デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ボクはナニジン?

先日、どこの窓口だったか、住所、氏名などの個人情報を記入する必要があり、すらすらと書き入れていったのです。ところが「国籍」という欄に来て、ちょっと考えてしまいました。べつに、何と書こうかを迷った訳ではなかったので、今まで公的書類に書いてきたように「カナダ」と記入はしたのですが、本当にカナダかなあと考えてしまったのです。なぜって、自分ではカナダ人だなんて意識してないし、それに私の国籍はカナダだけではないからなのです。

私は、両親が共にイギリス人で、この国の生まれですから、イギリス国籍を持っています。その後、幼いうちにカナダに移住し、数年後には両親と共にカナダ国籍を取得しました。現在はどうなっているのかよくわかりませんが、当時は、持っていたイギリス国籍をあきらめる必要がなかったようです。ですから、イギリスとカナダの両国籍を持つことになって、パスポートは二つ持っています。

これで、私の国籍がカナダだけではないということの訳がおわかりとおもいますが、ではなぜカナダ人という意識がないのでしょうか。まあ、パスポートはひとつのよりどころですが、つまるところただの紙にすぎません。自分の国籍は、それよりももっと根本的な次元で認識されるからです。カナダで学校に通っていた頃は国歌を歌うことが時々ありました。

「ああカナダ、生まれ故郷よ我が国よ。愛する国への真心は、われらの........」

「愛する国への真心」? う〜ん、すみませんがカナダにこんな感情は抱いていません、当時も今もです。29年という長い年月をそこで暮らしたのですが、ただ単にその場所に住んでいたというだけのことで、それ以上深い意味はないのです。こんなふうに感じるのは、その29年の間に少なくとも11回は住まいを移ったという、引っ越しの多い生活だったからかもしれません。数年ごとに住むところが変わったら、故郷--それが、ある特定の町や地域であっても、あるいはまた、全体としての国であっても--という思いは育たないはずです。そして今、こうして日本に住み続けてきて、カナダを母国とする思いはほとんどないのです。ですから、「カナダ人という意識がない」と私が言うのは、つまり、母国との結び付きをあまり感じないということなのです。

最近、「ブルさんのお国ではどんなふうですか。」と聞かれると、どう答えていいか戸惑ってしまいます。現在のカナダの社会状況なんて良くわからないからです。日本に長く住んでいる人ならだれでも知っているように、十年もすれば世の中は大きく変わってしまいます。カナダでは、ここ日本ほど急激ではないにしても、私の知っている当時と現代とでは、人の考え方は違ってきているはずです。ですから単純に言って、答えられないのです。とにかく、正直なところ。

さて、元の記入用紙の話に戻なって、私の国籍でしたよね。イギリスでなさそうことは確かです。5歳の時に離れてしまったし、その国について知っている事といえば、新聞にでている内容からだけですから。それではカナダかな。この国のことはさらにもっとわかりません。新聞にはカナダのことはあまり出ていませんし、あったとしても、実生活に関してはほとんど書いてないのですから。実際のところ、この記入用紙のこの欄は空白にしておきたい程です。こんなことを言うと、本当に国籍のない人達に叱られそうですね。実際、世界中の何百万という人達が、カナダやイギリス国籍を得るためならば全財産を叩いても惜しくないと思っているのですから。でも、そういった人達の場合、現在住んでいる彼等の国が、安心して働けて生活のできる社会秩序を提供していないからだと思うのです。その人達にとってカナダ国籍は「自由への通行券」でしょうし、迫害や全体主義からの脱出手段なのです。

ですから、国籍欄を空白にしておきたいということの意味を勘違いしないでくださいね。イギリスとカナダという、社会秩序が保たれ、安定した環境で育ったことは本当に幸運だったと思っているんです。でも、自己形成期にしょっちゅう引っ越しをしたために、国家への意識が薄弱になってしまったのです。

みなさんはきっと、こんな質問をしたいと思っているでしょう。「日本国籍はどう?」って。そうですねえ、ここではかなり心地よく根を下ろして暮らしているようだから、日本人になり始めているのでしょうか。難しい問いですねえ。近ごろは、日本国籍を得た外国人のことが新聞に載ることがあり、こうしたことも数年前ほどめずらしいことではなくなりました。(百年前でもこういった例はあって、小泉八雲は一番よく知られているのではないでしょうか。)私の場合、もし仮に日本国籍を取得できるとしたら、友達や知り合いは否定はしないでしょう。でも、表面上は認めても、心のどこかではいつも、わたしを「違う」とみると思うのです。良いにしろ悪いにしろ、正しいにしろ間違っているにしろ、この国に住む人達には自分達が同一であるというイメージが深く心に根差しているからです。日本国籍を公に認める書類を持っているということは、実際一枚の紙切れを持っていることとほとんど同じです。国籍があるということは、この社会に受け入れてもらえることの象徴ではあるけれども、事実上の受け入れは自分の行いからのみ手にすることができるのです。上級レベルの日本語がわかること、長期にわたって日本文化に浸りきっていること、実際、日本人になりきることなんです。

それにしても 決めなきゃならないのでしょうかねえ。自分がイギリス人だとは思えないし、かといってカナダ人とも思えないのですが。つまるところ、国籍などという考えそのものが気に入らないんです。「世界中の人が手を結べば、みんなで幸せになれる」などと単純に夢を追っているわけではありませんが、国家主義が元となって引き起こされてきた問題が、歴史にはあまりにもたくさんあるというのは事実です。ですから、私としては、どちらの側も応援せずにゲームを観戦するような、そんな生き方をしたいのです。

あっ、ちょっと待ってください、思い出したことがあります。日本人になるなんて、そもそもできっこないですよ。だって日本人には、世界中の人と永久に違うことがひとつあるんですから。これは、超えることのできない障害です。埋められないくらい大きな溝です。それはですね、あえて言えばですよ.....本物の日本人であるかどうかを知る決め手なんですよ..... いいですか、真っ白なほかほかのご飯の上にのった、納豆です!

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