あとがき 先日、アメリカの収集家の方からちょっと面白い手紙をもらいました。いつか、版画は和室に座卓を置いて障子越しの明りで見ると一番きれいだと書いたのですが、彼はこれを読んで困ってしまったのです。アメリカの家には和室などありませんし、障子もありません。でも彼は簡単にはあきらめなかったのです。テーブルの向こうのちょっと離れた所にろうそくを置いて、その柔らかな明りで版画を眺めていると書いてきました。こうして眺めると版画がとても美しいそうです。 彼がこうして版画を味わってくれているのを聞いて、私はもちろんとても嬉しくなりましたが、同時に複雑な気持にもなったのです。きれいな女性は、ろうそくの明りの下で見るとうっとりとする程きれいに見えてしまいますよね。でもこんなことは、ちょと気のつく女性なら昔から知っていたのです。ろうそくの明りはなんでもきれいに見せてしまうということを...。版画家として、これは危険な事です!もしも私が、ろうそくの明りの下で試し摺りを点検したら、配色が悪くてもバレンの圧力が弱くても他にどんな手落ちがあっても、当然きれいに見えてしまいますから。ろうそくの明りの下だと欠陥があっても、きれいに見えてしまうのです。ですから、収集家の方達はそうした方法で版画を楽しまれても、版画家の私はそれは避けなければならないのです。版画を作っている時には手落ちを見逃せませんから、できる限り冷静かつ客観的な目で、厳しい光源を用いて見つめなければいけないのです。 ですから、皆さんに版画をお送りする時には、苛酷なほど明るい光に当てて版画の点検や片押し、そして署名をするのです。すると、毎月その度に同じ思いに浸ります...ああ、まだまだ。彫刻刀の扱いが粗いところ、バレンの力が足りなくて顔料が紙の中に十分染込んでいないところ、こんなところが目のなかに飛び込んでくるのです。美しさなど目に入らず、ただ欠点ばかりが目立ちます。 でも、これは皆さんに情けない思いを訴えているわけではありません。このようにして作品を見るということは、私にとって絶対に必要なのですから。こうして難点を詳しく調べなくては、前進も進歩もないのですから。けれども、私デービッドは版画を作っているだけでなく収集家でもあります。「摺物」は、ほとんどを発送してしまいますが、ひとセットは自分用にとってあって、時々は皆さんのように本棚からアルバムを取り出して開き、版画を鑑賞します。そんな時には「批評家の目」は閉じて、ただひたすら楽しみます。この版画はうまくできたなあ、とか、これは...とか。 こうして、寛いで作品を眺めるひと時、自分の仕事にとても満足します。日本人は、自分のことを誉めるのはあまり良しとしないようですが、この摺物アルバムは堂々と貴重な作品だと公言したい思いです。私は、古本屋を覗いて面白い本や版画を探すのがとても好きですが、時折どうしてもこんな事を思い浮かべてしまうのです。いつかずうっと先の未来に、ある若者がほこりだらけの箱の中をごそごそやっている。そうしているうちに、中からこのアルバムを見つけ出したら.....。そうして彼が中を見たら、きっとこの掘り出し物に小躍りして喜ぶと思うのです。私にこんなことが起きたら、もう大喜びです! 未来のその若者はきっと、私がこの摺物アルバムを作ったことに感謝するでしょう。その時、これを作っている私を一年間支えてくださった収集家の方達に対しても、きっと感謝するように記しておきたいのです。というわけで、次のページに彼(あるいは未来の所有者となる人)がわかるように皆様の名前を記しておきます。 このアルバムは見本もない状態でスタートいたしました。毎月どんな版画が送られてくるのか皆目わからなかったにもかかわらず、予約をして一年間私の製作を支えてくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。この製作の喜びを皆様と分かち合えましたことを願って止みません。 平成12年1月 デービッド |
1999 「摺物アルバム」の収集家
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