デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
41号から最新号まで
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昨年の「百人一緒」の冬号と同様に、今年のも慌ただしい年の瀬の中で作っています。10枚目の版画を仕上げて、年賀状を作り、展示会の準備やインタビューに応じながら。
このページの絵は、今号の中心となっている話と関係があります。これは葛飾北斎が描いたもので、彼が75才頃に作った本の中に見られるものです。私はこれを今年の年賀状に使わせてもらいました。でも、ちょっと不安な気持ちです。というのは、こういう白黒の版画はきちんと作るのがとてもむずかしいからです。複雑な多色摺りのデザインなら目がごまかされるのですが、こういう作品は日本の版画のふたつの究極の要素--生き生きとした彫りの線と墨の表現力--に還元されます。他のものはほんのお飾りにすぎません。
私はこうした作品を扱うにはまだ経験不足ですが、でも、だからこそ今回は挑戦したみたのです--経験のために。木版画を作って16年になります。もうそろそろ基本にのっとって仕事を始めるのにいい時期だと思うのです。
のこ号の話を楽しんでいただけますように...
前回からの続く...
ここ何年かこの自伝的なエピソードを書いていて、私は時々両親に電話をかけて過去の出来事を思い出してくれるように頼まなければなりませんでした。私自身の子供時代の記憶はそれほどはっきりしていませんから。しかし、今回からは、両親の助けをあてにすることはできません。両親は、今や私が書くのを読んで、この愚かな子が次に何をやらかしたか知るのを心待ちにしているのです...
イギリスに着いた時私は、少しばかりの服、フルート、何曲かの音譜の入った小さなスーツケースと、財布には約100ポンド、私が落ち着くまでの数週間暮らしていくのに十分なお金を持っていました。父はこの他に、自分の友人の電話番号を書いた紙を渡してくれていました。その友人というのは、父が昔やっていたビッグバンドのドラマーで、私が洗礼を受けた時に立ち会ってくれた人でもありました。何か困ったことがあったり、もうどうしようもないような事態に陥った時には、この人が私の手助けをしてくれることになっていました。
私がまずしなければならなかったのは、泊まる場所を見つけることでした。あちこちを歩きまわっていて、ふと電柱に貼ってあったロンドンのハマースミス区の貸室の広告が目に止まりました。私は、数分後にはその家を訪れて、1週間分の部屋代を払い、その部屋に落ち着きました。部屋代は約5ポンドで、これには朝食が含まれ、トイレを使うこともできました。洗濯機とお風呂はありませんでしたが、この時の私はそんなこと気付いてもいなかったのではないかと思います...
それからの数日は、夢のような日々でした。観光地を訪ねたり、大きな博物館へ行ったりして、この素晴しい町を歩きまわりました。この最初の1週間のある午後、私は楽器店の並んだシャフツベリー通りを見つけ、そしてここで恋に落ちてしまったのです...一目で。美しい! 私は見た瞬間からとりこになってしまいました。ベルベットのケースに気持ちよさそうに横たわり、黒い木管に銀のキーを輝かせて... そう...それは美しい木製のフルートでした。私が長年夢見てきた楽器です。そして外見と同様音色も素晴しかったのです。財布の中身を確かめてみると、ちょうどこれが買えるだけのお金が残っていました。私たちは手に手をとって店を出ました--つまり、フルートを鞄に入れて!
ですから当然の結果として、その週の終わりには、私は職を見つけることもフルートの勉強をするための手配もしていなかったことに気付くだけでなく、次の週の部屋代を払うためのお金すら持っていませんでした。でも、私は決して父の友人には電話をしませんでした。それで、どうするかを考えなくてはなりませんでした...急いで。そこで私は自分のフルートを使ってお金を稼ぐことにしました。その夕方、私はロンドンでも有名なコンサートホールの入口の外に立ち、フルートのケースを開けて前の地面に置き、演奏を始めました。それはうまくいき、私は一晩で次の週の部屋代を払うお金を得ることができました。
私は、なんとか暮らしていくために、1週間に数日、この「大道芸」を続けていました。これをするにはあまりにも寒い季節になるまで。そしてなんとも不思議なことに、ホールの外で演奏していた私は、すぐにホールの中での仕事を得ることができたのです! ある夜、演奏していると、私は数年前カナダで知り合った友達を見つけて驚きました。彼は今はロンドンで演奏家になっていて、自分が時々仕事をするオーケストラの指揮者の名前を教えてくれました。それはロンドンの大きくて著名なオーケストラではなく、インペリアル・カレッジのオーケストラでしたが、私はそんなことはかまいませんでした。早速、この人に会いに行くと、彼は「何か吹いてみて」と言いました。その後驚いたことに、彼はその場で私に、彼のオーケストラと仕事をしないか、ともちかけました。団員ではなく、まもなく行われるコンサートの独奏者としてです。
もちろん私は喜んで引き受けました。こうして、再びオーケストラの前に立ってモーツアルト(またモーツアルトです!)の協奏曲を演奏することになったのです。これが、私のロンドンでのプロとしての仕事の始まりました。幸運にも、私はこの時知りませんでした、それが最後でもあった、ということを...またもや、そう、今までも何度もあったことで、そしてこの後も何度もあったことですが、またも、まもなくして私はちょっと横道にそれてしまったのです... 家具製作? ギター? 作曲? いいえ、違います。今回は、超音速ジェット旅客機コンコルドの中で...
次回へ続く...
つい先日のことですが、ちょっと読みたい本があって物置で箱の中をかき回しているうちに、うっかり他の事に気をとられてしまいました。今から十五年ほど前、日本に旅行で来たときに買った一綴の本を見つけたのです。その旅行の時は、版画の役に立ちそうな資料を探してずいぶんと古本屋を見て回りました。箱の中に何年間も詰め込まれていたその本を取り出してページをめくっていると、次第に夢中になってしまい、そのうち何をするはずだったのか忘れてしまったのです。
今回はこの本のことをお話ししたいと思います。と言いますのは、これが私の人生に強い影響を与えた本だからなのです。実際、もしも私がこの本に出会っていなかったら、今頃こうして百人一首の版画シリーズなど手懸けていなかったかも知れないのです。ある分野で活躍している人の中には、教師あるいは教授でも、誰か自分に強い影響を与えた人がいて、その人がきっかけとなって人生の方向が変わったという人もいるでしょう。でも、私の場合、人生を変えてしまうほど強い影響を与えた人は見当たりません。たいていの人がそうであるように、私も多くの人から影響を受け、また助けられてきました。でもほとんどの場合、そういった経験の結果、自分がすでに始めていた特定の活動を、これでいいのだと確認することになったように思えるのです。
この本はまさにそんなたぐいの物と言えるでしょう。神保町の古本屋でこの本に出会った時は、すでに木版画に興味をもっていたのですから。もしあの時木版画に興味をもっていなかったら、この本の価値など分からず、心を揺さぶられることもなかったわけです。それは19世紀の始めに、かの有名な葛飾北斎によって描かれた富嶽百景でした。
本には文章がなく、百枚の画だけでその当時良く見かける生活風景を表わしていたのです。どの画にも、良く知られている富士の姿が、あるときは圧倒的な大きさで、またあるときは遥かかなたに小さく描かれています。この本が江戸時代に出されたころ、いったいどんな人達がこれを買って行ったのか、あるいは、なぜこのような本が望まれたのかはまるで想像できません。でも、この版木はかなりたくさん摺られていますし、今でもこういった物を扱っている古本屋では良く見かける本なので、きっとかなり売れたのでしょう。富士という広く知られた題材で、しかもそれを描いたのが有名な絵師だったので、きっと人々に人気があったのだと思われます。
描かれた画はたしかに美しいものではありますが、私にとってこの本が意味深いのは、こういった内容ではなく、繊細な紙と墨によって生みだされたこの本それ自体なのです。江戸時代には美しい本がたくさん出され、息を飲むような構図や豪華な色使い、そして繊細な摺りによる素晴しいものが数多くありますが、中でもこの本は群を抜いています。日本の木版画の歴史の頂点に立つと言えるほどです。このように卓越した技術で彫られた作品は後にも先にも出ていませんし、これほど豊かに墨の微妙な色合いを使いこなした作品もないのです。(この本は、いわゆる色刷りではなく、墨の濃淡だけで摺られています。摺り師の達人は、墨だけで多彩な色合いを表現できるのです。)この秀作を手にして、頁を一枚そしてまた一枚とをめくると、彫師と刷師そして和紙職人の織り成す世界に息を飲むばかりです。日本の木版画は、本物を目のあたりにしてこそ良さが分かるのであり、人間によって創り出された、たぐいまれな作品を見ているという実感も湧くのです。
葛飾北斎は、版画制作の世界を良く知っていましたから、自分の画を桜の版木に彫れる状態にして版元に渡す時には、彫師を江川留吉に指定したのです。北斎は、一番腕の良い彼にしかこういった質の高い画は彫れないということを知っていたのです。江川さんは、一流中の一流でした。当時から今日に至るまで、版画の世界でやってきた何千もの彫り師の中で、彼と肩を並べられる人はまずいないでしょう。中には優れた彫り師もいますが、彼にはとうてい及ばない。でもだからといって、今日の彫り師達に失礼になどちっともならないのです。だって、江川さん程の人はこれからも出ないでしょうから。着物の流れを示す一筋一筋、木々の葉の一片一片、浪のうねりの一巻一巻、鳥の羽の一枚一枚、どれをとってもそのすべてが目の前の和紙の中で息づいているのです。
北斎のことは誰でも知っていて、彼の作品に描かれたものがまるで生きているように見えることも周知のことです。それなのに江川留吉さんのことを知っている人はどれほどいるのでしょう。彼も北斎同様、まがいなき芸術家なのです。誇張していると思うかもしれませんが、この本を実際に手にとって見ないことには分からないのです。しかもこれは、彫られて新(さら)の版木を使って、一流の摺り師が手がけ手がけるた、それも摺り始めのものなのです。私の言っていることを納得するためには、とにかくその目で見ないことには無理です。擦り減ってきた版木で、並みの職人が摺った作品からは、こんな感動は得られません。
あれは、今から十五年前、神田の原書房と言う本屋でのことでした。頼むと、店の主人はガラスのケースを開け、小ぶりでとても軽い冊子を取り出して私の手に載せたのです。それは第二巻で、初めのほうに摺られた完璧なできの物でした。(三巻は各々年数をおいて作られていて、最初の二巻だけが江川さんの手になるものでした。)当時、版画を始めたばかりの私のような者にでさえ、手にした本のことはすぐに分かりましたから、もうぼおっとしてしまい、ひたすら丁寧に頁をめくりました。少したったらそれを帰さなくてはならない、だけどいったいどうしたらその数分の間に目の前にあるすべてを心に焼き付けることができるだろうか。こんな短い間に江川さんから何か吸収するなんて。
何分かがたって本はきちんと元の場所に収められ、私はその店を離れました。でも、心は離れなかったのです。そう生きている限り、この数分の出会いは私の心から離れることはないでしょう。江川さんは過去の人ですが、この本が存在する限り私達の心の中に生き続けるのです。彼程の腕前には、たとえ私が九十九才まで生きて、そのときまで毎日十時間彫り続けても、なれないでしょう。江川さんはきっと、うんと若い頃に丁稚奉公を始め、とても厳しい親方に使え、その当時誰もがそうだったように休みは祭の日だけという働きかただったと思うのです。給金はほんのわずかで、自分自身が親方になってからもそうたいした収入にはならなかったのでは。私は、摺りの方もすれば、収集家の方達とのおつきあいもします。料理、洗濯、掃除もすれば、エッセイも書き、ニュースレター作りもするしコンピューターも扱います。でも彼はそうじゃなかったのです。たった一つのこと、そのことだけしかしませんでした。その代わり、それまでの誰よりも、そしてその後誰にも再現できないほど巧みな彫りができたのです。
版画を彫っていて時折、あの本を手にした時のことを思い出します。彼が彫った線を思い出し、この道でやって行くのはいっそ止めた方が、などと考えるのです。彼の技術にとうてい及ばないことが分かっているのに、続けたところでいったいどうなるのでしょう。意気消沈して彫刻刀を置き、彫ったばかりの線の見苦しさに嫌気がさして版木から目をそらしてしまいます。それでも、間もなくまた版木に向かうのです。諦めない、あの彫りの線を覚えている限りは。諦めることができないのです。本物を手にしたことのない皆さんに、こうお話しても難しいですね。私のようにじかにを本物をみられ、私の言っていることの意味が本当に分かる人は、地球上に五本の指ほどもいるでしょうか。こんなこと書いてきて、意味があったかなあ....。
この話の題を、『後悔』としましたね。実は、こんないきさつがあったのです。店で私が手にした本は売り物でした。それはバブル経済が始まる前、日本の版画本の値が高騰する前の1981年のことで、十万円の値が付いていました。たった十万円です。店の主人はこのすごい芸術作品をたった十枚の色付きの紙切れで喜んで譲ろうとしていたなんて、今考えると信じられません。どうかしていたのでしょうか。それにもまして信じられないのは、自分がそれを買わなかったと言うことです。お金がなかったわけではないのです。預金もあったし買えたのです。でも買いませんでした。(正直にいえば、珍しい本に使うよりも、日常の食品を買ったり家賃を払ったりするのにとっておかなくてはならなかったのです。)その後状況は変わり、たとえそのような素晴しい版画を手に入れられる機会があったとしても、とても手の届くものではなくなってしまいました。そういった作品は今では、大金持ちか美術館に保存されていて、その計り知れない真価までは十分理解されていないのかもしれません。
そんなことがあって後しばらくして、別の本屋でオフセット印刷の物を見つけました。良質の紙にていねいに印刷されていて、昔のように針と糸で綴じられて、見た目も感触も今日の技術でもって、できる限り原本に近い形に作られていました。当然、即座に買いました。こうしてこの話を書いている今、机の上にあるのはその本です。頁をめくると、本物の感触を思い出します。実体感には欠けますが、北斎の画ははっきりと分かりますし、輪郭を作っている江川さんの彫った線もそこにあります。でも、達人に彫られた版木、手漉き和紙、そして巧みに調節された墨の濃度、こういったすべてが総合して醸し出す感動は、そこにはないのです。大勢の職人の作業の集大成が、摺り師のバレンの元でぱあっと一瞬に全体像を表わす、その感動はこの中にはありません。私が持っているのは薄っぺらな紛い物でしかないのです。
でも、本物の味は忘れやしません。忘れられないです。
訳者からデイビッドヘ;『違いが見える』ということは、『進む道が開けている』ということになりませんか。時折襲ってくるジレンマや自分への苛立ちがなかったら、『停滞』ということになりませんか。いちど触れたきり、二度と会えない恋人への想いを募らせて、これからも良い作品を作ってください。
さて、版画作りの一年がまた終わりを迎えました...このシリーズが始まって8年も経ったなんて信じられません。でも、80枚の版画がその証拠です。これを始めた頃、10年間毎月同じ仕事をするなんてできるかな、とちょっと不安に思っていましたし、続けていくだけの精神的なスタミナがあるかどうかも自信がありませんでした。10年もの長い間...
しかし、今や、私の考え方は劇的に変わりました。たったの10年です! 藤原定家がもっと大きな歌集を編纂してくれていたらよかったのにと思います、「二百人一首」を作ってくれていたなら200枚の版画を作れるのに! そうしたら、この理想的な生活をもう何年も続けることができるのに。今から何年も先に、私が老人になってこの10年を振り返ったなら、おそらく、自分は天国にいるような暮らしをしていたなあ、と感じることでしょう。多くの人々に支えられ、自分と娘達の生活を維持していくためのお金も得ることができて、美しい版画を作って、その他いろいろ...すばらしくおだやかでストレスのない毎日の仕事のくり返しを楽しんでいたなあ、と。
もちろん、そんな先まで待つ必要はありません。今そう感じています! でもあと2年しかないのです! この百人一首のシリーズがついに終わってしまったら、こんなふうに生きていくための別の方法を、いったいどうやって見つけていることでしょうか...
今年1年ありがとうございました。80枚完了、あと20枚!