今私は、夏の終わりの鬱蒼した庭を眺めながらこの文章を書いている。9月半ば、夏の疲れが体に蓄積しているのだろうか、気力がでない。蒸し暑い夜には、冷房にタイマーをセットして床に入るのだが、すっきりとしない目覚めを向かえる。ギラつく太陽に向かって海へ飛び出していき、日焼けした肌を自慢していた頃の自分を、ボンヤリと恨めしく思い出す。
8月が終わりに近づくと、台風の到来が始まり、そのあとは一気に秋の風が吹き始めた。窓を開け放って自然の風に身を任せる心地良さに、ふと酔いしれていると、庭のどこかに今年も巣を作ったのだろう、ハトがしきりと鳴いている。気怠さを一層深めるように。...と、ここまでで怠惰な私の世界は終わり。
先日、デービッドがこんなことを言った。「僕さ、今日は、ちっとも疲れるようなことをしてないのに、なんだか気怠くってさ、意欲が出ないんだよ。怠慢だよね〜。」あったりまえでしょ!疲れというのは見えないところで蓄積して、ひょっこり出てくるのだから。私の友達はみんな夏の疲れを感じているわよ。ところが、彼は納得しない。その直前に思い当たる重労働をしていなければ、疲れを感じるはずがないという論理を曲げないのである。
傍目と当人の感覚のずれというのは実に面白い。デービッドに言わせれば、のんびり優雅に暮らす自分を時折申し訳なく思うそうである。確かに、目の前の緑に目を休ませながら版画を作っている。そして言う、「さっと視界にはいってくる美しい鳥に心をときめかせたりできるなんて素晴らしいだろう」と。確かに良い環境である。だが、2週間毎に作品を発送し、季刊紙を発行し、帳簿付けからホームページの管理にいたるまで、何役こなしているのだろう。おまけに、そろそろ来年の企画の詰めに入らないと、にっちもさっちも行かなくなりそうである。彼の状況を横目で見ているだけで、私はぐったり疲れてしまう。
ところが私との接点で見せる生身のデービッドは、正直なところ実に優雅である。せかせか動き回るのは私の方で、「ねえ君、ちっともじっとしてられないんだね〜!」と言われる。
先日、彼がこう言った、「君さあ、昨日はすごい瞬間を見逃したんだよ。あと数秒遅く帰ればよかったのに〜!」私は一体、どんな素晴らしいシーンを見逃したのだろうか...。ここ数年、彼の家の南面の壁を覆うヤブガラシを舞台に、幾種類もの蜂とジャンボ芋虫を主人公とした様々なドラマが展開するそうである。私が帰った直後、玄関前でデービッドが発見したドラマとは、こんな筋書きである。「ヤブガラシの蔦を伝って登っていった大きなカマキリが、じっと狙いを定めた。と、その瞬間、長い前足をさっと振りかざしたかと思うと、蜂を捉え、パクリと頭を食べてしまった。そのすごさと言ったら、...。」
あのね、興奮して語るデービッドを見るだけで、私もう満足だわ。あなた自身がドラマだもの。
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