デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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沼辺伸吉さん

このニュースレターを始めた頃には、年に何回も版画に関わる職人達を訪ねて紹介したものでした。彫師や摺師だけでなく、道具や材料を提供して、いわば舞台裏で貢献する人達も訪問しています。

でも最近は、その流れを途絶えさせていたようです。おそらく、職人を訪ねて仕事に関する助言を求める必要がだんだん減ってきたからでしょう。でも、「木版館」という出版事業を始めたので、他の職人達と会う機会が再び増え、このコーナーを復活させる手頃なきっかけとなりました。

今までここに取り上げてきた職人達はみんな、私よりかなり年長でしたが、今回はその点では釣り合いの取れた人選です。誕生日がほんのふた月しか違わない、私と同世代の職人です。

沼辺伸吉さんがどうして木版画に興味を持つようになったのかを聞いていると、ハッと気付くことがありました。私の経験とそっくりなんです!私の場合は、カナダでとある通りを歩いている時にたまたま飾ってあった版画に出会ったのですが、彼の場合も、ちょっと買物をしようと立ち寄ったデパートに版画が展示してあったというのです。ふたりとも、その時の出会いで人生の方向が変わっています。

沼辺さんは、版画と偶然出会う以前に美術専門学校で2年間勉強していました。当然のことながら、その分野で生計を立てることはおよそ困難でした。そんな折に彼がデパートで見たものは、新らしい世界への扉を開いたのです。なぜなら、木版画が展示されていただけではなく、実演をする職人がそこにいたからです。私自身、実演の経験はたくさんありますから、その日にどんなことが起きたか、容易く想像ができます。実演をしていると、1分かそこらの間見てすぐにぶらぶら歩き去ってしまう人がほとんど。ちょっとばかり長く見ている人が数人はいるものの、その人達もすぐにふらりと行ってしまいます。ところが、やってきて立ち止まり、ちょっと見た後に去ろうとして思い留まり、今度はちょっと長いこと見ていて、それが長くなる。そんな人が 時折いるのです。注意を引く何かがあるのかもしれません。軽やかで流れるような職人の動作に見とれたのか、紙に付いた色が魅力的だったのか、あるいは単純な工程から素晴らしい結果が生み出されるという対照的なところが、まるで手品みたいに好奇心をそそられたのかもしれません。

いずれにしろ、沼辺さんはそこで釘付けになってしまったのです。その日実演をしていた摺師の中条さんは、彼にしばらく訓練を積むことのできる工房を紹介してくれました。沼辺さんは、しばらくそこで勉強し、腰を据えてやって行く気のあることが認められてから、中条さんの弟子としてさらに腕を磨くことになりました。摺りを学ぶ初期の段階では、生活できるほどの仕事はできません。ですから沼辺さんは、腕に力を付けながら様々なアルバイトをしました。誰かに言われてこの業界に入ったのではなく自分で選んだ道ですから、上達は早く、自立できるまで長くはかかりませんでした。そして現在は、東京で屈指の摺師のひとりとなっています。

私達ふたりの大きな違いは、自分の選んだ仕事だけをしている私に対し、沼辺さんは「雇われ摺師」という立場をとっているため、あらゆる種類の木版画をおびただしい量こなして経験を積み重ねてきているという点です。伝統的なものや現代風のもの、小さいもの大きなもの、単純なものも複雑なものもと... 加えて、中条さんやその後の小松さんといった摺師と台を並べて仕事ができたため、経験豊かな人たちから学び吸収できるという好機に恵まれていました。彼の蓄積した技術は、私よりもはるかに幅が広いので、彼の作業場に行くといつも自分の仕事の役に立つ何かを学んできます。(かといって、いつも一方通行ではありません。私なりに独自に開発した多岐にわたる技法もいろいろとあるので、ふたりが会うといつも様々な技術を分かち合うのです。)

沼辺さんが今まで摺台から送り出してきた作品には、ほとんど彼の名前が入っていません。版元が一組の版木を彼に送ると、それを取り出して摺る。もちろん作品に彼の名前はなく、出来上がりを版元が販売することになります。でも、木版館の企画で彼に摺を依頼する場合は、出来上がった版画のどこかに(余白があれば)職人の名前を入れたいと考えています。もちろん彼はそんなことを要求しませんが、この案に反対もしていません。私同様、彼だって控えめながら自分の仕事に誇りをもっていると思うのです。そして、余白に彼の名前があれば、その作品の出来を明示することになる、と私は考えたいのです。

もしもみなさんが、木版館の摺に関して私達が価格交渉をしているの聞いたとしたら、きっと呆れることでしょう。版元ができるだけ摺の工賃を安くしようとし、摺師はできるだけたくさん要求しようとする、そんな予想を裏切って、双方が相手の立場を優先しているからです。事は逆で、自分の側を安くしようとしているのですから!私は、彼の仕事に満足で、事業を成功させるために不可欠な人材と受け止めています。彼の方も、力を発揮するために版元は必要ですし、喜んで仕事をしてくれています。

最近町で目にする真新しい版画を見れば、ほとんどが私達とは異なる仕方で作られていることが分ります。「価格を押さえる」という名目のために、より安い紙で手早く荒っぽい作り方をしているのです。沼辺さんと私は、そんな無駄な事をするために力量を積み上げてきたのではありません。私達は、円やドルを得るためでなく、ひたすら美しい版画を自分たちの摺台から生み出してゆくという喜びを求めているのです。金は天下の回りもの、なんとかなると...

彼も私も55歳、バレンを握るのを諦める日が来るまでには、まだまだたくさんの優れた作品を作る時間があるはずです。末永く沼辺さんと一緒に仕事を続けられますように!

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