デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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数秒間の旅

香りというのは面白い。この香り、あの香りということはできるが、実際の環境には様々な匂いが入り交じっていて、しかも湿度など様々な要素の影響を受ける。だから、嗅覚で感じていると思っても、実際は体全体で感じる匂いというのがあるのだと思う。温度、湿度、空気の透明度、木々の葉の発する香気、当人の心理状態... こういった無数の条件が偶然に揃うと、その時にだけ、まるで煙が湧き出るように体を包み、人を過去の記憶へと引き込んで行く。忙しなく動き回っている時には起きない。心の中にちょっとしたゆとりがあり、懐かしい香りに出会うと、そんな数秒の旅を体験するチャンスがある。

先日、珍しく歩いて図書館に向かうと、突然ある香りの霧に包まれ始めた。来るかな来るかな?カメラのピントが合いそうになると行き過ぎて徐々にくっきりと画像を映し出して行く、ちょうどそんな感覚である。私はついに立ち止まった。

私は小学4年生くらい、仲良しになった友達が「カバンを置いたら家においでよ、途中まで迎え行ってやるからさ。」と言う。

彼女の家は、学校の裏門を出て自宅とは反対方向にある。単純な道で、ただただまっすぐ行けば踏切があるからそれを渡って、またまっすぐ行けば良いと言う。そのあたりに着く頃には彼女が向いに出ているからと言う。私は走って自宅に戻り、カバンを置くと、母親の呼びかけにも生返事で学校までかけ戻った。さて、裏門までは良し。だが、そこからは一歩も先に行ったことがなかった。裏門を通り過ぎて未知の世界に入ってからは、急に歩幅が狭まりゆっくり歩きとなった。心臓がどきどきしている。友達の姿はまだ見えない。すぐに踏切が見えたので、ちょっと安心して歩幅が広がる。踏切を過ぎて間もなく道が二手に分かれた。のろのろ歩きとなる。

蒸し暑く、生い茂る草の香りが強烈に匂う。「真っすぐって、どっちの方だろう」逡巡して動けなくなった時、大きな声が聞こえた「おお〜い!」素晴らし笑顔をする友達だった。長いお下げで、そばかすの多い顔をくしゃくしゃにして笑う。「ああ良かった!」

その瞬間、私は香りの霧の外に出てしまっていた。ほんの数秒間のタイムトラベル、それも数年に一度だけのチャンス、昔の自分を抱きしめたい気持ちだった。

もうお分かりだろうが、このタイムトラベルは誰とも一緒に味わうことができない。どんなに長い時間を一緒に過ごしている人とでも。なぜなら、個人の体が感じるものだから。それなのに、うっかり共有できるかのように錯覚することがある。

それは妹に貰ったピンクの花の形をした石鹸だった。ある日、その小さな石鹸を手の平で包むように泡立てていると、あっこの香り! デービッドのふたりの娘さんはまだ小学生、彼の髭はまだ黒々としていて、かわいいふたりの娘を見る目は優しい。男やもめの体が動く度に良い香りが流れるのだが、それはあまりにも男性には不釣り合い、まるで女の子の香りである。子供のシャンプーを一緒に使っているのかも知れない。フフフッと笑った瞬間、現実に引き戻されてしまった。

その数日後、デービッドが家にやってきた。ふとこの石鹸のことを思い出し、彼の鼻先に持って行き、「ねえこの匂い覚えてる?」だが、まるで反応なし。洗面所に走り、濡らした両手に石鹸をこすりつけて、鼻先に広げてみると、...「君なにやってんの?」

そっかあ、一緒に行けないタイムトラベルなんだっけ。

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