昨年の秋NHKから、「ジャパノファイルス(日本大好き)」という番組を制作するので出演しないかという打診がありました。依頼の内容を詳しく聞くと、私の仕事に関する30分のドキュメンタリーが主な内容になるだけでなく、それがNHKのワールドチャンネを通して英語で世界中に配信されるというのです。私は、喜んで参加すると伝えました。願っても無い好機だと思いました!
撮影が始まる前に、チーフプロデューサーが私を訪ねてきました。1回ではなく、2回でもなく、3回です! そして毎回、番組に関する様々な案を出し合って議論しました。私は、こういった番組に関しては山ほどのアイデアを暖めているので(読者ならもうご存知ですよね)、あれやこれやと自分の仕事に関する説明をし、彼はもっぱら聞き役としてメモを取っていました。その後、プロデューサーとそのスタッフは番組の粗筋を示す台本を書き、番組ホストを勤めるピーター・バラカンと私がそれに従うことになったのです。
番組収録の日が近づくとプロデューサーは、スタジオに持参して欲しい品々を電話で連絡してきました。主な品は、スタジオに飾る私の作品ですが、ちょっとした実演ができるような道具も持ち込むようにとのことでした。また項目の中には、自宅で彼と話をしているときに見せたある物も含まれていました。それは何年か前に、彫師の伊藤進さんが亡くなった後に、奥様から頂戴した古い彫刻刀でした。版画を始めたばかりの頃、私は伊藤さんに随分お世話になっていましたから、それをご存知だった奥さんは、私が喜ぶだろうと思い、彼の形見としてくださったのです。この品を番組で紹介するのは嬉しいことなので、その彫刻刀を丁寧に包み、胸のポケットに滑り込ませで家を出ました。
スタジオに入ると、すぐに作業開始でした。NHKの職員はとても効率的に仕事をしますし、ピーターも私もこういったことに関してはかなり経験を積んでいるので、録画は順調に進行しました。私たちは、会話が自然に聞こえるよう、一語一句台本通りに話すようなことはしませんでした。ピーターが私に質問をしながら話題を正しい方向に導き、会話は自然に流れたのです。収録の最終段階になって、私が質問された通りに、現在の「美の謎」シリーズを支える概念について説明をして、ちょっと間を置いて話の進行方向についてプロデューサーから送られる次の指示を待っていたときのことです。前方のカメラに写らない位置に立っていた彼は、私に身振りで合図を送ってきました。自分のシャツのポケットを指で示し、次に私の同じ場所を指差したのです。
彼の意図をすぐに察した私は、胸のポケットから伊藤さんの彫刻刀を取り出しました。保護用の覆いを取払い、はっきりカメラに写るように持ち、用意された台本のことはすっかり忘れて、ピーターに(世界中の人たちにも)ちょっとした話をしました。
伊藤さんが残したこの彫刻刀を見る度に私は、どれほど自分が木版画技法を理解しきれていないかを実感するということについて語りました。単純に言ってしまえば、この彫刻刀を使えないのです。もしもこれを使って彫りをすれば、すぐに刃が欠けてしまうでしょう。それほど繊細なのです。では、一体どうすればいいのか? 私はもうすぐ60才ですが、版画制作に携わった年数は30年、そのうち20年以上はプロとして活動しています。手がけた版画は何百種類、摺った枚数は何万枚にもなります。かなり高度な腕を持ち、正直なところ、世界で5本の指に入るレベルです。
この彫刻刀を使えない理由は、自分がまだ若すぎて、道具を使うときに体力を使い過ぎるからです。バレンを使って摺るときも同じです。強く押し過ぎるのです。強く押し過ぎることが感覚で分かります。どの分野の職人でも、どの厨房で働く料理人でも、仕事のほとんどは、品質の高い刃を始めとして「道具自体」がするということを知っています。
でも、誤解しないでください。自分の力不足を不名誉と頭を垂れているのではありませんよ。それどころか、まだ自分には向上の余地があることを認識している、と主張しているのです。伊藤さんの彫刻刀は、驚くほど繊細に研がれていて、その限界を完璧に提示しているのです。
私は、いくつもの段階を経て上達してきました。目立った進歩が見られず平衡状態を保ったまま暫く時が過ぎたかと思うと、突然1歩上の段階に成長します。番組の中で視聴者に向かってこの彫刻刀を紹介することは、私が次の壁を突破する準備ができていることを思い起こさせてくれました。来月の作品を彫り始めるときには、彫刻刀をもう少し鋭利な角度に研いでみようと思います。ほんの少しだけ伊藤さんに近づき、作業をするときには、自分が思う方向に刃を押すのではなく、彫刻刀自体に線を辿らせるように刃を誘導していくつもりです。
今回のNHKの収録には、ふたつの意味で感謝をしています。ひとつは世界中の人たちに私の仕事を紹介してくれたこと、もうひとつは、絶えず学び続ける姿勢を私に再確認させてくれたことです!
インターネットを利用している方は、この番組を私のホームページで見ることができます。サイトの中の「木版新聞」というコーナーで 、今まで出演した他の番組と一緒に掲載しています。
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