デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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「職人を訪ねて」 : ピーター・ミラー氏

最後にこのコーナーを掲載したのは、何年も前でしたね。今回は久しぶりの復帰ですが、題の意味をいつもより拡大解釈することになります。今回の「職人」は、木版画に関わる人ではありません。では、どうしてピーター・ミラー氏がこのコーナーで紹介されるのでしょう? 答えは単純です。彼は版画制作をすることによって、常々僕が「この惑星に生を受けた人間なら、与えられた時をこのように使うのが大事だ」と思っていることの多くを、完璧なまでに具現しているからです。このことを、分かっていただけるように書いてみると......。

ここにある作品は、ちょっと見たところ写真のように思えることでしょう。実際、写真に写された像はピーターの作品を創り出すための最初のステップとなります。でも、ほんの最初のステップに過ぎません。彼がカメラのファインダーから覗いて見る像は、最終的に作品となる「種」のような存在です。彼が使うのは、フォトグラヴュールという、写真ができたばかりの最も初期に用いられたエッチング技法です。ごく単純に説明すると、カメラで撮影した像を感光性の防剤を用いて銅版に腐食させ(エッチング)それをプレス機にかけて版画を作ります。

実際には、この単純な説明の影に、非常に詳細で複雑な世界がすべて隠れている訳で(それは僕の木版画も同じですが)、その繊細な部分にこそピーターが彼の芸術作品を生み出す源があるのです。黒はどの程度濃くするか? それぞれの濃淡をどのくらいはっきりさせるか。インクはどんな色合いに混合するか。良い作品を創り出すために、無数ともいえるほどの要素を調整してゆくのです。そして、僕の木版画よりもずっと労力を要する刷りの工程段階にあるときにも、作品は変化し続けるのです。初期に刷られた作品は「くっきり」とした印象がありますが、刷り進むに連れて、何度も拭かれたり圧力をかけられたりするうちに銅版面にあるかすかな溝が徐々に変化して、より柔らかな印象を持つようになるのです。刷り続ける本人はそこに、像が本来持つ可能性をより深く知るようになります。彼が版にインクを広げて拭き取ることで、一枚一枚絵を塗っていると言ったら大げさかも知れませんが、全くの誇張とは言えません! このように、制作の工程は恐ろしく複雑ですが、インクが深く紙に浸透して作られる美しい立体性のある作品は、その努力に十分報われる芸術です。

ピーターさんは、鎌倉の丘にある閑静な住宅街に建つスタジオ兼自宅に、奥様の裕子さんと暮らしています。彼は、私よりも長く日本に住んでいますが、電子メールのやり取りはしていたものの、お会いしたのは今回が初めてです。貞子さんと一緒に尋ねると、裏に広がる小山の中の道を一緒に散歩したりしながら、とてもお互いを理解し合えるようになりました。

私ととても似ているのは、ピーターも自分が芸術家になるなどとは思っていなかったし、そんなつもりもなかったという点です。彼が受けた教育も勤めた会社も畑違いの分野でした。でも、彼の言葉を借りると、「紫外線照射の様々な使い方を知っているという偶然......半導体ウエハー、回路基板、速乾性の商業用インク、接着剤、光ファイバーそして......フォトグラヴュール......」とあるので、今日に至る種はすでに蒔かれていたようです。その後、19世紀のフォトグラヴュールの展覧会を見たことがきっかけとなり、眠っていた種が発芽し自分自身で作りたいという欲望へと生長したのです。

彼は作り方を知っていたでしょうか? 答えは否。師がいたでしょうか? 否。彼のホームページから引用すると、(私自身も一語一句同じことを言うかもしれません)「......歴史的資料を調べ、材料を手に入れ、試行錯誤を繰り替えしたあげく、ほとんど失敗!」とはいえ、「失敗」の日々はすでに過去、私たちは訪ねた日の昼下がり、今まで彼が制作してきた何百という作品の一部を、スタジオで見せていただきました。初期の作品には、手近な鎌倉で見つけた寺や風景がありますが、その後はテーマの対象をモンゴル、スカンジナビア、そして壮大なネパールのヒマラヤ山麓へと拡大しています。

フォトグラヴュールの知識を身に付けているうちに、彼は自分の得たことを他の人にも伝える責任があると感じるようになりました。ホームページでは、この美術工芸の手法についての情報もたくさん掲載してあります。私も大いに同感することですが、彼はこう言うのです。自分達のような版画家には競争相手となる存在がいるとは思えない。そして、僕と同じ制作に取り組み、熟練を積む人が増えれば増えるほど、僕たちの芸術はより多くの人々に広まって行くと思う、と。

私たちは、展示会場などで、自分たちのしていることを来場者に理解してもらえず、いらだち失望する時の気持ちについて語り合い、まるで戦友同士のような気分になりました。自分たちの作品を市場に出すだけでは不十分。この感動を他の人たちに伝える努力を精一杯しなくてはいけない。なぜなら、そういった交流を深めてこそ自分たちの芸術への理解を深めてもらえるのだから。

彼はある展示会場でのこんなエピソードを話してくれました。彼が来場した若い女性に、複雑なフォトグラヴュールの工程をじっくり説明すると、その後こう聞かれたというのです。「どうしてこんなことをするんですか?」きっとこの女性は、若さ故にこんな質問をしたのでしょう。若すぎて、究極の美を追求する人間は何事にも怯(ひる)まない、ということが分からなかったのです。

どんなに複雑な工程であっても、どれほど困難で長期にわたる挑戦であっても、登るには恐ろしく高い山であっても。 ちょっと感傷的になりすぎましたか? そうかも知れません。でも、だからといって真実から外れてなどいません。ピーター、君の親切と僕たちみんなにひとつの生き方を提示してくれていることに、とても感謝しているよ。

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