奏での前

この「美の謎」シリーズを計画して人々に説明するとき、私は、伝統木版画を作るために必要な特殊技法をたくさん解説する作品集になる、と強調しました。でも今まで書いてきた説明文を見ると、実際にはあまりたくさんのことを解説していないことに気付いたのです。もちろん、お送りしてきた版画にはそういった技術が使われています。

最初の広重の作品に使われた「一文字ぼかし」(水平な直線から幅狭く広がるぼかし)がそうですし、5番目にある巴水の作品に用いた「毛抜き合わせ」という技法(異なる色が接触する部分には、髪の毛も入り込めないほど隙間が無い)もそうです。でも紙面に限りがあるために、こういったことを説明できなかったのです。いえ、本音を言えば、技法に関する内容を入れ過ぎることへの懸念もあったのです。収集家の方たちの多くは、純粋に版画を楽しみたいのであって、「勉強」などさせられたくない、ということを知っているからです!

そこで今回ですが、はっきり認められる技法が使われています。琵琶を包む布を見て下さい。これは「布目摺り」といって、文字通り布目を表現する手法です。作品の外枠に使われている浮き出し模様に比べると、微かであまり目立ちませんから、紙に垂直な光が当たっていると気付かないかも知れません。それでも、こういう静物画のような作品の場合は、間違いなく味に深みを加えます。事実をお伝えすると、この元になる作品には、この技法が使われていません。でも私は、どうしてもこれを加えたかったのです。

これは、19世紀の終わり頃に作られた摺物です。絵師は不明ですが、きっと歌仲間のひとりが絵を提供し、何首もの歌と一緒に版画として制作依頼したのでしょう。加えて、これを引き受けた職人(彫師や摺師)については何も分かりません。そんなことに関心を持つ人など、皆無だったのですから!版画は存続しても、それを作った人たちのことは消えてしまうのです。

これは、私の運命でもあるのでしょうか?

平成22年11月

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