デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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寝食を忘れて?

もうひと昔以前の事だが、「恍惚の人」という小説が話題になり、映画化もされたと思う。当時20代だった私にとって老いは遥か地平線の彼方にあったので、本の内容はどこまでも'話'であって実感が伴わなかった。それでも、小説の主人公が作り出す数々のエピソードに、「そんなこともあるんだろうなあ、私もいつかそんなになるのだろうか?」と興味を持って読み続けた。ある日主人公は、大鍋いっぱいに作った煮物をちょっとの隙にぺろりと平らげてしまったとう件があって、老いは満腹中枢をも麻痺させてしまうことがあるのだろうかと不思議だった。

50代に入り、私にとって老いはひと事ではなく、いくら自らを律しても避けられない生理的現象ならば、惚けることで救われるのもよかろうと考えるようになってきた。恥ずかしいとか、情けないとか悩むよりも、素直に世話をしてくれる人に子供のように甘えるのもいいじゃないかと。もちろん娘達にできるだけ迷惑をかけまいと、心身共に健康管理には気を配っているのだが、それでも、近頃ちょっと不安になることが起きた。ひとりの夕食をちょっと早めに摂り、仕事をしていたら、いつも食べる時間になって、「さあ何を食べようか」と台所に向かったのである。水切り籠に洗い終わった茶わんを見て、数秒ぼんやり、そして愕然とした。両手を胃の上に持っていき目を閉じると、空腹ではない!湯飲みだけを持って、すごすごと居間に移動、気持ちを静めるのに数分かかった。

その翌日、デービッドが深刻な顔をして顔を近付けてくると、こんなことを言い出した。「僕ねえ、昨日の昼にね、昼御飯を暖めようと電子レンジを開けたら、食べていない朝食がそのまま入っていたんだよ,,.食べるつもりで暖めたのに、食べるの忘れちゃったみたい。」

「そんなに夢中で仕事していたの?寝食を忘れる程、版画が好きなのねえ!」

「ううん、そうじゃないんだ、お腹が空かなかっただけなんだよ。今まで機械的に必要以上の食物を腹に入れていたんだなあ。」

この人、惚けたら食べるの忘れて、版画作りながら消えちゃう!

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