デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

ハリファックスから羽村へ

このところ書いてきた事柄—音楽店に勤めながら趣味で木版画を作っていたこと—は20年以上も前のことなので、当時私が何を考え、どうしようと思っていたのかを正確に思い出すことは簡単ではありません。でも私はしっかり記録をつけるほうで、ここ青梅の地下室には私の記憶を呼び起こすようなものがいくつか眠っているのです!

写真1は私たちの小さなアパートの部屋で撮影したものです。え?カナダのアパートに障子ですか?ええ、もちろん、最初からあったわけではありませんよ!当時私は「日本のもの」に相当いれこんでいたので、窓にカーテンをかけるかわりに、障子を作ってしまったのです。(大変よくできていました。釘も糊もまったく使っていません。すべてがぴったりとおさまっていました。)そしてフルート。はたしてあの小さかった日実ちゃんは、父親が楽器を演奏していたことを少しでも覚えているでしょうか?まず覚えていないでしょうね。この写真を撮って1年くらい後には、フルートは箱にかたづけられてしまって、そのままになっていたのですから....


写真2は、アパートの別の部屋の写真です。私は古本屋で日本に関するものをくまなく探し回っていました。日本の歴史とか日本の芸術とか。それらは棚の中で日に日に高さを増していきました。思い出します。これらの本をどれほど熱心に読んだことか。勉強なんて大嫌いだったのに。もし、先生からこういう課題を与えられていたなら、とっくにやめていたことでしょう。でも自分の興味があるものなら、話はまったく違います!


写真3は、私が懐月堂の絵を複製したものです。これは何年も前からやろうと思っていたことで、日本への旅行中、このために特大の版木を注文しました。この版画は1984年半ばに作ったものです。そして、これがその後の2年間でほとんど最後の作品となりました。その年の冬に作った小さな挨拶状を別にすれば、次に彫刻刀を握ったのは、日本に来てからのことでした...

どうしてでしょうか?日本の版画にそれほど惹かれていたなら、どうしてもっと作ろうとしなかったのでしょうか?私の狙いが少し変わったのです...週末の趣味として版画作りを続けるのではなく、「版画に生きたい」と考えるようになったのです。そこで、版画製作で収入を得る方法を模索し始めました。その結果を、地下室の資料の中に見つけることができます。記録でいっぱいのバインダー...木版画の出店販売の記録です!

音楽店の社長は、私が版画職人として生活したいと模索し始めていることを知っていました。私が日本の版画事情を学びに行きたがっていることをよく知っていて、あの3ヶ月の休暇を与えてもくれたのです。私のこうした行動に文句を言うどころか手助けをしてくれたのですから、実に寛大な人だったことがわかります。

私の住んでいた州のあちこちで開催される工芸品祭りに行くような人たちは、木版画職人が作業をしているところを見るのに興味をもつのではないか、と思いました。そこで私の作品からいくつかを選んで額に入れ、解説資料などと共に陳列できるような組み立て式の展示台を作り、銀行口座を開設、売り上げ税の登録もしました。また、自分が参加できそうな催し物の情報を集めては申し込みを送り、音楽店を休める日と催し物に参加できる日が一致するように予定を組んで、版画職人としてのサイドビジネスを開始しました。

で、どうなったかというと...金銭出納簿の最後のページに、売上総額が書かれています....1年間で133ドル23セント...

さ〜て、どうしましょうか?

コメントする