針仕事

時の振り子は、前回から200年ほど反対方向に振れて、多色摺がまだ「発明」されていない1740年に戻ります。女性の日常から題材を得た西川祐信が描き、墨摺で作られた「絵本千代見草」の1ページにある作品です。今回は、当時ならどの家庭でもごく普通に見られた一場面、行灯の明かりで針仕事をする女性を選びました。

色に「じゃま」をされないために線の形だけが視界に入り、美術的な疑問に真っ向から直面することになります。針仕事をしている女性だということは、一目で分かる絵ですから、絵師がきちんと「役割」を果たしているのは明らかです。そしてもしも、「これは写実的に見えるだろうか?」と疑問を投げかけられたら、おそらく誰もが肯定することでしょう。「抽象的」な箇所などどこにもないのですから。

でも丁寧に絵を観察すると、祐信は「写実的に描けない」ということが分かります。人間の身体バランスが完全に歪められているのです。人の手は、開くと丁度顔の大きさになりますが、この女性の手は奇妙なほど小さく、上体は不自然なほど長く、口などは普通の大きさの数分の1くらいしかありません。もしも私が人物を描くクラスを受講していて、この絵を提出したら、どのように評価されるでしょうか。

この「バランスの不自然さ」以上に驚くべきことは、浮世絵を代々受け継いで描いてきた絵師たちのほとんどが、まったく同じ慣例に従ったということです。どの絵師も師匠の描き方を踏襲しているのです。目前にある物が見えなかったのでしょうか?

もちろん、見えていました。でも、このシリーズでこれからも繰り返しご覧になるように、「写実性」は重要でなかったのです。カメラが発明される以前、絵師たちの主な社会的役割は、見たものを正確に記録することだったはずなのに、彼らは写実的に描く意図などなかったのです。明治時代になって、カメラが写した本物の「写実性」を示されるまで、彼らは、ほとんど変わらずに続く慣例という枠の中にしっかり収まりきっていました。

おかしい、どこもかしこも変。それなのに、人間が創り出した最高傑作です!

平成22年9月

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