デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

春はいい。冬の間は、死んでいるかのように見える庭の木々に心穏やかならず、近寄って固い蕾を見ては心を慰めていたが、今はそんな必要がない。日一日と庭全体が生き返る様子を見ると嬉しくてたまらず、早朝の庭に飛び出して草木に話しかけている。

この季節がやってくると植物の手入れ作業が増えはじめ、特に今は鉢植えの植物の植え替え作業が欠かせない。生長して根詰まりを起こしている植物は一回り大きな鉢に植え替えたり株分けをしてやる。ナイフで鉢に絡み付いた根を引き剥がして、スポッと鉢から抜き出し、枯れ葉や枯れ茎を除く作業は嫌ではない。が、どうしても気後れのする作業がひとつある。それは、デンドロビウムの植え替えである。

この植物、今年花を咲かせた茎には翌年花芽を付けない。もう「御用済み」なのである。だから、水苔からひと株ずつ抜き出して3分類をすることになる。1番グループは、株が充実してきているが今年は咲かなかった株。人間で言えば思春期の子供たちだろうか。この子たちは、ちょっときれいな鉢に植えて来年の「晴れ舞台」の下準備をしてやる。2番目は、まだ頼りなくて再来年になったら花を咲かせそうな株。人間で言えば、小学生か幼稚園あたりの可愛さがある。この子たちもまとめて鉢に植えてやる。さて、困り者が第3グループである。「あなたたちはもう場所塞ぎなのよ。ご免ね、許してね。」と泣く泣く処分するのが、なんとも後ろめたいのだ。

この作業、50代頃までは何とも思わなかったのだが、還暦が近づく頃からどうもいけない。姨捨山に背負って運ばれる自分を想像してしまうので、作業の間中嫌な思いをする。心苦しくて第1グループと一緒に残してしまった年があったが、これはもっと無惨だった。花が咲く頃になると、葉を落としたままの色褪せた茎が、溌剌と花芽を膨らませている茎に混じってヌボッと立っていたのだ。見るも哀れで根元から、ちょん切った覚えがある。

こんなことにこだわるなんて、私はそれほど自信のない状態で老年を迎えようとしているのだろうか。日常を振り返り、自分のしていることを具体的に挙げてみれば、まだまだ家族のみならず人様のお役に立つこともしているようだし、娘や孫たちに教えられることも少なからずあるのだから、無用の長物と化しているとは思えない。一体なぜだろうか?

おやおや聞こえてきました、おひげさんの声が。「何言ってるんだい。植物に話しかけるなんておかしいよ。それに僕は生涯現役、命尽きるまで邁進するのみさ。」

一言付け加えていいかしらん。このデンドロ、10年以上も前にお宅のベランダにあった鉢の高芽からの子孫なのよ。覚えてないでしょう!!

コメントする