近頃は、月に数回しか電車に乗ることがない。だから、単調な揺れに体を委ねながら周囲の人を観察するのが面白い。ここ数年目立つのは、車内でお化粧をする女性である。コンパクトな鏡をハンドバックの上に器用に立てかけて、マスカラはおろか「付けまつ毛」すら付けてしまう人がいる。かと思えば、簡単に化粧を済ませておにぎりを食べ始める女性を見た事もある。もちろん私はジロジロ見たりしない。「見知らぬ人をじっと見たりしちゃだめよ。失礼だからね」と母に厳しく躾けられて育っているから、広げた本を読んでいるふりをして盗み見た。そして、本に顔を埋めながら考えてみた。
化粧や多少の飲食は、ほとんど周囲に迷惑をかけない。ひとりでふたり分の座席を占拠するわけじゃなし、大音量がヘッドホンから漏れて不快な振動音をまき散らすこともない、鼻くそをほじるオッさんよりもずうっとましである。なら、彼女たちの行為は、一人分の座席の範囲内で多少の芳香をまき散らす程度のご愛嬌として許せるのだろうか。何がいけない?
こう考えてくると浮かんでくるのは「羞恥心」という言葉である。彼女たちにとっては、スッピンで職場に着くことの方が、車内で化粧をするよりも恥ずかしいことなのかも知れず、車内にいる知らない人達の目など羞恥を感じる対象ではないのだ。車内で確保した座席は、自宅の延長なのだろう。もしかしたら、20年近くも前に買ったリネンのブラウスを平然と着ている私の方こそ「ハッズカシイおばさん」と見られているのかも知れない。
こんな風に考え出したのは、近頃言葉の難しさを意識することが多いからだろう。言葉は、各人の生きてきた背景や価値観に深く裏打ちされて使われるため、意志の疎通を阻むことがあるからだ。水掛け論はその典型かもしれない。
それにしても、車内で化粧に励む女の子と面と向って会話をするはめにでもなったら、自分はどう切り込むのだろうか。 ページをめくる事なく本に顔を埋めながらそんな状況を思い浮かべていると、飽きる事がない。
さて、件のデービッドだが、書くことに関するエネルギーは枯れる事がない。それで私は、自分の力不足に辟易しながら、彼の書いた文を自国の言葉に置き換える作業にせっせと励む。だが、どうにも納得できず訳せない文に出くわすことがある。そんな時、私は鍵となる単語の背景を求めてデービッドと雑談を始め、私達の解釈の「ずれ」を見つけようとする。ここが作業の中で最も楽しい、と同時に一番厄介で根の入る部分でもある。
言葉は、その国の文化的背景を背負っているだけでなく、使われる度に個人の価値観や主観までも着せられて、紙に記され空中を舞う。大切にしたいものである!
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