、
 「そんな事しなかったよ。私の親方はね、簡単なものはいつでもできるって言ってね。難しい仕事から入っていけば、どんな仕事でもできるようになるって考えの人だったんですよ。だから最初に与えられた仕事は多色摺りの複雑なのを百枚。結果は当然、どうにもならないものでしたよ。誰も、何も教えてくれなかったんですからね。」
 その百枚は、一体どうなったのでしょうか。
 「その仕事が終わるとね、親方は仕上がりを見てからすぱっと半分に切っちゃった、全部。それからまた次の仕事をくれたんです、また複雑なの。立派な和紙が駄目になってしまったんだから、そりゃあ真剣になりましたよ。だから、上達も早かった。」
 誰かが、教えてくれるようになったのかな。
 「十年間、誰も何も教えてくれないまま。人の仕事をじいっと見て、どうすればいいかはすべて自分で考えたんですよ。話を聞いったってわからない。体で覚えるんです。」
 これを聞くと、鞄に入っている、バレンのことを思い出します。でもまだ話しを持ち出す時期じゃないと悟り、「ところで、その当時いくらぐらい貰えたんですか。月に数百円ぐらいですか。」と質問すると、驚いたことに、
 「その通り。月五百円だったねえ。休みは、一日と十五日の二回だけ。」
 やっと、予想が当たった!そこで、「その二日間はまったくの自由だったんでしょう、映画にいったりガールフンドと出かけたり...」と畳み掛けると、
 「そんなことしなかったよ。刷毛の手入れをしたりバレンの作り方を勉強してみたり。だってお金は全部、道具を買うために貯めたから。人のを借りて仕事をしてたんだもの、返さなくちゃならなかったでしょう。自分のを全部そろえなくっちゃならなかったからね。」
 「なかなか、たいへんだったんですねえ。それで、何年も見習いをして、親方から独立の許可が下りたときは、うれしかったでしょうね。」
 「それがねえ、頑固なところのある人だったんでね、僕も頑固でしょう、最後が、うまいこといかなかったんですよ。結局十年後に自分から裸一貫で独立するようになってねえ。でもね、そのときにはもう、腕があったから。どんな仕事が来てもこなせたんですよ。なんでもね。」

さあ、そろそろいいかな。鞄を開けて、バレンを取り出します。バレンの包み方の一番最後、きっちり縛った竹の皮をそのままに保つようにするところが、うまく行かなくて困っていたものですから。何年も努力してかなりうまく縛っていたのですが、どうしても使っているうちに、縛っている紐が緩んできてしまうのです。関さんに渡すと即座に、「緩いな、これじゃ摺れないでしょう。」私は頷いて、しかたなく肩をすくめるのみ。

すると、突如.......返して、捻って、括って、ぐいと引っぱって、結んで。目にも止まらない早さで縛ばり直してしまいます。びしっと締まってます。すごい!まるでテレビで手品を見ているようでした。手の動きのブレを見ていただけ。「一体どうやったんですか?」

関さんはニコニコするだけ。そうか、話を聞いったってわからない。体で覚えるんでしたねえ。

関さん御夫妻は、私たちをとても居心地よくもてなしてくだるので、4時間近くも話し込んでしまいました。切りがないので、お礼をしてそろそろおいとまをしなければと片付けをはじめます。と、あることが閃めいて、鞄の中の作品入れから、去年の作品の一枚を取り出します。それは、空摺り(からずり)の技術を使ったものですが、実際のところ伝統的な手法がよく分からず、自分なりの方法を編み出してやったものなのです。結果は上出来でしたが、伝統的な物とはいくぶん仕上がりが違っています。さて、関さんに見ていただこうと作品を手渡すと、じいっと見て、そう、期待した通り。すぐに質問が来ました。「どうやったの?」

僕は、ニコリ、ニコッ、ニコニコッ!

ボクはナニジン?

先日、どこの窓口だったか、住所、氏名などの個人情報を記入する必要があり、すらすらと書き入れていったのです。ところが「国籍」という欄に来て、ちょっと考えてしまいました。べつに、何と書こうかを迷った訳ではなかったので、今まで公的書類に書いてきたように「カナダ」と記入はしたのですが、本当にカナダかなあと考えてしまったのです。なぜって、自分ではカナダ人だなんて意識してないし、それに私の国籍はカナダだけではないからなのです。

私は、両親が共にイギリス人で、この国の生まれですから、イギリス国籍を持っています。その後、幼いうちにカナダに移住し、数年後には両親と共にカナダ国籍を取得しました。現在はどうなっているのかよくわかりませんが、当時は、持っていたイギリス国籍をあきらめる必要がなかったようです。ですから、イギリスとカナダの両国籍を持つことになって、パスポートは二つ持っています。

これで、私の国籍がカナダだけではないということの訳がおわかりとおもいますが、ではなぜカナダ人という意識がないのでしょうか。まあ、パスポートはひとつのよりどころですが、つまるところただの紙にすぎません。自分の国籍は、それよりももっと根本的な次元で認識されるからです。カナダで学校に通っていた頃は国歌を歌うことが時々ありました。

「ああカナダ、生まれ故郷よ我が国よ。愛する国への真心は、われらの........」

「愛する国への真心」? う〜ん、すみませんがカナダにこんな感情は抱いていません、当時も今もです。29年という長い年月をそこで暮らしたのですが、ただ単にその場所に住んでいたというだけのことで、それ以上深い意味はないのです。こんなふうに感じるのは、その29年の間に少なくとも11回は住まいを移ったという、引っ越しの多い生活だったからかもしれません。数年ごとに住むところが変わったら、故郷--それが、ある特定の町や地域であっても、あるいはまた、全体としての国であっても--という思いは育たないはずです。そして今、こうして日本に住み続けてきて、カナダを母国とする思いはほとんどないのです。ですから、「カナダ人という意識がない」と私が言うのは、つまり、母国との結び付きをあまり感じないということなのです。

最近、「ブルさんのお国ではどんなふうですか。」と聞かれると、どう答えていいか戸惑ってしまいます。現在のカナダの社会状況なんて良くわからないからです。日本に長く住んでいる人ならだれでも知っているように、十年もすれば世の中は大きく変わってしまいます。カナダでは、ここ日本ほど急激ではないにしても、私の知っている当時と現代とでは、人の考え方は違ってきているはずです。ですから単純に言って、答えられないのです。とにかく、正直なところ。

さて、元の記入用紙の話に戻なって、私の国籍でしたよね。イギリスでなさそうことは確かです。5歳の時に離れてしまったし、その国について知っている事といえば、新聞にでている内容からだけですから。それではカナダかな。この国のことはさらにもっとわかりません。新聞にはカナダのことはあまり出ていませんし、あったとしても、実生活に関してはほとんど書いてないのですから。実際のところ、この記入用紙のこの欄は空白にしておきたい程です。こんなことを言うと、本当に国籍のない人達に叱られそうですね。実際、世界中の何百万という人達が、カナダやイギリス国籍を得るためならば全財産を叩いても惜しくないと思っているのですから。でも、そういった人達の場合、現在住んでいる彼等の国が、安心して働けて生活のできる社会秩序を提供していないからだと思うのです。その人達にとってカナダ国籍は「自由への通行券」でしょうし、迫害や全体主義からの脱出手段なのです。

ですから、国籍欄を空白にしておきたいということの意味を勘違いしないでくださいね。イギリスとカナダという、社会秩序が保たれ、安定した環境で育ったことは本当に幸運だったと思っているんです。でも、自己形成期にしょっちゅう引っ越しをしたために、国家への意識が薄弱になってしまったのです。

みなさんはきっと、こんな質問をしたいと思っているでしょう。「日本国籍はどう?」って。そうですねえ、ここではかなり心地よく根を下ろして暮らしているようだから、日本人になり始めているのでしょうか。難しい問いですねえ。近ごろは、日本国籍を得た外国人のことが新聞に載ることがあり、こうしたことも数年前ほどめずらしいことではなくなりました。(百年前でもこういった例はあって、小泉八雲は一番よく知られているのではないでしょうか。)私の場合、もし仮に日本国籍を取得できるとしたら、友達や知り合いは否定はしないでしょう。でも、表面上は認めても、心のどこかではいつも、わたしを「違う」とみると思うのです。良いにしろ悪いにしろ、正しいにしろ間違っているにしろ、この国に住む人達には自分達が同一であるというイメージが深く心に根差しているからです。日本国籍を公に認める書類を持っているということは、実際一枚の紙切れを持っていることとほとんど同じです。国籍があるということは、この社会に受け入れてもらえることの象徴ではあるけれども、事実上の受け入れは自分の行いからのみ手にすることができるのです。上級レベルの日本語がわかること、長期にわたって日本文化に浸りきっていること、実際、日本人になりきることなんです。

それにしても 決めなきゃならないのでしょうかねえ。自分がイギリス人だとは思えないし、かといってカナダ人とも思えないのですが。つまるところ、国籍などという考えそのものが気に入らないんです。「世界中の人が手を結べば、みんなで幸せになれる」などと単純に夢を追っているわけではありませんが、国家主義が元となって引き起こされてきた問題が、歴史にはあまりにもたくさんあるというのは事実です。ですから、私としては、どちらの側も応援せずにゲームを観戦するような、そんな生き方をしたいのです。

あっ、ちょっと待ってください、思い出したことがあります。日本人になるなんて、そもそもできっこないですよ。だって日本人には、世界中の人と永久に違うことがひとつあるんですから。これは、超えることのできない障害です。埋められないくらい大きな溝です。それはですね、あえて言えばですよ.....本物の日本人であるかどうかを知る決め手なんですよ..... いいですか、真っ白なほかほかのご飯の上にのった、納豆です!

この前のニュースレターの最後のページで、私は娘たちと電子メールを使って話をしている、ということを書きました。これはとてもうまくいっていて、数ヵ月前、私たちはマッキントッシュのコンピューターを使ってスペルクイズを始めました。

私は、彼女たちの私への手紙には、よくスペルの間違いがあることに気づいていました。彼女たちは英語を本当にとてもよく話しますが、書く方がそのレベルになるまでには時間がかかりそうです。ですから、その助けになればと思って始めました。ひとつの文にひとつ単語が抜けているようないくつかの文章を、私がコンピューターにタイプします。それから、コンピューターのマイクを使って、抜けている単語を読み上げて録音します。これを電子メールで彼女たちに送ると、彼女たちは画面で文を見ながら、抜けている単語を耳で聞けます。彼女たちは空欄を埋めてそのクイズを送り返し、私がチェックする、というわけです。

彼女たちは時々、ファックスを使って、宿題を送り、私にアドバイスやチェックを求めてきたりもします。そしてもちろん、1週間に1度は、電話で1時間くらい話をします。声の電子メール、ファックス、電話...みなさんの中で、私の家族は引き離されて地球のあちこちに散らばってしまった、という印象を持っている方がおられるのなら、それはまちがっています!

こういう道具を使うことができるとはなんと恵まれていることでしょう!未来の生活のようです!明日はどんなものがやってくるのでしょうか.....